第10話
午後になっても空には雲ひとつ見当たらず高く上った太陽がグラウンドを照らしている。体育館裏の陰から日なたに出た瞬間、身を焦がす暑さに嫌気が差した。
都会の空は狭くて首をほとんど真上に向けないとビルや電線が視界に入ってしまう。
地元の北の大地では平べったい畑をさらに押しつぶしてしまうほど空はどこまでも広がっていた。
同じ空で繋がっていると頭で分かっていても心はついて来ない。
向こうは今どんな空模様なのか確かめたいけど、遠すぎて到底見渡すことはできない。電線もビルも地球の丸さも無視できるほど私の背は高くない。
狭いグラウンドに不純物の混ざった空気。ちっぽけな体で、果てしなく遠いところに来てしまった。
世界はひとつでも一人ひとり別々の目でそれを見ている。離れていればいるほど見える景色を共有するのは難しい。
空と知り合ってまだ一カ月も経っていない。それまで私たちは別々の、遠く離れた世界で過ごしていた。
だから空がどんな景色を見てきたのか、どんな人生を歩んできたのか確かめる術はない。
昼休みが終わるころ、空と二人でテントに戻ると知らない女生徒が話しかけてきた。
「夏目! 部活リレーの応援は来いよ」
黒く焼けた肌、短い髪、ぶっきらぼうな言葉遣い。
悪意はないのだろうけど体育会系の雰囲気はどこかおっかなく感じる。私とは別世界の住人だ。
空は恐る恐る私のほうを見た。
『私以外の人と話さないで』
かつての私の言葉が今も空を閉じ込めていた。空の景色が私によって遮られる場面に初めて出くわした。
私が地元から引き離されたように、彼女の世界は現在進行形で私に奪われている。
人にやられて嫌なことはしてはいけない。
私は空に小声でささやく。
「席外そうか?」
「いいよ。それより、話していいの?」
本当はよくない。無視してほしい。
でも空の寂しそうな目を見ると、止めることはできなかった。
陸上部員は片手を腰に当てて首を傾げる。
「いつの間に転校生と仲良くなったんだよ。膝の具合は?」
「部活に顔出せなくてごめんね。もうすぐ歩けるようになるけど、走るのはもう無理かな」
もうすぐっていつ?
え。知らなかった。言ってくれればいいのに。
いや、あくまで私は空の右腕で空の右足の怪我は関係ない。だから知らないことに動揺する理由はない。
相手のほうが空のことをよく知っている。人となりとか本来の性格とか。
遅れてやってきた私は空が見てきた景色を共有できない。
寂しくて虚しい。ただの右腕が更に自我を持ってしまう。
「腕まで痛めたの」
「色々あってね。リレーの応援は行かなきゃダメ?」
「まだ退部してないなら来るべきでしょ」
空が一瞬だけ下を向いた。
背中の力が抜けて声色も少し下がる。
早く、帰ってほしい。
「考えさせて」
「来ないって言ってるようなもんじゃん。気が晴れたら戻って来いよ夏目。マネージャーとかできることはあるし。待ってるからな」
そう言い残して彼女は去っていく。その背中が他の生徒に紛れてから、椅子に座ったままの空は力なくはにかんだ。
空は分かりやすい。楽しい時に笑って、弱っている時に悲しい顔をする。それはいいことだと思う。
松葉杖が取れること、退部のこと、そもそもいつどこで右足を痛めたのか、聞きたいことは山ほどある。それでも今は目の前の彼女をどうにかすべきだと、嫌でもその顔が思い出させてくれる。
午後の最初の競技は部活動の対抗リレーで、他の種目とはまた違った熱気が高まる。
部活動に入っている人とそうでない人との温度差が激しい。クラス別で指定されたテントに今は部ごとに人が集まっていた。冷めている側の人間は後ろに追いやられる。
「本当に応援に行かなくてよかったの?」
「全然平気。そういえばさ、栞は部活とかやってた?」
取り繕うように笑みを浮かべ話を逸らそうとする。
平気な訳ない。きっと空は部活動に未練を持っている。あるいは私が来る前の、膝を怪我する前の生活にも。
「やったことないかな」
「へえ」
空の目がグラウンドから逸れることはない。陸上部という私の知らない世界を見ている。
私の目にはもう空しか映らない。過去は全て地元に置いてきて多分二度と関わることはない。
私は空以外、何も見えないから。だから空も何も見ないで。
空が向こうの世界に行ったら私は私の形を保てなくなる。
ゆっくりと立ち上がり空の背後に回った。ちょうどリレーがスタートするところでグラウンドは静寂に包まれていた。
これも治療だ。空の心を治すためのものだ。他の誰かのせいでショックを受けて怪我の治りが遅くなるかもしれない。
「栞?」
長袖を着てきてよかった。椅子に座る空を後ろから抱き寄せる。そして両腕全部を使って彼女の目を覆い隠した。
「見えないんだけど」
「見なくていい」
空は抵抗せず体の力を抜いた。
「これも治療?」
「……うん」
「怒ってる?」
「……」
自分でも分からない。怒っているのかもしれない。
空に? あの陸上部員に?
