第9話

 日の出の時刻は変わらないはずなのに、今日は目が覚めた時から部屋に熱が籠っていた。


 真夏のように暑いけどセミは鳴いてないし、怒鳴り声も聞こえない。季節と時間が逆流して頭が混乱する。お父さんはもういないし、お母さんも最近は落ち着いているんだった。


「見に行けなくてごめんね」

「高校生なんだし親が来るほうが珍しいよ。行ってきます」


 体育大会当日。


 通学路を歩く私の足取りはナメクジのように重かった。

 十月とは思えない季節外れの暑さの中、今日はずっと屋外で過ごすことになる。

 アスファルトの道路には陽炎が立っていた。


 これだから都会は嫌だ。私は生まれつき運動も嫌いだし、暑さにも弱い。

 そらがいなければとっくにサボっている。


 学校に着くころにはすっかり汗ばんで、長袖の体操着にしたことを後悔した。

 カタツムリの固い殻と違って衣服は水分を含んで肌にへばりつく。

 でも日に当たると赤く焦げて痛いし。


しおり、体調悪いの?」

「暑い。帰りたい。帰ろう、空。日焼けしたら空の怪我の治りも遅くなる。これも空の腕のため」

「さすがに無理あるでしょ」


 私は空の腕を建前にすることがすっかり癖になっていた。


 グラウンドにはトラックを囲むようにテントが設置されていて、それぞれのクラスで割り当てられたスペースに移動する。その後方には膝の怪我で松葉杖をついている空のための椅子が用意されていた。

 他の人は地べたに座るか、立って応援するかのどちらか。


 イベントでテンションの上がった生徒たちは、開会式の前にも関わらずセミのようにけたたましい。

 組を分ける色ハチマキじゃなくて耳栓がほしい。


「空が来る必要ある? やっぱり帰ろう」

「種目決めのホームルームで脱走しちゃったんだから、休んだら気まずいじゃん」

「気にしないでいいのに」

「いーや、よくないね」


 お昼休みの件といい、空は周りの目を気にすることが多い。それとも私がマイペースなだけか。


「そんなことより、ちょっと後ろ向いてしゃがんでよ」


 悪戯っぽく笑みを浮かべる空に言われるがまま地面で膝立ちになる。無防備に背中を差し出す形になり緊張する。


 私が初めて空にお弁当を食べさせた時、彼女は口を開けたまま目をつぶっていた。

 不安とか恐怖とか感じなかったのだろうか。仰向けになって私に自分の肘を潰させた時は?


