第6話


 気を遣うこととお礼をすることは別だ。

 あくまで礼儀として私は青野さんにお礼の品を渡すだけ。


 バッグの中を覗き込み、ラッピングされたピンクの紙袋を勢いよく取り出した。袋の口がチャックに引っ掛かり、少し亀裂が入ってしまった。


「青野さん、元気?」


 ふたりでホームルームを抜け出した日から青野さんと話すことはなくなった。次の日に一言お礼を言ってそれっきり。


 青野さんが私の右腕になっている間を思い返すと、私から彼女に話しかけることのほうが少なかった。というかほとんどなかった気がする。彼女に話しかける前に照れくささと緊張を感じていた。


 腕を怪我する前の関係に戻ってしまった。しまった? 戻ったと言うのが正しい。


 何はともあれ、私は右手を使えるようになり、青野さんとの関係には一段落ついた。だから面倒を見てもらったお礼をしないといけない。


 お互いに気を遣うのもこれで最後。これで無関係、元通り。平和、平穏。


「普通ぐらいです、普通」


 放課後に呼び出した青野さんは、落ち着きなく視線を泳がせ、長い髪を指で絡めて手遊びをしている。


 教室には私たち以外誰もいない。挙動不審な青野さんは他の誰にも見られたくないなと思った。間違っていじられキャラにでもなってしまったら、なんか嫌だ。手が不自由な私を看てくれたのはクールな青野さんだった。その思い出が霞んでしまいそうだから。


 これまで彼女の視線は、手は、背中は、私が独り占めしていた。

 これからは? 青野さんはまた一人になる?

 今日も私は誰とも喋ってないぞ。青野さんも、もちろん誰とも喋ってないよね。よね?


「最近話せてなかったね」

「そうですねっ」


 私の問いかけに彼女はビクッと肩を揺らし、ぎゅっと拳を握った。

 独り占めにしたいのは、今の彼女ではない。私を前に体を強張らせて緊張している青野さんじゃない。

 弱った私をそっと支えてくれる青野さんがいい。


 勝手に抱いた理想の彼女と現実の彼女とのギャップが私を苛立たせる。


「なんで緊張してるの。私なにか悪いことした?」


 すると、青野さんはまるで悪事がバレた時のような、焦りと諦めの混じった表情に染まった。もじもじと体を揺らしてから、首をがっくりと曲げて固まってしまう。


 しばらくして青野さんは小さくため息を漏らした。


「私には誰かと一緒にいる権利も、友達をつくる資格もないから」

「?」

「夏目さんを助けて、夏目さんのお世話をする時だけは、私はフツーの人として生きていられる」

「??」

「だから夏目さんには怪我が治ってほしくなかったし、夏目さんの怪我が治ってからは、」


 権利? 普通? 情報量が多くて、普段は碌に働いていない頭が急に覚醒する。

 青野さんが一息飲んだ。

 この瞬間をとても長く感じたのは、悪い予感がしたからだった。


「どうやって夏目さんから離れようかなって、いつ別れを切り出そうかなって、それを考えて……ました」


 別れる? わかれる、ワカレル?


「わ、かれるって」

「だって私はもう夏目さんの右腕じゃないし、友達ではないし、私は一人でいたほうがいい人間だから」


 友達ではない。

 私の中で何度も反芻した言葉だった。

 だけど人から、青野さんから言われると、たった一刺しで私の心を抉り取った。


 嫌われたくない。離れたくない。

 気持ち悪いって言われたくない、うんざりしてほしくない。

 だから看病という大義名分を立てて私の傍に青野さんをいさせた。


 初めて彼女の笑顔を見た時に生まれた気持ちは、不自然な関係の中で入道雲のように膨らんだ。膨らみ続けて、からっぽだった心が青野さんで満たされていた。そのことに「友達ではない」と相手に言われてからようやく気付いた。


 私は、人付き合いを放棄したはずの私は、青野さんと一緒にいたい。

 泣いている私を抱きしめてくれた彼女が、甘えさせてくれた青野さんが好き。


 もっと甘えていたい。私だけの彼女に。


「一人でいたほうがいいなんて、そんな寂しいこと言わないでよ」

「奪ったから」


 青野さんの纏う雰囲気が変わった。

 自分を守る様に腕を組み、悲しさと怒りの混じった目をしている。

 冷たい。


「奪ったら、奪われないといけない」

「どういうこと?」


 誰も寄せ付けない彼女の冷たさに近づきたい。


「夏目さんは犯罪者と一緒にいたい?」


 考えるまでもなく私の首が縦に振れる。犯罪者という言葉は耳に入って間もなく霧散した。彼女の脅かしは意味を成さなかった。


「一緒がいい」

「バカじゃないの」


 バカだ。


 自分でもそう思う。犯罪者とか物騒なことを言う人、放っておけばいいのに。本人は友達なんかいらないって言ってるんだし。私のほうだって怪我をして、陸上ができなくなって、なんにもなくなって、一人になりたかったはずなのに。


