第13話
「お父さんの、あの人のところに帰ろうと思うの」
食器の転がる音や料理を踏みつける感触は、その言葉に比べると
見下ろしたお母さんは小さくて、だけど食事が台無しになることに全く動じなかった。
つまり覚悟ができているってこと。
お母さんの言葉が落雷のように次々と体を揺さぶる。
「あの人は不器用だから」
「やめて……」
「私がいてあげないと」
「やめて!」
暴力を振るう人のもとに帰るなんて冗談じゃない!
おかしい。どうかしてる。お母さんはお父さんに、あいつに騙されているんだって、そう繰り返し伝えてもお母さんの決意は変わらない。
お父さんは、あいつは花畑の中に造花が紛れているように、見た目は無欠で清潔だった。
お母さんがうずくまるのを気に留めず、固めた短髪に皴のないスーツで仕事に出ていく姿が目に浮かぶ。
外面はまともで、でも中身は最悪だった。気に入らないことがあればお母さんで憂さ晴らしをしていた。
にもかかわらず、目の前のお母さんは今日の夕方と同じ穏やかな表情を浮かべて、あいつのことを恋しく想っている。
お母さんは「しおちゃん」だけじゃなくて、三人で暮らしていた頃に
「お父さんには私が必要だから」
私がお母さんに頼られたいと願うように、お母さんもお父さんに必要とされたかったんだ。
だけど絶対間違っている。
暴力で支配される関係なんて、絶対に。
理性がミキサーにかけられたみたいにぐちゃぐちゃになる。そのまま火にかけられて熱くなっていく。
私にはお母さんがいるじゃないか! 空がいなくなっても!
思考を逃避させるために思い浮かべたのは、泣きながら淡く笑う、痛々しく
野菜を踏んづけた足裏から、空の腕を踏み潰した感触が蘇る。彼女の割れるような悲鳴と絶叫が、混濁した頭をさらに震わせた。
私は空と一緒にいるために、空を傷つけた。不自由な彼女を使って自分を慰めている。
空を思い浮かべたのは悪手だった。
なんだ、私も同じだ。
私からお母さんを奪おうとするお父さんと。
熱と光が弾けて、弾けて、突如暗転した。
暗闇の中、私はささやく。
あいつと同じことをすればどうなる?
……座ったまま、私が取り乱すことに一切の関心を向けていないお母さんを、この分からず屋を、踏みつけたら、蹴飛ばしたらどうなる?
お母さんは私を見てくれる?
私の気は晴れる?
お母さんの目の前に立ち、空のときと同じように左脚に力を込めて宙に浮かせた。
私を一人にしないで。
「はぁ、はぁ……っ」
畳に打ち付けた足に衝撃がジンジンと返ってくる。
振り下ろした足がお母さんを傷つけることはなかった。
私にはもうお母さんしかいない。だって空はいなくなるから。
かつて空を傷つけた罪悪感が、もう少しのところで私を止めた。
お母さんを傷つけずに済んだのは、明日には関係が終わってしまう空のおかげだ。
立ち尽くす私を見てお母さんが口を開く。
ようやく正気に戻ったらしい。
「ごめんなさい。冗談だから。栞を置いていけるわけないもんね」
「当たり前でしょ」
その言葉はお互いに、自分自身に言い聞かせているようだった。
お母さんは気まずそうに顔を背け、散らばった夕食を片付けていく。当番じゃないのに。
プログラムされた機械のように無駄なく、言葉を交わすこともなく入浴を済ませ、敷布団を並べる。
まだ寝るのには早い時間だけど、お互いにそれを咎めることはしなかった。
初冬の夜は長くて冷たい。アパートに隙間風が入る分、地元よりも過酷に思えた。
羽毛布団一枚では心もとなく、絞めるように背を曲げて膝を抱え込む。
消灯してからどのくらい時間が経っただろうか。
いつまでたってもお母さんの寝息が聞こえない。
お父さんのところに帰ると言ったお母さんにとって、私の存在って何なんだろう。
「お母さん」
「なに?」
返事はすぐに返ってきた。
粉雪のようなか細い声が
「お父さんのところに行ってきたら?」
「さっきのは冗談だって言ったでしょう」
「パート先には私が連絡しておくから。今のままじゃお母さんは辛いよね」
「……」
「私も辛い」
意地悪く、駄々をこねて、試すような言い方。
「行かない。栞のそばにいる」と言い切らないお母さんに対し、段々苛立ちを
「でも」
「行けって、言ってる」
「……うん」
私は引くに引けず、お母さんはこれ以上何も言うことなく夜はふけていった。
鈍い朝が訪れた。灰色の雲に覆われてもなお、日の光は薄く室内まで差し込む。
部屋の空気は冷たく固まってしまい、私以外の何も動く気配がない。
「え」
冗談じゃない。
お母さんは本当にいなくなっていた。
座卓には当番ではないお母さんが作った朝食と置き手紙が一枚。そして傍に置かれたお母さんのスマートフォンは初期化されていた。
「嘘でしょ」
力が入らず、敷いたままの布団に崩れ落ちる。
どうしてあんな言い方をしたのか、針を刺すように今の自分が昨晩の自分を責め立てる。
一方で、いつかの私はこの状況を望んだはずだ。
友達はいらない、持つ資格がない。孤独に沈むんだって。
空だけじゃなくてお母さんも失うなんて、夢にも思っていなかったけど。
「はは」
仰向けのまま、喜びと悲しみと嘆きと怒りが全部混ざって、泥のように明度を失った感情の搾りかすを吐き出した。
どうすればよかった? 何を間違えた? 何か悪いことはした? もっといい子にしていればよかった? お母さんを助けたらよかった? 誰も傷つけちゃいけなかった? ごめんなさい。許して。許して! 誰か……
くすんだ白色の天井に身をさらす。
涙は出なかった。出そうと思っても出てこない。
目は開いている。ただ開いているだけ。
寒さや熱さは感じない。そもそも体が形を保てているのか。
起きているのか寝ているのか分からないまま時間が過ぎていく。
いらないなんて言わなければよかった。さよならなんてしなければよかった。
後悔の念が、狭い密室で何度も打楽器を叩きつけたように反響して増幅する。
全身に鉛が詰まって、頭の中に蜂を飼っているみたいだ。
一分一秒が薄く引き伸ばされ、幾度となく私を削っていく。
「栞!」
遠のく意識の中、誰かが私の声を呼んだ。
「栞ってば!」
垂れた髪や吐息が顔にかかるほど近くで、丸くあどけない目が私を覗いていた。
絶望に溺れながら、体に残った息を全部使って喉を震わせる。
「そ、ら?」
「大丈夫!? しっかりして!」
寂しい。助けて。
力尽きた私はその声を発することなく眠りについた。
気持ちよさそうな寝顔だったと、ずっと後に空から聞かされる。
もちろんこのときに知る由はなかったけれど。
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