 空の指が私の髪に触れた。

 おろしたままの髪がかき上げられ、一か所に集まっていく。動きやすいように巻いてくれるらしい。

 右腕がぎこちなくてスムーズにいかない。負担がかかるから断ろうとした時だった。


「染めてるんじゃなかったんだ」


 湧き立つ生徒の雑音は消えていないのに、穏やかな空の声が一直線に耳に届く。


「生まれつき色が弱くて」

「毛先のパーマもかけてないの?」

「天然のくせ毛だよ」

「いいな、なんか大人っぽい」


 外はうんざりするほど暑い。姿勢を低くしているせいで地面からの照り返しが強い。

 どうか私の汗が空の手には付かないでほしい。


 しばらくすると、空の指から私の髪を伝って体の中へ温かい何かが入り込んできた。もちろん実物じゃなくて目に見えない温もり。


 余計な熱のはずなのに体がもっと欲しがってその場から動くことができない。

 スポンジのように私の髪が空の熱を吸収する。緊張はなくなり、反対に心地よさを感じる。

 他人に髪を触られてどうして安心してるの。


「ハチマキ貰うね……よしできた。栞、こっち向いて」


 振り返ると、空は太陽よりも眩しく笑っていた。


「めっちゃかわいい!」


 耳が外気に触れてくすぐったい。

 ポニーテールで括られた髪の根元には、髪ゴムの上から青いハチマキがリボン状に結ばれていた。


 空の高らかな声を聞き、あろうことか人が集まってきた。続々と増えるにつれて遠慮なく声を浴びせられる。


 似合っているとか、意外だとか。――ふたりとも元気そうでよかったとか。


 私は自分の都合で人から離れて学校をサボっていたんだから、心配される義理なんかないのに。

 空はどうだと言わんばかりに胸を張って誇らしげな顔をしていた。


「私の分まで頑張ってね」


 嫌だとは、到底言えない。ずるい。

 空まで学校のイベントで浮かれている。

 いや、元々空は私と反対側の人間なのだろう。明るくて前向きで、何事も一生懸命になれる側の人。




 乾いた晴天に土煙が上がり、割れるような声援が前からも後ろからも聞こえてくる。

 普段から走る習慣はないし、まして跳び箱とか、網潜りとか、お尻で風船を割るとか! そんな器用なことテキパキとできやしない。

 一緒にスタートしたはずが、私が半周するころに先頭はもうゴールしていた。


 みんな生まれた月日も体の構造も大差ないはずなのに、現実は残酷だ。何事も人より二倍の差をつけるのって難しいと思う。逆につけられるのも難しい。

 そもそもなぜ同級生で競わないといけないのか。


 麻袋の中に両足を入れる。日に焼けつつある肌が袋の内側のごわごわと擦れて痛い。一回のジャンプで全身が軋む。

 出る競技は何でもいいなんて言うんじゃなかった。でもあの時は空から目を離せなかったし。


 空は今の私を見ているのだろうか。

 観客席に目を向けたのと同時に足がもつれた。転ばないようなんとか立ち止まってから前を向くと、私はすっかり最後の一人になっていた。


「しおりー! もうちょっとー!」


 ひときわ大きく一直線な声を耳にしながら、張り直されたゴールテープを切った。

 はずませた息に細かい砂が混じっている。

 一応、空の分まで頑張った。うん。


「へろへろじゃん」


 テントに戻ると空はクスクスと笑いながら私を迎えた。

 疲労で体が重い。腰を下ろそうとすると、空が体を左にずらして椅子のスペースを空けた。

 私を見上げながら首を振って座るよう促す。


「大丈夫」

「座りなって」

「バランスを崩して転んだらどうするの」

「誰も見てないよ!」


 そういう問題じゃなくて、言葉通り怪我のリスクを心配していたんだけど。

 それに絶対誰かは見るでしょ。教室よりずっと狭いテントの中なんだし。


 今日の空はやっぱりはしゃいでいる。いや、本来の姿になっているんだ。

 私は今まで怪我をして落ち込んでいる空しか見たことがなかった。


「治療にならないことはしない」

「栞が疲れてたら治療も何もできないんですけど」


 埒が明かなさそうだから、結局彼女の言う通りに二人でひとつの椅子に座る。

 空の右腕が私の左の太ももに乗せられた。また体がスポンジになって、空から熱を吸い込もうとする。


「栞はお家の人来てるの?」

「来てない」

「じゃあお昼はいつものところね」




 私が空にご飯を食べさせるようになってから、昼休みは体育館の裏で過ごすようになった。この季節だから屋外でも気にならなかったけど、今日に限っては暑くて気が滅入る。

 椅子替わりの白いコンクリートの段差からパンツ越しに熱が伝わってきた。私に続いて空がいつもの位置、私の左側に座る。


「近くない?」

「さっきもくっついてたんだし、いいでしょ。お腹減った」


 空のお弁当袋には白い保冷剤が入っていた。今日は暑いしな。

 でもそのうち保冷剤なんかいらなくなる。

 季節が巡ると、もはや今座っているコンクリートのほうが冷たく感じるようになる。


 ずっと秋のままだったらいいのに。


「今日は特別メニューだ。母よ、ありがとう」

「何から食べる?」

「肉巻きがいい! あーん」


 空は口を開けて私の手が動くのを待っている。


 最初のころと変わって、目は開かれていた。

 ……ずっと閉じていればいいのに。

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