第3話

 先に口を開いたのは青野さんだった。


「強がってない?」

「はあ?そんな訳ないじゃん」

「泣いてるよ」

「そんな訳……」


 自分でも気づかなかった。私はいつからか涙を流していた。


「え」


 涙はとめどなく頬を伝い、右腕に巻いた三角巾にぽたぽたと雫を垂らしていた。

 意識すればするほど呼吸が浅くなる。

 数秒も経たないうちに体が息を吸うために震えだした。


「うぐ、ぐすっ、うう」


 俯いて目を閉じる。目を閉じても涙は瞼から溢れ出ていく。息をこらえようとしても胸が引きつって吐息が漏れる。


 体に力が入らない。松葉杖が役目を果たせず体ごと傾いた。

 バランスを崩しても両足で踏ん張れないから、そのまま地面へ落ちてゆく。私より先に杖が鈍い音を立てて倒れた。


 迫りくる地面と痛みを目前に心臓が速く脈打つのがわかる。一人ではどうしようもない無力感。諦めの境地に立った。


「ふがっ」


 しかし私が倒れることはなかった。柔らかな感触の何かが私の頭から胸にかけて包み込む。背中を抑え込まれ、その何かに密着する。私もこれ以上倒れないよう、もがくように左手でしがみついた。


 吸った息に柑橘系の涼やかな香りが混ざっている。その違和感を覚えてからようやく、私が青野さんに抱きしめられていること気づいた。


「……助かったよ」

「うん」


 私は彼女に体重を預け、しばらくそのままでいた。

 押し倒してしまうんじゃないかとか、涙と鼻水がシャツに付いてしまうんじゃないかとか、そんなことが頭をよぎってもなお、私は涼しく柔らかな彼女から離れることができない。


「もうちょっと、このままでいさせて」

「……」


 その沈黙もまた肯定だった。


 青野さんは言葉を発することなく私の背をポンポンと二度叩く。その安心の合図を皮切りに私はまた泣いた。


 今日で一番泣いた。我慢する気もなく、年甲斐もなく泣き声を上げた。

 情けない私を、青野さんは何も言わずただ抱きしめていた。



 私の熱は全部青野さんに吸収されたのだろうか。彼女に包まれた間に、私が持っていた悲しみ、嘆き、怒り、絶望といった類の熱情が静まっていく。

 私が落ち着いたのが伝わったのか、青野さんは私から離れ地面に横たわっていた松葉杖を私に差し出した。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 杖を拾ってくれて、そして抱きしめてくれて。


 クールダウンした後に訪れたのは寂しさだった。左手で握った杖は残酷なほどに冷たい。本能的に彼女にもっと触れていたいと心が求めてしまう。


 だけど私たちはそんなことをする間柄ではない。

 その証拠に青野さんは普段の気だるげで力感のない、どこか憂いを帯びたいつもの姿に戻っていた。私の想いは一方通行だったと思い知らされる。


 またしても気まずい沈黙が流れる。迎えの車はまだ来ない。


「夏目さん」

「な、に!」


 抱きしめられる前と変わらない青野さんの口調にやるせなさを感じ、私は不貞腐れた幼稚園児のように声を荒げた。


 静かな夜の空気と見下ろすように浮かぶ半分の月、そして青野さんの視線が幼稚な私を冷たく突き刺す。もういい時間だ。きっと別れの挨拶でもされるのだろう。


 二学期から転校してきた青野さんは、人付き合いを拒否している。誰かと親しくなったように見えても、次に会った時にはまるでなかったかのように冷たくあしらわれる。

 相手に対して露骨に対応が悪い訳ではないから面倒くさい。最初から嫌な顔をして直接言えばいいのに、学校を休むという形で距離と時間を置いて、温度差を生んで、こちらが悪かったかのように肩透かしを食らわせてくる。


