第5話


 右手が使えない生活は二週間にも満たない間に終了した。


 ただの捻挫だったから、膝の怪我に比べればどうってことない、すぐに完治する。

 まだ鈍い痛みはあるけど今日から鉛筆も箸も利き手で持てるようになった。


『学校にいる間だけでいいからさ、明日から私の右手になってよ。それが私の青野あおのさんにやってほしいこと』


 青野さんとの関係も終わるはずだった。

 だけど今日も青野さんは昼休みに私の隣の席にいる。

 手を膝に置いてじっと固まっていた。


『そうだ青野さん。友達にはならなくていい、いや、ならないほうがいいな』


 友達ではないよな。少なくとも私はそう思っている。


 ちらりと彼女に目を向けると、心なしか前よりも肩に力が入っていた。それに明らかに目が泳いでいる。目が合うと、首ごとぎゅんと回してそっぽを向かれた。


『これからは私以外の人と話さないで。夏目さんには、その、安静にしてほしい』


 一昨日の放課後から青野さんの様子が変わった。

 私に頼まれたことはてきぱきこなし、それ以外は気だるげで退屈そうにしていたのが、昨日は総じて動きがぎこちなかった。代筆してもらったノートのお礼をすると「むふっ」って言って逃げていった。昼休みになるとほとんど走る勢いでこっちに来て私の弁当を取り出した。そして焦って包みを解くのに手間取って、しまいには机から落としそうになっていた。


 右手が使える今日から、青野さんの世話になることは特にない。

 ないけど、今日も昼休みになった瞬間、彼女は駆け寄ってきたのだった。


 回した首がゼンマイ仕掛けの人形のようにこっちに返ってくる。

 私は昼食を取る手を一旦止めた。


「青野さん、元気?」

「元気です! うん、元気」


 硬い表情と無駄に張り上げた声。体育会系の先輩と後輩みたいな受け答えだ。真っ直ぐな背筋が更に伸びて棒のようになっていた。


 彼女の視線に居心地の悪さを感じたのは初めてだった。熱視線、言葉の通り視線が熱い。短い付き合いの中で作られた彼女のイメージから大分かけ離れている。


「もう一人で食べれるからさ、気を遣わないでいいよ。自分の席に戻ったら?」

「そういう訳にはいかなくて、夏目なつめさんに何かあったら嫌だし」

「大丈夫だよ」


 左手で弁当箱を持って、箸をせかせかと動かして白米を勢いよく口に放り込んだ。急いで飲み込んで「ほらね」とアピールする。ぐりぐりと舌を動かして歯の裏に残った米粒を取り除いた。


「……分かった。何かあったら呼んでね」


 青野さんは表情を曇らせて席を去っていく。見送る背中がいつもより小さく感じた。


 これでいい。気を遣うのも、気を遣われるのもしんどい。


 青野さんもきっといつもの涼しい顔に戻るだろう。元気って言ってたし。

 誰とも話さないでほしいって、言われなくてもそうするし、そうしてるし。


 前までの青野さんで居てほしいなって思う。

 私に興味がなくて、常に冷めていて、都合の良い距離感を保っていて。

 感情を動かさないでほしい。私も感情を動かしたくない。


 右手が使えるようになってよかったじゃないか。もう彼女の手を借りなくていい。それはきっとお互いにとっていいことだ。


 居眠りを決め込んでいると、いつの間にか五限が終了していた。

 休み時間に青野さんがノートを持ってくることはなかった。



 六限のホームルームは来週に控えた体育大会で誰がどの種目に出るかについての話し合いだ。

 体育委員が当日の種目を黒板に羅列していく。

 弾けるチョークの音が耳鳴りのようにうるさい。行事に向けて浮足立っているクラスの雰囲気で息が詰まる。


 一学期の文化祭の時は私も意気揚々と立ち上がって、あーだこーだ主張していた。今となっては恥ずかしさすら覚えてしまう。


 スポーツをしていることが私のアイデンティティだった。そして、それに随分と依存していたことを思い知らされる。走れない私はクラスには不要なお荷物だと、誰にも言われてないのに妄想が膨らむ。


 頬杖をついて窓の外を見ると空は黒に近いグレーに染まっていた。雨が降っていないのが不思議なぐらいだ。室内も室外もどんよりとして、どこにも逃げ場所がない。憂鬱すぎる。


