そばにいてもいいかな

第14話

※空視点になります。



 膝を支えるための黒いサポーターを巻く。たくし上げた暖色のロングスカートを元に戻すと、それは透けて見えることもなく姿を隠した。

 厚手のマウンテンパーカーにリュックサックを背負い、玄関を出る。

 もう朝晩だけでなく日中もすっかり寒くなり、日を遮る曇天がそれをさらに際立たせた。


 冬は嫌いじゃない。体を震わせて寒さに意識を向けると何も考えず済むから。澄んだ空気を吸い込むと体の中のもやが晴れ、熱と邪念が吐息になる。

 花瓶の水を交換するように、呼吸をするだけでいらないものを捨てられる気がした。


 時刻は十時。栞の家へは昼すぎに向かうと伝えたけど寄りたい場所があって、かなり早めに出発した。


 曇り空のもと、住宅街から学校を挟んだ先にある繁華街へと歩を進める。松葉杖なしで外出するのは怪我をしてからは初めて。

 歩くたび、まだ治りかけの膝がチューニングの合わないラジオのように粗雑な痛みを発信した。


 吹き抜けた北風で思考を洗い流そうとしても、冷気に混じった不快な痛みが脳を覚醒させる。昨日までと同じだったはずなのに、今日は飛び切り痛む。


しおりがいないからか」


 その名前を呼んだとき、雪が融けたように痛みがなくなった。

 松葉杖をつく不自由さは栞の存在で打ち消され、むしろ心地よさを感じていた。

 二人きりで昼食をとったり、治療を名目にして授業をサボったり。

 お医者さんにも「まだ歩けない」と嘘をついてそんな生活に浸っていたけど、昨日の失態でとうとう終わりを迎える。


 私の右肘は制服が長袖になる頃には治っていたし、右膝も随分前から歩く分には大丈夫だった。

 そして、それを隠していたことが栞にバレた。その日のうちに放課後はお医者さんに、夜は母に打ち明けて謝り倒した。


『どうして隠してたの』


 栞は表情の起伏が小さく、怒ると手が出るタイプだった。

 難敵だ。

 聞く耳を持たず私を押し倒してきた姿が、ふと反抗期の幼児と重なる。

 白くて細くてスタイルがよくて。長い髪がふわっとしていて気だるげで。それが似合ってしまうほど美人な彼女が急に子どもっぽく感じて、おかしくなった。

 栞はどんな子どもだったんだろう。



 吊り橋の上を歩くように小股で、松葉杖をついていたときよりもゆっくり進む。雑居ビルが点在する街の中、交差点の向こうに学校が見えてくる。

 土曜の午前。今ごろいささか窮屈なグラウンドでは、型にはめられた積み木みたいにいろんな部活動が行われているはずだ。

 陸上部の走路のすぐ横でサッカー部が練習するから、しょっちゅうボールが侵入してきたっけ。


 栞の家に行く前に学校に寄る。

 陸上部のみんなにも話しておかないといけないと思った。怪我のこと、これからのこと。

 かつての自分や陸上部のみんなが脳裏に浮かんだ。これから栞以外のことを色々考えないといけないから気が滅入る。


 彼女と過ごした二カ月はシャボン玉のようだった。消えてなくなるのは分かっているけど、その鮮やかさをいつまでも追っていたかった。

 栞を見ている間は夢中で、何も考えなくていい。栞の方も静かに私を見つめていた。

 ほんの時折、呆れたように微笑む姿が、光に反射した虹色みたいに私を夢中にさせた。


 だけど、もうそろそろ向き合わないといけない。これから自分はどこに身を置くべきなのか。

 答えは簡単。借りた本を元の場所に返すように、怪我が治った私は元いた陸上部に戻らないといけない。


 冷たくたたずむ校門が体を震わせた。

 入学式の日や過酷な練習の日に感じた緊張とは別の、生ぬるい特別感を覚えながら、校舎の左に逸れてグラウンドに向かう。


 四方をビルで囲まれた箱庭にソフトボール部、サッカー部、一番奥の直線の走路には陸上部。視界の中でそれぞれのユニフォームが重なり交わっている。

 スポーツをしている生徒を見て胸が痛むかと思ったけど、あろうことか今日は何も感じなかった。肩透かしを食らい、ホッとしたような不気味なような。

 怪我をしてすぐの頃は、誰かが走っているのを見るだけで嫌だった。成功者の特権だと怒りや劣等感を持っていたはずなのに。


『気が晴れたら戻って来いよ。マネージャーとかできることはあるし。待ってるからな』


 体育大会の日、同級生の女子に言われた言葉を思い出す。

 成長痛をほったらかしにして重症化した私は、陸上部に戻るとしたらマネージャーをするしかない。


 それはとても収まりがいい。不謹慎だけど怪我で選手を引退してサポートに回るのは心温まる美談だ。

 みんな歓迎してくれるに違いない。陸上部のみんなは優しいから確信できる。

 先輩も同級生も、来年入部するであろう新入生すらも、私が明るく振舞えばきっといい雰囲気になる。


