第4話


「これ、さっきの数学と古文のノート」

「さんきゅ」


 私が階段から落ちて、青野さんが私の右腕になってから一週間。


「今日はお弁当だっけ。一人で食べられる?」

「時間はかかるけど、大丈夫だよ」

「本当に?」

「大丈夫だって」

「……」

「無理そうだったらすぐ言うから」


 不満気な青野さんを横目にスクールバッグから弁当包みを取り出す。左手だけで結び目を解くのに手間取っていたら、すかさず青野さんが私の弁当を取り上げた。ふたを開けて箸を差し出してくる。ちゃんと持ち手は左側にして。


「悪いね」

「いちいちお礼とか言わなくていい」

「まぁまぁ」


 それじゃ、と彼女は後方の自分の席に戻って行った。

 青野さんが菓子パンの袋を開けるのを見てから私も箸を動かし始める。私が先に食べようものなら、彼女は私が食べ終わるまでこちらを凝視し固まってしまう。


 母に作ってもらったお弁当は彩りが豊かで、おかずは摘まみやすいように一口大で揃えられていた。お米も俵状に小さく握られて海苔が巻かれている。


 ゆっくりと味わいながら食べていたら、青野さんはあっという間にパンをたいらげて私のすぐそばまで来ていた。突っ立って私を見下ろしていると、空気を察した隣の席の男子が立ち去り、青野さんは彼に断ることなく腰を下ろした。


 元々の目のつくりや肌の白さを差し引いても、退屈そうな顔をしている。その割に無駄に背中を真っ直ぐにしてるからちょっとシュールだ。


 いま何を考えてるんだろう。まあ友達ではないからどうでも


「ひっか」

「夏目さん?」

「ふぁんれもない」


 ごくんと卵焼きを飲み込んだ。


 学校にいる間、青野さんは私の一挙手一投足を見逃さないよう常に目を配っている。最初は驚いたけど、私のほうからお願いしたことだから拒否するのも気まずいなと思った。


 次はどのおかずを選ぼうか。お箸を迷わせているこの瞬間も青野さんの視線を感じる。

 試しに箸の先を空中で遊ばせてみると、彼女は手を膝に置いたまま微動だにしなかった。目を合わせても見つめ返されるだけで、思わず私のほうから目を逸らした。


 気にしないでおこう。嫌われてる訳じゃないだろうし。

 気を遣うのも、気を遣われるのも面倒くさい。


 走ることができなくなって、私の長所、人に誇れるもの、自信、人としての土台を失った。踏みしめるものがなくなり地面に這いつくばる。立ち上がるための腕も痛めてしまい、気力を振り絞らないと学校に通うことすらままならない。人付き合いへのエネルギーは、母のお弁当を食べても補充されない。


 そんなことを考えたバチが当たったのか、左手の箸で摘まんだ唐揚げが落下した。机の角に当たってから床に転がっていく。


「あー」

「いいよ、捨ててくる」


 私が反応する間もなく青野さんは立ち上がり、ティッシュで包んだ唐揚げをゴミ箱へ運んで行った。クラスメイトの数人が通り過ぎる彼女を目で追っている。彼女が私の傍から離れた隙にと、後ろの席の女子がひっそりと笑いながら話しかけてきた。


「夏目、青野さんの弱みでも握った? もしかしてその腕、青野さんにやられたの」


 私が放課後に階段から落ちたこと、そこに青野さんが居合わせたこと、病院まで一緒に行ったことは言ってない。面倒くさがらず右腕の怪我のことも周りに説明しておけばよかったかもしれない。


 同情されて気持ちがいいのは最初だけで、しばらくするとお互い気を遣って疲れてしまう。それを膝の怪我の時で思い知った。だから腕の件は謎に包んで誤魔化していると、今度は好奇の目で見られるようになった。


 人の目は気にしないようにすると決めたんだけど、まだまだ心がざわついて落ち着かない。前髪は伸びたまま放置して、見えるものを見ないようにしている。


「色々あってね」

「怪しい~」


 青野さんは青野さんで、転校、不登校、不愛想かと思えば怪我人の世話をしている。登校拒否の件で彼女に話しかける人はいないし、自分から話をすることもない。私の怪我にまつわる時を除いてだけど。

