さよなら
第11話
※引き続き、栞視点になります。
まだ昼休みだというのに薄白い太陽は浅く西に傾き、体育館裏に吹き抜ける風がその冷たさで体を震わせる。
季節は秋から冬へ。
十一月になった。
埃っぽい灰色の雲にもすっかり慣れてしまった。地元の方が気温は低かったのに、どこかよそよそしさを感じる都会の空気が無機質に体を冷やす。建物の陰に入っているから尚更。
お弁当に残った最後のおかずを隣に腰掛けている空の口へ運ぶ。
今日の食事はやけに時間がかかった。
まるで初めて食べるもののように空は一口一口かみしめて味わっている。中身はいつもと変わらないのだけど。
空は名残惜しそうに目を閉じて最後の一口を飲み込んだ。
「ごちそうさま。いつもありがとね」
お日様のように明るいはずの空の笑顔は、今日は斜陽が差していた。
目に力が入っていない薄い笑みが顔に張り付いたまま元に戻らない。
「お礼とか無理にしなくていいから」
「
「どこが?」
「クールなところ、とか?」
空は自分でもうまく言い表せないのか、最後に首を傾げる。
つられて私も首を傾げると、空は焦ったように両手を振った。セーターの袖口から手が出ていなくて、余った丈がぶらぶらと揺れる。
「全然悪い意味じゃなくて、むしろ、その、栞の魅力だと、思う!」
私だけでなく自分自身にもそう言い聞かせるようにうんうんと頷いた。
クールって言い換えれば冷たいって意味で、それが魅力になるのはピンとこない。空の分からないことがまたひとつ増えた。
体育大会の日から、いや、空の腕を踏んだあの日から、私は彼女の「分からない」をほったらかしにしている。
それらは目の前に散らばっている落ち葉のように少しずつ積み重なり心の底にへばりついていた。
「
「いいような、悪いような。栞は変わりたい?」
私は空の右腕になる。右腕にしかならない。そう約束した。
制服の衣替えをしてから空の腕を生で目にすることはなくなった。
彼女を包む白いシャツや紺色のセーターが私を拒絶しているように感じる。
かつて空の腕に釘付けだった私の目は、灯台を見失った船のように暗い世界を彷徨っていて、多分もうすぐ座礁する。
「私は空の右腕だから、空が変われって言うなら変わるけど」
「確かにそういう約束だったけどさ」
右腕としての私はじきに用済みになる。
存在価値のタイムリミットが迫る私は、未練がましく夏服の時期に戻る方法はないのかと足掻いている。十一月に長袖シャツ一枚なのはもう私ぐらいだ。
その焦燥や不安は、急激に冷え込む季節と共に私の心を削いでいた。
食事に時間がかかったのは少しでも長く空の世話をしていたいが故の錯覚だったのかもしれない。
――数日前から、空の右腕はもう曲がっている。
空はそのことを言わない。
今だって曲げた両手でごにょごにょと口元を隠し、目を泳がせている。
今日も空のノートを代筆し昼食を食べさせた私はそれを見ない振りする。
「栞とはもっとこう、ナチュラルな付き合いで、ねえ?」
ねえ、と言われても。
空は元々住んでいる世界が私と違うのだから付き合うも何もない。
こわばる私をよそに、空は「あああ」と首を横に振って顔を覆い隠した。
「寝る!」
「もう昼休み終わるよ」
「サボる!」
空は壊れかけのメトロノームのようにぎこちなく体を揺らし、最後は私の方に倒れてくる。
空の頭が私の膝に着地し、上を向いた。
照れくさそうに笑う顔は、今度は太陽のようだった。真下から照らされてにわかに冷え込んだ胸が温められる。
「じゃあ今日もよろしく。私のチリョーのために」
「寒くない? 大丈夫?」
「……」
空の目は私を吸い込む前にぴったりと閉じられた。
一度だけ髪を撫でると、空はもぞもぞと体の位置を調節して息を吐ききった。
―――
『体育とか退屈だ。たいいくだけに』
振替で五限が体育になった日の昼休み、安静にするという名目で授業をサボることに決めた。
まだ空の腕に力が入らなかった頃で、私が本気で空の腕だけを考えていた頃。
『くふっ』
『栞いま笑った? 笑ったでしょ』
『笑ってない』
『もっとよく見せて』
食後の不意打ちがツボに入り恥ずかしくてそっぽを向いていると、私を逃すまいと空は体ごと倒れこんできた。膝の上でわしゃわしゃと動く気配がする。
『捕まえた』
見下ろすと仰向けになった空の顔が目と鼻の先にあった。
伸びた前髪で少し隠れていても尚、私は彼女の大きな目に吸い込まれそうだった。
いや、既に吸い込まれていた。
日を遮る雲を取り除くようにその前髪を払うと、やはり空は輝いていた。
『栞って謎のタイミングで笑うよね』
『……それは置いといて、授業は出る?』
『やだな』
『じゃあ』
震えた声で私はいつもの建前を口にする。
『このままサボろう。わざわざ嫌な授業に出ることないし、そもそもまだ松葉杖ついて運動できないし、治療、いや療養しよう』
『めっちゃいいね、それ』
そう言って空は目を閉じる。