 マネージャーをしている自分を想像する。ストップウォッチを片手にみんなを応援して、走り終わった選手にドリンクを渡して。

 そんな姿に、風船に吐息でなく水を注入したときのような、どこか落ち着かない違和感を覚えた。

 だとしても、私はずっと笑顔でいればいい。


 現に私がグラウンドに顔をのぞかせてすぐ、あの同級生が手を振って駆け寄ってきているじゃないか。

 私の居場所は陸上部なんだ。

 学校の外壁に沿っておそるおそる歩いていったけど、彼女との速度に差がありすぎて、土に足を踏み入れてすぐのところで合流する。


夏目なつめ!」


 想い焦がれた部活動の輪の中に自分がいる。

 栞と出会うまで自棄やけになっていた。栞という味方ができて、気持ちに余裕ができた。

 これからは栞とは健全な関係を築いて、そんでもって陸上部に復帰して、ナチュラルな高校生活を送りたいと思う。


「夏目、元気だったか。よかった」


 しかし、練習でかいた汗も気にせず晴れやかに笑う顔を見ても


「ミズキ。久しぶり」

「久しぶりって、平日は校舎ですれ違うじゃん。心配してたんだぞ」


 まるで青春ドラマでも見ているかのように、彼女が私と同じ世界の人間だと感じられなかった。

 メーカーのロゴが入った長袖シャツや競技用のロングタイツは、演技のための衣装のよう。

 言うまでもなくミズキは本気で陸上をやっているのに。


「ごめんね」


 テレビ画面越しで手を伸ばしても決して届くことはない。

 そもそも繋がっているという発想がないように、かつての仲間を目の当たりにした瞬間、私が陸上部にいるという想像ができなくなった。

 ミズキを追って後から駆けてくるみんな、離れた所から私に視線を送るみんな、相変わらずぎゅうぎゅう詰めのグラウンドで練習に励む他の部活の人たち。その誰もが画面の向こうにいるフィクションの存在に思えた。


 二カ月という空白時間が長すぎたのかな。

 確信は持てないけど、そうであってほしい。


「ごめんね」


 何に対して謝っているのか分からないまま、同じ言葉をもう一度呟く。

 たじろいで一歩下がった私をミズキは不思議そうに見ていた。


「戻ってきてくれたんだよな」

「……そのつもりだった。だったけど」

「は?」


 威嚇するように放たれた怪訝な声に冷や汗が出る。

 それでも今すぐ陸上部に復帰すると言うことができない。


「やっぱり考えさせて、ほしい」


 そう言った途端、急接近してきた彼女に胸倉を掴まれて身動きが取れなくなる。抵抗する気は起きなかった。眼前に迫るミズキの目には怒りに加えて困惑が混じっている。

 遅れて駆けてきたみんなが何事かと目を丸める。


「一緒に走ろうって言ったのは嘘だったのかよ!」


 吠えるような声を皮切りに、周りのみんながミズキを引きはがしにかかる。

 制動のざわめきを貫いて彼女は声を上げた。


「私は! 夏目と走れて楽しかった! 入学してから八月までだったけど! 夏目はどうだったんだよ!」

「楽しかったよ。私には陸上しかないと思ってた」


 彼女とは対照的な、冬の空気のように乾いた声。それが自分のものだと口にしてから気づき焦燥する。

 数秒、あるいは数十秒の糸を引くような膠着こうちゃくが続いた後、ミズキは大きなため息をついた。

 一触即発の状態が落ち着き、場を察したミズキ以外のみんなが去っていく。最後に女子の先輩が「後でね」と言い残していった。


「卒業まで走れないって聞いたけど、やっぱり無理なの?」

「そうだね」

「マネージャーをする気は?」

「……」

「走れないことが嫌なのか?」


 もしも、今この瞬間に私の足が完治したら?

 グラウンドを見渡す。


 木枯しで舞う紅葉のように動きまわる運動部員。陸上部の走者が矢のように視界を一閃した。

 飛翔するボールが雲に吸い込まれていく。

 耳に残る金属バットの高音、ボールを蹴る鈍い音、慣れ親しんだ雷管らいかんピストルの音。

 そして、軽やかに協奏するユニフォーム姿の生徒の掛け声。


 初冬にも関わらず熱気をまとった土っぽいそのグラウンドに、ロングスカートを履いた私は立ち尽くすことしかできない。


 ずっと感じていた不気味な違和感の正体がようやく分かった。


 伸びきったバネを無理やり縮めて元に戻しても、どこか不自然で弾力がなくなる。

 走ることに、陸上競技に、眩しい青春に執着していたはずなのに、それを目の前にすると放心してしまう。

 もう一度頑張ろう、追いつこうという気になれない。

 怒りや劣等感を他の生徒に抱くことはない。只々


「夏目?」

「……だるいな」


 怠い。


 とどのつまり私は、怪我で高校生活のレールから外れて、やる気がなくなったのだ。

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