 何考えてるか分からないだろうな。近くにいる私も、ちょっとまだ分からない。


『私もお世話はするけど友達になるつもりはないから』


 過保護すぎる気はするけど、最低限の会話はしてくれるし、中途半端な距離感が今の私には丁度よかった。


「そっとしといて」

「ノリ悪いなあ。夏目二学期から別人じゃん」

「ごめん」

「責めてはないんだけど。陸部の人も心配してたよ」


 ばつが悪そうに彼女は元いた友人の輪に戻って行く。

 食事を再開するために前を向くと、青野さんがすぐそばで佇んでいたことに気づかず、突然現れたみたいに感じてビクッてなった。


「食べたら?」

「そうする」


 もそもそとひとつずつおかずを口に運ぶ。私が食べ終わるまでまた青野さんは横の席でじっと固まっていた。


 青野さんにはいくら目を向けられても嫌な感じはしない。

 私に対して同情も怪しむこともせず、感情が希薄だからか、それとも単に顔がいいだけなのか。私は彼女ともっと……いやいや。


 人付き合いとか今の私には煩わしい。そんな余裕がない。二度の怪我がショックすぎてふさぎ込んでいるのだ。退屈だけど何かをする気力もない。


 だけど、体を支える松葉杖と腕を吊る三角巾がなくなったら、注がれる数多の視線に向き合わないといけない。自分で立ち上がって歩き出さないといけない。

 親の心配を裏切って治療をサボるほどの度胸はないから、今日の放課後は整形外科でのリハビリが待っている。幸か不幸か、治療はすこぶる順調だった。青野さんのサポートが完璧すぎる。


 昼休みの残りの時間は机に突っ伏して寝ることにした。私の代わりにお弁当箱を包んでバッグに入れてから青野さんは自分の席へ戻って行く。残ったのは独特な木の香りだけだった。



 それから数日後。

 放課後に話したいことがあると珍しく青野さんのほうから呼び出された。誰もいない教室に強い西日が差し込む。最近はもう日が暮れるのが一気に早くなった。


 彼女と向き合った時に目が合わないのもまた珍しかった。

 沈黙の間に運動部の掛け声が小さく響く。


 後ろめたいことを隠すように目を泳がせながらようやく青野さんの口が開いた。心なしか声が震えている


「夏目さん、これからは私以外の人と話さないで」


 話さないでって、いきなりどうした。私も同級生とはほとんど喋っていないんだけど。

 趣旨が分からず戸惑う私をよそに青野さんは続ける。


「誰かのせいで怪我が長引くかもしれない! 夏目さんには、その、安静にしてほしい」


 まるで激しい波のように前半と後半とで語気が入れ替わった。


 いつもの冷静さが全然ない。

 怪我の心配をしてるの?

 吊るされた右腕を無理やり捻ってみる。


「その、ことなんだけど」


 私は私で、ぎこちない笑みを取り繕って「いい知らせ」を伝える。


「腕の布は明日の診察で取れるらしいんだ」


 腕が自由になることに全力で喜ぶことができず歯切れが悪い。

 青野さんなら笑ってくれると思った。


 だけど違った。

 彼女はいまだかつてないほど目を見開いた後、不安とも悲しみとも取れる表情に染まっていく。


 どうしてそんな顔をするの。

 どうして怪我が治ることに喜ばないの。

 そして、どうして私も喜べないのだろう。


 私のことも青野さんのことも分からず、分からないことだらけで頭が混乱して、理性と本能と現実と理想がごちゃごちゃになっていく。


 私はともかく青野さんには苦しい思いをさせたくない。その願いが心の混沌から一番乗りで抜け出し、無意識に言葉を紡ぐ。


「でもでも、これを取った後もあんまり肘は使わないようにするし、青野さん以外の人とは話さない。これでどう? 元気になった?」


 恐る恐る顔を上げる。

 すると青野さんは、この教室で最初に見せた自然な笑顔とはまた違った、まるで脅威から助かって安堵したような弱々しい笑みを浮かべていた。

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