あくまで治療だから
第7話
※栞視点になります。
***
寝ている私のお腹に、お母さんのつま先がめり込んだ。二回目ぐらいから体が熱くなって汗が噴き出る。
本州の夏は暑い。息苦しい。もうすぐ新学期だから色々と準備をしないといけないのに起き上がれない。お母さんは凄いな。ほんの一カ月前まで、外にいるセミの喚き声じゃなくて、室内にいるお父さんの怒鳴り声を聞きながら家事も仕事もこなしていた。
「今日は
そうだっけ、そうだった。私が蹴飛ばされたのには理由があった。のろのろと体を起こすと、既にお母さんが朝食を作ってた。新居のアパートにはキッチンの他に畳張りの居間がひとつあるだけだから、急いで布団を押し入れに詰めて座卓を部屋の真ん中に寄せる。
行動を急かされるのは、他人に心臓を掴まれたみたいで生きた心地がしない。流れる冷や汗を拭く間もなく体が勝手に動く。一目散に朝食を平らげ、せかせかと部屋の掃除や洗濯をする。
いつの間にかお母さんは部屋からいなくなっていて、時刻はもうお昼前だった。自分の体が自分に戻ってきた。
だけど、過ぎ去った時間は決して返ってこない。
お父さんが警察に捕まるまでは、お父さんがお母さんの時間を奪っていた。私はお母さんに守られながら、ただ見ていることしかできなかった。
どうして引っ越さないといけないのか。どうして友人や居場所を奪われて、誰も何も知らない土地に行かないといけないのか。最初は理不尽だと思った。怒りと喪失感を抱いていた。
でもちゃんと理由があった。
見て見ぬ振りをすることで私もお母さんを傷つけていた。お父さんと同罪だ。私はフツーに生きてちゃいけない、生きられない。
私の友人や居場所を奪われたのは、私がお母さんから時間を奪っていたから。
八月の終わり。
うだるような暑さ、見知らぬ土地、逃げ場のない狭い部屋。
寂しい。そうなったのは私のせい。
寝ている間は何も考えなくていい。泥の中に沈むように再び眠りについた。
―――
夏目さんの右腕でいる間は一言でいうと気が楽だった。人の役に立つことで罪を償えた。何も考えずに済んだ。何より、寂しくなかった。
夏目さんの腕が治ると私は用済み。もう一度孤独の沼に戻らないといけない。
ところが私は彼女に呼び出され、これからも一緒にいたいと言われた。
『いいよ。青野さんといられるなら、私はどうなってもいい。……踏んで』
夏目さんは私に生きる居場所をくれる。私が彼女の右腕に戻るため、治ったはずの腕を自ら差し出してくる。あまりにも甘美だった。
私は今から夏目さんの腕を奪う。彼女にまたがり、踏みつける場所の狙いを定めた。
自分がされていることを彼女にしてしまうと、分かっているのに止められない。
しょうがないじゃん! 夏目さんのほうから誘ってきたんだ。
生まれて初めて、それと知りながら人を傷つける行為をした。
彼女の腕を踏む生柔らかい感触が、自由を奪う感触が足の裏から伝わってくる。
夏目さんが、お父さんと三人で暮らしていた時のお母さんと同じ、人としては不自然な動きをする。
痛みで顔を歪め、息を絶え絶えにして、涙を流している。
お父さんと同じになった。人として終わったなと思った。罪悪感で死にたくなる、はずだった。
頭の中に雷が落ちた。光が瞬いて、遅れてやってきたのは轟音ではなく激情。
たまらない。
痛みに悶える夏目さんが愛おしくてたまらない。
私のせいで彼女の一部が今まさに奪われた。
その瞬間に立ち会えて嬉しい。
気持ちいい。
これは……やめられない。
「あはっ」
もう一度彼女の肘を踏みつける。泣きじゃくる彼女を抱きしめて
私の中で何かが壊れた。
それを私は、お得意の見て見ぬ振りをした。
―――
朝日を気持ちいいと感じたのは初めてだった。吸って吐いた空気が体内を循環する。とても甘くて、それだけでお腹が満ちていく。
体がふわふわする。転校してからいまだに慣れない通学路が、今日は光り輝いて学校まで続いていた。
「おはよう夏目さん」
「おはよう栞」
先に自分の席についていた彼女の肘には、肌色の大きなシップが貼られていた。力が入らないのだろう、軽く曲げた状態で机の上に乗っかっている彼女のそれは、まるで体から切り離されたかのように微動だにしない。
昨日のことについて何か言ったほうがいいかな。ごめん? ありがとう? これからよろしく?