ちょっと二人で話をしていただけなのに、どうして胸に穴が開いているんだ。
抱いた腕に力を込める。空がどこにも行かないように、別の世界を目にしないように、私の胸に押し付ける。
私は残酷な方法でしか自分の気持ちを満たすことができない。
顔をゆっくりと近づけて空の真っ直ぐな髪にうずめる。彼女の汗に混じって石けんのような甘い香りがした。
「くすぐったい」
「我慢して」
「ふぬっ」
私の吐息が耳にかかったせいで空の体が跳ねる。
無理やり抑えつけていると、空は左手で私の腕を解こうと抵抗した。
顔が潰れるのなんてお構いなしに私は彼女に
これは暴力じゃない。心の治療だ。学校のイベントとか部活動とか、そういった青春の煌びやかさは心の毒になる。
空が私の知らない世界に浸ってしまったら私が潰れてしまう。
私が潰れたら空も潰れる。
だから、これは巡り巡って空のためになる。
空のための私のための空のための私のために、私は力づくで彼女を閉じ込める。
「痛いよ栞」
空のか細い声で我に返った。
急いで腕の力を解く。露わになった空の目には涙が溜まっていた。
顔を上げるとこちらを見ていたクラスメイトが急いで目を逸らした。リレーは終わり、もう次の競技が始まろうとしていた。
見られていた。
私はともかく、空は人の視線をよく気にする。
だけど今日は「誰も見てない」って空のほうから誘ってきて、ひとつの椅子に二人で座った。明るくて人懐っこくてイベント事で調子が良くなる。多分あれが空の本来の姿だ。
背中は真っ直ぐのまま目を赤くしている空は、今何を思ってるの。
滲む涙は痛みのせい? 怒ってる? 恥ずかしかった? 元の世界に戻れなくて悔しい?
「空?」
空は怒ることも泣くこともせず、ただ前を見つめていた。視線の先では競技が進行しているけどおそらく頭には入っていない。口が半開きになり呆然としているその顔には見覚えがあった。
罪悪感や謝罪の言葉がどう頑張っても生まれない。
むしろ矛先の分からなかった怒りが収まり、空を征服した達成感で気分が高揚する。落ち着かなくて呼吸が浅く、速くなる。
急激に熱された頭の中に、あの日と同じ雷が落ちた。
「ふっ」
気持ちがいい。
私のいる孤独の沼に空を引きずり込むことができて嬉しい。これでもう寂しくない。
大切なものを壊して頭がスッと軽くなる。空の腕を踏み潰した時以来だ。
前のそれには及ばないけど、大衆のいる中で空の尊厳を奪い取った感覚がたまらない。傷ついた彼女が愛おしい。胸に開いた穴が埋まっていく。
「空」
「……」
「平気、だよね?」
空は分かりやすい。楽しい時に笑って、弱っている時に悲しんで。それはいいことだと思う。
だけど、実際は分からないことのほうが多い。
どうして私を右腕に選んだの。
どうして私に肘を差し出したの。
どうして私を傍にいさせるの。
平気な訳ないのに、今どうして首を縦に振ったの。
あくまで治療だから?
空を支配して気持ちがいいはずなのに、空の過去も現在も理解できなくて気持ちが悪い。
空の汗が付いたシャツの袖で自分の汗を拭う。拭っても拭っても肌にへばりつく水滴は乾かずに増すばかり。擦りつける度に彼女の香りは消えていく。
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