第12話

『……明日、しおりの家まで迎えに行くよ』

『そう。さよなら』


 学校からの帰り道。まだ授業が終わったばかりなのに、十一月の太陽はまるでおもりがついているように低く、地平に吸い込まれていく。

 日暮れとともに吹く風は容赦なく体温を奪い、帰路につく足を鈍らせた。


 通学路ですれ違う小学生たちが無邪気に声を上げて走り抜けていく。嘘も隠し事もないであろうその純粋さが、私とそらの不純を想起させた。

 空は怪我が治っていたことを隠していたし、私はそのことを知っていたのに知らない振りをしていた。


 そのうえ私は空を責めて、文字通り彼女に罪悪感をなすりつけた。

 ぐりぐりと空の鳩尾をえぐった手の甲の感覚は、いくら北風に煽られても消えない。

 空の存在を感じたくて鼻に手を当てて匂いを嗅いでみたけど、彼女の甘い香りは残っていなかった。

 その感覚のギャップが私の独りよがりを示しているようだった。


 手をだらりと下げてため息をつく。

 最後の輝きを放つ黄金色の夕焼けは、地平線ではなくビルに邪魔をされて視界に入らなくなった。

 

 遠いところに来てしまった。場所も時間も。


 鋭利な音を立てるビル風のなか、北国に思いをはせる。

 今ごろ地元では雪が降り始めて、冬の訪れを静かに知らせているだろう。

 積雪の上でウサギのように駆け回っていた頃を思い出す。


 まだお父さんとお母さんの仲が良かった頃の私だったら、友達に嘘はつかない。「しおちゃん」だった頃の私だったら、傷つけるんじゃなくて、友達が傷ついていたら手を差し伸べる。

 お母さんがお父さんにいじめられるようになったのは私が弱かったから。友達なんか持つ資格がないのは私がお母さんを守ることができなかったから。


 いつしか私は、そもそも友達を友達だと思っていたのは自分だけだったのではないか、みんな口裏を合わせていたのではないかと疑うようになった。

 弱い自分やお父さんどころか、誰も信じられなくなって、ウサギは跳ねることをやめた。


 今年、お父さんは手の届かない塀の向こうへ行き、お母さんと私は逃げるように地元を離れた。難破船のように都会の雑踏の中を二人でふらふらと彷徨っている。


 そうだ。空がいなくなっても、私にはお母さんがいるじゃないか。


 そう自分に言い聞かせ、お母さんの待つ自宅に着いた。

 拙い外階段だけの二階建てのアパートは、前に住んでいた七階建てのマンションと比べるとまるで親子のような差がある。

 薄い玄関ドアも強く揺らすと壊れてしまうのではないかと思えるほどだ。


「ただいま」


 部屋は暗く、返事はなかった。ワンルームの間取りに一つしかない窓はカーテンで閉ざされ、明かりもついていない。

 代わりにテレビの大音量が耳を貫く。


 奥を見渡すと、畳張りの居間にお母さんがいた。

 横たえた人形のように力なく、テレビの光に薄く照らされている。

 幼児向けの番組では着ぐるみが歌って踊っているけれど、お母さんは微動だにせず宙を見つめていた。


「しおちゃん、面白いねえ」


 身支度を済ませる間に、お母さんが小さな声で呟いた。


 都会に引っ越して以来、お母さんは時々、遠いあの場所に帰るときがある。雪が舞いウサギが跳ねていた場所に。


「しおちゃんも歌ってみて」


 お母さんの意識が過去と今とを行き来するのは、彼女が意図的にそうしているのか、それとも防衛本能が故なのか。深入りするともっとお母さんが壊れてしまいそうだから見て見ぬ振りをしている。

 正気の状態だと、お母さんに蹴飛ばされたことが、何度かあったし。


「しおちゃんだったらアイドルにだってなれるよ」


 虚空に向かって語り掛ける。

 無理だよと、心の中で返した。


 部屋の明かりをつけて、藻屑のように散らばっている洋服や、お母さんの昼食で出たであろうごみを収拾していく。


 家事の当番を記す十一月のカレンダーには「栞」の字が三十個連なっていた。引っ越してすぐの頃は母と半々だったのを思い起こすと、この先も刻まれ続けるであろう「栞」の字に嫌気が差した。


 一方でそれは、お母さんに守られるだけの「しおちゃん」じゃなくなったという証でもある。


 エプロンをつけていると、テレビの音に混じってお母さんの鼻歌が聞こえてきた。かごめかごめと、それはかつての私によく歌い聞かせていた歌だった。


 見て見ぬ振りが得意な私だから、聞かない振りも得意なはずだ。

 意識が過去に移ろいでいるお母さんも、きっとすぐに私のもとに帰ってくる。


 私は「しおちゃん」じゃなくて栞なんだと、荒波のなか帆を立てるように気を張って、夕食づくりに取り掛かった。


 空がいなくなっても、私にはお母さんがいるじゃないか。




「しおちゃん、いただきます、しようね」


 数十分後、夕食を前にしてもお母さんは過去にいた。

 座卓で向かい合っているお母さんの目は私を見ているようで見ていない。


 ズレている。

 船を二人で漕いでいたはずが、片方は力を抜いていたように。

 目指す方向が二人の間で逆になっているように。

 お父さんがいなくなって、二人で明るい方へ向かうはずなのに。


「どうして」

「どうしてって、食べ物と、それを作ってくれた人に感謝しなきゃでしょう」


 私はもう「しおちゃん」じゃない、そう伝えたかった。


「……ねえ、お母さん」

「なあに?」

「私はここにいるよ」


 言うと、時が止まったようにお母さんが固まった。お吸い物の湯気が揺らいでいるのを見て、自分の方が正常だと判断できた。


「もうお父さんはいない。私がついてる」


 わたしを見てほしい、頼ってほしい。

 空が私を必要としなくなった今、私の役割は、生きる意味は、もうお母さんしかいない。

 お母さんだって、私がいないと生きていけないでしょう?


 食事時までお母さんが正気にならなかったのは初めてだから、不安で声が震える。


「褒めてよ。ご飯は私が作ったんだよ。掃除も洗濯も買い物も。お母さんがやってくれていたこと全部私がやった。今度は私がお母さんを助ける番。だから私を……」

「栞」


 ポツリと、まるで雨が降り出す最初の一滴のようにお母さんは小さく私の名前を呼んだ。


 働く時間も、家事をする時間も、そしてお父さんにいじめられる時間も減ったはずのお母さんは、なぜか以前よりもくたびれて見えた。

 顔の筋肉が動かず、生気が少ない。まるで大切な何かを失ったように、都会に来てからのお母さんは元気になるどころかむしろ弱っていた。


 大切なものを失う。

 このときになってようやく、お母さんの様子がおかしくなった理由がひとつ、頭をよぎった。

 正座で折りたたんだ足が震えるほどに、その憶測は恐ろしかった。

 心の中に雨粒が数滴。すぐさま大雨になる。


「お母さんね」

「待って!」


 嫌な予感が私を突き動かした。

 急いで立ち上がってお母さんの口を塞ぎに行く。

 膝がつっかえて座卓に配膳された食事がひっくり返るのを、私もお母さんも気にすることはなかった。


「お父さんの、あの人のところに帰ろうと思うの」

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