 ふと青野さんが頭をよぎった。転校してきて二学期からの新生活に対して気持ち悪い、うんざりするって言っていた。彼女の心はずっとこんな曇り空なのだろうか。だとしたら辛い。こんな私でも何とか力に……

 いやいやいや、私は誰にも気は遣わないって決めた。


 大きなため息を吐く。反動で吸った空気には、重い湿気が混じっていた。


 ホームルームが進行する。今はリレーのメンバー決めで大いに盛り上がっていた。怪我の悔しさと惨めさが襲いかかってきて、思わず現実逃避をしてしまう。

 空想上の私はリレーのアンカー。秋空の下、思い切り腕を振って、みんなの声援を受けてゴールテープを……余計空しくなった。


 体育大会に関する情報を全てシャットアウトする。見たくない、聞きたくない、想像したくない。


 だけど、頭の中から追い出すことができない人物がひとり。空想上の彼女は、気だるそうにへろへろと走っている。

 体操着姿が全然似合ってないのが逆に彼女の大人らしさを引き出していた。


 現実に戻ってくると、今度は五限終わりに彼女が私の元に来なかったことがフラッシュバックした。昨日までそうしていたように、さっきも代わりに板書してくれたとか、ありえないだろうか。


 私の首が歯車のようにギコギコと回る。


 後方の席の彼女はまるでそうするのが当然のように、黒板ではなく私のほうを向いていた。

 目と目が合う。今度は離れなかった。


 私の顔が弛んだのが自分でも分かる。

 そして青野さんも少し驚いてから目が細くなった。


 胸がざわつく。親しい友達みたいなことするなよと、私が私を責める。


「―――夏目」


 私を呼ぶ声で意識が覚めた。

 声の主はクラス会議を取り仕切っている体育委員のものだった。


「夏目は怪我してるから、本番は出れないよな」


 一応確認だけど、と付け加えられた。

 いつの間にか前の黒板は、端から端まで大会の競技と割り当てられた生徒の名前で埋まっていた。

 体育委員の言葉で教室が静寂に包まれる。


 空想の自分が記されているはずだった欄には別の女子の名前が書かれていた。

 聞いてやるなよと、誰かの呟きが聞こえた。

 全方位から視線が突き刺さる。静寂の空気には私への同情と哀れみが籠っていた。


 右手が使えるようになって思い上がっていた。

 一人で食事を取ることはできても、まだ自力で歩くことすらできない。体の成長が止まる数年後まで全力で走ることはできない。


 周りから、そして自分自身から今すぐ逃げたい。消えてなくなりたい。


「……体調が悪いので帰ります」


 泣くのを必死で我慢しながら床に置いてあるスクールバッグと松葉杖を持って立ち上がる。なりふり構わず右腕を曲げたせいで病み上がりの肘に鋭い痛みが走った。


 大会に出られないのも、クラスの空気を壊したのも全て私が悪い。このタイミングで逃げたら、あの体育委員のせいみたいになってしまう。

 他の誰かを悪者にしたくない。だけど我慢できなかった。


「さよなら」


 俯いて、前髪で視界を狭めて教室を後にする。教師も止めようとはしなかった。


 凍りついた教室からあと一歩で出られる、その瞬間だった。

 何者かにバッグをひったくられて、肩の力が抜けた。


「私も早退します」


 振り向くと、私の頭の中から追い出すことのできない、色白で物憂げで涼やかな香りのする彼女がいた。


「青野さん?」

「行こ、夏目さん」


 バランスを崩さない程度に背中を押される。

 青野さんが教室の扉を閉めたのと同時に、抑え込んでいた目の震えが大きくなる。


 通り過ぎていく教室ではそれぞれ授業が行われていて、人の気配が充満している。だけど廊下には人ひとりいない。私たちだけが世界の外側に消えてしまったみたいだ。


「階段気をつけて」


 薄暗くて誰もいない階段はいつかと同じだった。視界がぼやけて足がすくんでしまう。


「……」

「おぶってあげる」


 私を支える彼女の背中は、その細い体躯からは想像できないほど揺るぎなかった。


 校舎を出ると雨が降っていた。水滴のせいでもう前が見えない。


 私は彼女に甘えてばかりだ。

 立ちすくんでいると、すぐ隣で傘の開く音がした。

 雨が止む気配はない。


「送ってくね」


 ふたりでひとつの傘に当たる雨の音が胸の奥まで響き渡る。


 滑らないように、これ以上彼女のほうへ傾かないように、杖をつき真っ直ぐ歩こうとしたけど、そう長くは続きそうになかった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る