本当に寝ているのか狸寝入りなのか分からない。私の動揺が伝わっているかどうかも分からない。
私の何が吸い込まれたのか、ただの右腕がこれ以上空に踏み込んでいいのか分からない。
分からないことにはもちろん蓋をして、私も目を閉じた。
―――
「おはよう空」
「ん」
目を覚ました空は起き上がることなく、しばらく私に頭を預けたままでいた。無防備な彼女の髪に触れようと思ったけどやっぱりやめた。
「ねえ栞」
「どうかした?」
「いつも、ありがとう」
お弁当の時と同じ寂しそうな口調。その理由が分からず置き去りにされたみたいで寒気がする。
西日が最後の抵抗をするかのようにパっと目を突き刺した。夕暮れの早いこの時期の太陽はあと数時間で夜に負けてその姿を隠す。
差し込む西日に目を細めた空は、スカートからスマホを取り出す。
依然として私の膝を枕にして、窮屈そうに左手で本体を持って右手でパスコードを打ち込んだ。
そうするのが当たり前のように、滑らかに両手を使う。
一度欠伸をして、ホッと息を吐いた。細めた目はそのままで、口元が弛む。寝起きの子犬のように何度かその頭を私の膝に擦りつけたあと、空はゆっくりと起き上がった。
捻挫で不自由だったはずの右腕を支えにして体勢を直す。人として何一つ違和感のない動作も、私の目に映る空にとっては新鮮なものだった。
その刹那、彼女の動きが時を切り取ったように停止した。
「やばっ」
「空、その腕」
どうして私は見て見ぬ振りをできなかったのか。言葉が漏れてから後悔する。
空は目を「しまった」という表情で目を見開いて固まった。スマホが手から零れ、地面まで落ちていく。
目と目が合い沈黙が生まれる。
私の視線が空の右腕に注がれていたことを言葉なしで確かめ合う。
空が顔をしかめるのを見て私もがっくりとうな垂れた。
空の肘はもう治っていて、お互いにそのことを言わずに過ごしていた。
タイムリミットだ。
たった今、空の右腕という存在価値を自分の言葉で亡くしてしまった。沈む泥船のように意識が溶けていく。
空も観念したようで、紙の詰まったコピー機のようにゆっくりと
「……栞、明日は土曜日だけど空いてる? 伝えたいことがあるんだ」
「……」
「ついでにお出かけしようよ。ウミエは行ったことある? せっかくだから一緒に買い物して、海が見えるとこもあるから、そこで話がしたいの。ダメ?」
空の目は震えていた。
自分を保つことすらできない弱い私なんかをどうして怖がっているの。
まるで怒られる前の子どものように、まるでお父さんから殴られる前のお母さんのように。
私が空の傍に居座ってたのは見て見ぬ振りをしていたから。空は治ったことを隠していたんじゃなくて、きっと言う機会がなかっただけだ。
だけど空の怯えた目を見ると、いっそのこと空を道連れにしても許されるのではないかと錯覚する。
許されるって誰に? 神様に? お母さんに?
「……空、明日じゃなくて今じゃダメなの?」
「も、もうすぐ六時間目始まるし」
「出なくていいよ」
起き上がろうとする空を、その顔を覆うようにして押さえつける。
「栞!」
「今話してくれないと嫌」
「まだ心の準備ができてない!」
見て見ぬ振りが得意で分からないことを先延ばしにする私は、空にはそうすることを許さない。自分のことを棚に上げた手をもう止められない。
「空も悪いから」
「ひうっ」
反対の手で空の胸を大きく撫でる。セーター越しにわずかな膨らみを確かめた後、中指だけ少し出っ張らせた握り拳を作る。
彼女の胸の真ん中の少し下、鳩尾に拳を立てる。
「なにを」
立てた拳に体重をかけて、窪みの中でぐりぐりと動かす。
中指の骨が胸の真ん中にある骨を一方的に抉る。ぐりぐりして抉る。
それと同時に、まるで電流が流れたように空の体が跳ねて、もだえ苦しむ声が上がった。
ぐりぐりぐりぐりぐりぐりすると、ぐりぐりするたびに空の体がひしゃげて暴れ回る。
押さえつけた空の口元からよく分からない悲鳴が聞こえる。
よく分からないからそのままぐりぐりし続けると、とうとう空は本能で私の腕を振り切って、勢いよくその場を離れた。
「しお、り」
「どうして隠してたの」
空は息を絶え絶えに、両足で立って、両手で膝をついていた。
歪む顔は怪我のせいではない。
腕は治っていると察していたけど、足の方もよくなっていたとは思っていなかった。
「どうしてって、それも、明日、話す、つもり、だったのに」
「それじゃ明日聞くね」
頭がスッと軽くなってから、確かに私も心の準備ができていないことに気づいた。
手も足も治り完璧になった空にとって、私は捨てられる包帯と同じく不要なものになる。
明日はお別れの日だ。
彼女を向こうの世界に送り出して、私は私の世界に帰る日になる。
お母さんを傷つけた罰を受けるための世界に。
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