第16話
私にとって当たり前な生活とは、満遍なくこなすこと。
道中、スマートフォンのトークアプリを起動し履歴を確認する。
ミズキ以外の人と最後に連絡を取ったのは九月の中頃、ちょうど栞と一緒にいるようになった時期まで遡る。その相手とも、部活を休む連絡をしただけだった。
つまりそれは、この二か月間当たり前の生活を送っていなかったという証明で。
今さら戻れるのか不安でも、ひとつひとつ「当たり前」を取り戻さないといけない。
栞が自分のスマホを持っていれば、この件に関しては気にしなくてよかったのかもしれないけど。
昼食を取るために街中のカフェに入り、サンドイッチを頼んで席につく。店内は若者で賑わっていて、中高生の姿も見られた。
クラッカーが弾けるように聞こえてくる女子グループの笑い声。
隣のカップルは笑顔で向かい合い、まるでガラス玉を投げ合うように慎重に言葉を選んで会話をしている。
一人ぼっちの私にとって、少し照明を落とした店内はまるで蜂の巣の中にいるようだった。
入学したての頃はこのカフェでクラスの友達と駄弁っていた。
中学の頃なんかは周りの空気に合わせて、男子と付き合ったこともある。
握られた手は手錠のようで、二人でファストフードを食べた時は警察に取り調べを受けているみたいだったから、一週間も経たずに縁を切ったけど。
店内の女子グループや隣のカップルといった「当たり前」の中に、これからの自分がいる想像をする。
……デジャブだ。
さっき陸上部に顔を出した時と同じで、すべてが作り物のように感じた。どちらも普通の女子高生という役を演じているに過ぎなかった。
逃避するようにサンドイッチを口にねじ込み、数時間後の未来を思い描く。
栞の家から二人でショッピングモールへ行って、栞に似合いそうな服でも探して場を和ませる。勉強のための参考書を見に行ってもいい。てか、なんで栞はスマホを持っていないんだ。
そして海が見えるベンチで潮風を感じながら話をしよう。
その時の台詞はこう。
『ごめん、ごめん。悪気はなかったんだけど、栞といるのが楽しくて、ついつい隠しちゃってたの。言うタイミングもなくてさ』
『悪気がなかったのなら仕方ない』
『でしょ? こんな私だけど、改めて友達になってくれないかな』
『いいよ』
いいね!
サンドイッチを飲み込んで勢いよく席を立つ。椅子を引いた音にびっくりした隣のカップルが白い目で見てくるけど気にしない。
男の唇が動いて、聞き取れない何かを呟いた。「こっちの方がよっぽど作り物じゃないか」
カフェを出発し、二カ月前の記憶を頼りに栞の家を探す。
大通りから一本路地に入ると迫りくるような左右の建物で視界が狭まる。
わずかに覗く薄明の空には縦横無尽に電線が張られ、雑居ビルや飲食店、階層の異なるマンションが不規則に連なっている。
児童公園の代わりにコインパーキングが点在し、駐車された車はビルの陰で暗く染まっていた。
こんな街中に住んで落ち着けるのかな。
夜はよく眠れているの。
学校でだるそうにしてるのはゆっくり休めてないから?