その前に怪我の具合とか聞かなきゃいけないのでは? 病院には行った? 腕は吊らなくて大丈夫なの。
急に下の名前で呼ばれた。何て返せばいいだろう。そこは触れるべきところ?
「ダメ?」
夏目さんは照れくさそうにはにかんでいた。
何が、ダメ?
私が夏目さんの右腕になることが? 昨日確認したはず。前と同じで彼女の代わりに授業の板書を取ったり、休み時間は不自由がないように見守っていくつもりだけど、いけなかった?
そもそも語尾が上がったのは聞き間違いかもしれない。疑問形ではなく「ダメ」と言い切った可能性がある。朝一番に声をかけるのがよくなかった? でも笑っているし、と思ったら気まずそうに目を逸らすし。体調が悪いのだろうか。授業に出るのが無理そうとか。
名前、名前か。名前か?「あおのさん」が「しおり」になった。二文字削減だ。省エネになる。こっちは「なつめさん」が「そら」になる。三文字削減、より省エネ……そういう問題じゃない。心の距離が縮まった? あんなことをしておいて? 友達じゃなくて私は夏目さんの体の一部。逆によそよそしくするよりはいいのかもしれない。私も嫌じゃないし、むしろ何か嬉しいし。
喉に無駄な力が入る。「怒ってる?」とか「冷たい」とか「お高く止まってる」とかよく言われてきたけど、そんなことなくて。考えがまとまらない焦りや動揺を隠しているだけで。
とりあえず私は夏目さんの右腕に
「なるよ」
夏目さんはガクッと体勢を崩した。肘に負担はかかってない? ちゃんと気をつけたかな。
ほら顔をしかめた。変に体重がかかったんだ。
「大丈夫?」
「そうじゃなくて名前だよ、なまえ。栞って呼んでいい?」
「……そっちね。呼んでいいよ」
「だったら栞も!」
「私も下の名前で呼ばなないと?」
「うん、ダメ」
夏目さんは顎を引き、上目遣いでこちらを見上げてくる。
さっきは間違えたけど、今度の「ダメ」は私でも分かった。うん、分かった。
一言添える? 昨日はごめん? ありがとう? これからよろしく?
意識したらダメだ。一言一句どうしてこんなに悩むんだろう。前はこんなに酷くなかった。
夏目さんの目は離れない。
昔から目と目が合った時は大抵相手のほうが先に離れていった。何度か繰り返すうちに、周りから怖い人って言われるようになった。次の行動までが遅くて固まってしまうだけで、睨んでいる訳じゃないのに。
目を合わせたまま彼女の体がゆっくりと前に倒れていく。何か言わなきゃ。夏目さんのことだから、ずっこけの加減ができずに椅子から転げ落ちてしまうかも。
結論の出ないまま喉が震える。
「
「そうそう、それそれ!」
夏目さんは、いや、空は、首を縦に何度か振って、私のたった二文字の言葉に満足そうに笑っていた。
空、ソラ、そら。爽やかでいい名前だと思う。由来とかあるのかな。誕生日は? きょうだいは? 家族構成は? あだ名とかある? 名前は気に入っている?
私以外に空を空と呼ぶ人はいるの?
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