 バカになった。好きになった。


「何も知らないくせに。私は夏目さんの右腕として、夏目さんを助けるためだったから傍にいただけ。これ以上関わると私の汚れが夏目さんに移る。それはよくない」


 彼女に気圧されてジリジリと後退する。とうとう教室の壁に押し付けられた。

 私より背は低いのに、壁に手を置いた彼女に圧倒される。

 睨みつけてくる顔の距離が近い。


 手にしていた紙袋と松葉杖を投げ出し、背中伝いで腰を下ろした。恐怖と期待と、自覚したばかりの胸のときめきで心臓の鼓動が高鳴る。


「いいよ。青野さんといられるなら、私はどうなってもいい」


 思い出した。


 友達じゃなくても、仲良くならなくても一緒にいられる術を私は身をもって知ったじゃないか。


 滑るように仰向けに寝転がると、教室の床の埃っぽさで咳き込みそうになった。

 スカートのポッケから自分のハンカチを取り出し、自ら口に入れる。ごわごわとした触感で息が詰まる、吐き気がする。


 だけど、これで私の悲鳴が外に響くことはない。


 右腕を伸ばし、ここを狙えと言わんばかりに肘を二回曲げ伸ばしする。

 見下ろす彼女と目が合う。言うまでもなく、私の奇行に目を丸めていた。


「ふんれ」


 猿ぐつわ越しの私の告白は届いただろうか。


 もう一度伸ばした肘を曲げて、彼女の視線を誘惑するように、ゆっくりゆっくりと元に戻した。病み上がりの肘関節は、今はわずかな違和感を覚える程度だった。


「もう一度、私が夏目さんの右腕になればいいの?」


 汚れてるって自分で言ったんだ。私がもっと汚してやる。私だけを見てもらうために、私は大きく頷いた。


 青野さんの口角が上がった。


「ありがとう、私に生きる意味をくれて。ちょっとだけ我慢してね」


 届いた。伝わった。多分、成功した。

 ありがとうはこっちの台詞だ。青野さんが青野さんにとって普通の人でいられるよう、私を使ってほしい。


 …………きっと二人とも壊れてる。


 青野さんは私の体をまたいでから、大きく左脚を上げた。

 視界に入っていた彼女の壊れた笑みはスカートの内側で隠れてしまった。


 白くて細い脚とほんの一瞬だけ見えた白のショーツを目に焼きつけ瞼を閉じる。迫りくる痛みに備えハンカチを食いしばる。


 勢いよく踏み下ろされた彼女の左脚は、地面ではなく、私の右肘を貫いた。


 ミシリという感触と共に肘が爆発した。


 瞼の裏がぐるぐる。息を吐けずげろげろ。

 痛みから逃げるための悲鳴も逃げることができない。

 喉が焼ける。目が焦げる。


 世界が白く響き、白く染まる。痛みから少しでも遠ざかろうとする体をコントロールすることができない。


 酸素を取り込むために無我夢中で口の中からハンカチを取り出して放り投げた。

 不規則な呼吸音と共に肺に新鮮な空気が入ってくる。

 一番の衝撃をしのぎ切った。後は痛みに耐えて青野さんにお礼を


「え」


 再び視界に白い脚が映る。


 もう一度踏みしめられたということに気づいたのは、体が内側から破裂するほどに声を上げ、その声で鼓膜が破れそうになってからだった。


 二発目が来るとは思ってもいなかった。心と体が細切れになり元の位置を探し求めて脳みその中で暴れまわっている。


 芋虫のようにのたうち回っていると、しゃがみ込んだ青野さんが私の患部をさすった。更なる激痛のせいで意識を手放すことができない。今自分が息を吸っているのか吐いているのか分からない。


 彼女にされるがまま、唾液のついた私のハンカチで涙と鼻水を拭き取られる。前髪をかき上げられた顔面が青野さんの胸に埋まった。その滑らかさと涼やかさは覚えがあった。

 私は頭を包むようにして彼女に抱きしめられていた。


「頑張ったね夏目さん。偉いね。もうしないから。よしよし、偉かったね。でもね夏目さんも悪いんだよ」

「あ、う」

「私が傍にいるから、我慢できる?」

「でき、う」

「いたいのいたいのとんでいけ」


 慣れた手つきで頭を撫でられ、やけに流暢な言葉でほだされる。

 右腕を犠牲にして、再び青野さんとの生活が始まる。


 嬉しい。痛い。痛さが嬉しい。

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