近辺の路地をしらみつぶしに行き来し、ようやく見覚えのある建物に到着した。
繁華街の端っこで息をひそめるように建つ二階建てのアパート。
前に来たときは夜だったからよく見えなかったけど、白い外壁はところどころ黒ずんでいて、外階段は取ってつけただけのよう。
非日常を感じながら、表札を確認していく。一階に彼女の苗字はなかった。
心もとない階段を一段上るたびに膝が痺れる。
でも、もう少しで栞に会える、そう思うと足が止まることはない。
上り終えて細い廊下を目にした瞬間、体の別の箇所が痛んだ。
胸が痛い。
生ぬるい緊張ではない。
まるで合格発表の数字を探すように一軒一軒進むたびに鼓動が高まる。
とうとう一番奥のドアの上。手書きで雑に記された「青野」の文字を見つけた。
薄いドア一枚隔てた向こうに栞がいる。
案外、私は彼女のことを何も知らなかった。
好きなもの、嫌いなもの、趣味さえも。
知っているのは私を支えてくれた優しさと、その裏に何かしらの闇があるってことぐらい。
簡素なチャイムに指先を当てる。
「まずは『こんにちは』 家族の人が出たら自己紹介。明るく愛想よく。……よし」
リンコンと、軽い音が鳴る。
おもちゃのベルでももう少し響くぞと思う。
少なく見積もっても十秒は経った。反応がない。
再度リンコンする。
じれったくて手の甲でドアをノックする。
「栞? いる?」
心配になって捻るだけのドアノブを回すと、引っ掛かることなくそのまま手前に開いた。
「こ、こんにちはー」
いけないとわかっていても先に進んでしまう。
早く私の知らない栞を見てみたい。
言い訳はあとでいくらでもできるからと、さらに数歩踏み入れ、ドアを閉める。
部屋には仕切りがなく畳張りの居間と簡素なキッチンだけ。
まるで時間が止まったように物音が一切しない。
留守だと思い胸を撫でおろしたその瞬間だった。
「ちょっ!」
奥に見える敷きっぱなしの布団の上で、寝間着姿の栞が仰向けに倒れていた。
物言わぬ人形のように、力感なく、目を開けたまま。
「栞!」
返事も、こちらに目をくれることさえもしなかった。
何かの冗談だと思った。
もしくは本当に死んでしまったんじゃないか。
気が気でない中、少しずつ近づいていく。
感覚が研ぎ澄まされる。
一瞬だけ、畳のい草の匂いが鼻をくすぐった。だけど最初の一瞬だけ。
寝たきりの彼女に近づくにつれ、かつて抱きしめられた時に覚えのある、柑橘の涼やかな香りが強くなる。
柔らかな水色のトレーナーに、太ももがほとんど露出しているショートパンツ。パステルカラーから見え隠れする白い肌は、くすんだこの部屋では輝いているようにさえ感じた。
同性の半裸なんか部活で何度も目にしたはずなのに、まるでオーロラでも見ているかのように釘付けになる。
彼女の香りがむせ返るほど濃密になり、涼やかさが消えて熱っぽくなる。
胸のふくらみで下着をつけていないことを察知した途端、生唾が喉を下った。
早く助けなきゃいけない、無事を確かめないといけない。
だけど、無防備な彼女を嗅ぐだけで、見るだけで力が抜ける。こんなの人生で初めて。
怖い。知らないのが怖い。栞が抜け殻になっているワケも、この感情も。
体の芯がキャンディーのようにとかされていく。
やばい。やばいやばいやばい。
「栞ってば!」
四つ這いになり、栞の肩を揺さぶる。作り物のように整った顔がすぐそこまで迫っていた。
布越しに彼女の肌の弾力が指に伝わる。それだけでさらに熱を帯びる。
お腹と頭が重い。
これ以上ここにいるとおかしくなる。どうにかなってしまう。
でも、だからこそずっと浸っていたい。
ぶつぶつと、栞の唇がわずかに動いているのを見て我に返った。
より危ういのは栞のほうだった。
待ち合わせどころじゃなくなって、家には他に誰もいなくて、鍵も開いたままで。
「そ、ら?」
揺れるロウソクの火のように今にも消え入りそうな声。
命を燃やして、二度と灯らないのかと思うほど。
「大丈夫!? しっかりして!」
ようやく目と目が合い、栞は微笑みを浮かべる。
よかったと私が答える前に、羽根が地に落ちるようにその目は閉じられた。
わずかの間をおいて、眠りにつく彼女の淡い呼吸が鳴った。
横たわった体に布団をかけてようやく、自分の心臓が音を漏らしそうなほど速く大きく脈動していたことに気づく。
赤ん坊よりも安らかな寝顔を見て、ひとまず安心した。
そして、もう一つ。
何かの間違いを起こさずに済んでよかったという安堵。
窓の外では薄くなった雲が裂け、辺りはにわかに明るくなる。
栞の眠りを妨げてはいけないと思い、急いでカーテンを
さっきよりも部屋は暗く、私たちを閉じ込める。
壁に背をつけて座ったまま、ぼんやりと時間が過ぎていく。
家族は帰ってこず、部屋には眠り姫とちっぽけな私だけ。
さっきの気の迷いの余韻が冷めない。
同性を相手におかしくなるなんて、きっと普通じゃない。
栞が寝返りを打ち、布団の隙間から彼女に
『真っ当でいようとすればするほど、しんどくなるよ』
普通を、真っ当を、当たり前を、すべて投げ出してしまえば、この私のものではない女の子の香りに、溺れてしまってもいいのかな。
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