 どうせ私の時も、つまり今回も同じ。しばらく会えなくなって、それでおしまい。さっきの抱擁も、教室で見せた儚い笑みも。

 しかし青野さんの言葉は私の思ってもいないものだった。


「他に私にできることはない?」


 青野さんから私に歩み寄ろうとする言葉だった。


 罠じゃ、ないだろうか。甘い言葉で誘惑してるんじゃないか。関りを深めるような言葉をかけておいて、結局なかったことにする。その容姿と言葉そして態度で人の心を弄び、転校で溜まった鬱憤を晴らしているのだろうか。そんな憶測をしてしまう。


「できることって、どういうつもり?」

「今の夏目さんは何だか放っておけない」

「不登校の人に言われても信用できないんですけど」

「だったら明日からは学校に行く」


 私をからかっているようには感じなかった。

 いつの間にか私を真っ直ぐと見つめる彼女の目には力が入っていた。

 私の怪我なんてどうでもいいんじゃなかったのかよ。


「階段から落ちたのは全部私が悪いんだし、青野さんには関係ないことだよ」

「泣いていたから」


 その言葉で青野さんに抱きしめられた感触がフラッシュバックする。転校したばかりでまだ新しい制服はシルクのように滑らかで心地よかった。

 力強くて、でも柔らかくて、涼やかな香りがして。回された手で背中を叩かれた時はすべて忘れてしまうほどに心が弛んだ。


「夏目さんには死んでほしくない」

「はあ!?」

「辛い目に合った人が次に何をするか、何をしたいかは、大体わかる」

「私が自殺でもしようって言うの?」

「したくないの?」

「えぇ……」


 そんな極端な……。さすがに死にたいとまでは思いもしなかった。

 とはいえ、今の私に生きる希望がないのは確かだった。陸上はできないし、日常生活も不自由で何ひとつ楽しみが思い浮かばない。


「する訳ないじゃん」

「ならよかった」


 青野さんはふっと息を吐き、肩を撫で下ろした。さっきのは冗談ではなく本気だったのか。青野さんの価値観を垣間見た気がする。


「でもまあ、生きてて楽しいことはないかもね」

「友達はいないの?」

「いたけど、足を怪我してからはあんまり連るまなくなったかも。情けないとこ見られたくないし」


 付き合いのなかった青野さんが相手だったからこそ、私は何も気にせず感情を全面に出せたのだろう。


「いなくなるかもれないのに」

「ん?」


 青野さんの小さな呟きは私の耳に届く前に力尽き、脳が無関係なものとして処理した。処理してしまった。


 彼女の孤独にこの時気づいていればよかったんだけど。


 自分から交友の機会を放棄している者同士、私は彼女に親近感を覚えていた。手放すのと奪われるのとでは正反対。青野さんが他人と関わらないという事実だけに目を向けていた。


 退屈で希望のない真っ暗な日々。まだ光は見えないけど、重く淀んだ空気の中、出口を求めるように風が吹いた。その向こうからは涼やかな香りがした。


「そうだ青野さん。友達にはならなくていい、いや、ならないほうがいいな」


 気分が昂った私は、青野さんに私のエゴを押し付ける。


「学校にいる間だけでいいからさ、明日から私の右腕になってよ。それが私の青野さんにやってほしいこと。……っ」


 眩しいライトが私たちを照らし、思わず目を細めた。一台の乗用車が私たちのそばで停車しヘッドライトが間もなく消失する。

 私を迎えに来た我が家の車だった。中からがさごそと物音が聞こえる。


「頼めるかな」


 もうすぐ二人だけの時間が終わる。否が応でも会話は中断される。


 青野さんは何を考えてるの、返事はまだかと急かす言葉を投げかけたくなる。そんなことをしても意味ないと理性が抑え込む。握った拳に汗が滲む。


 今まさに運転席から母が出てくるところだった。青野さんは眼元はそのままに、口の端をわずかに上げた。


「いいよ。それは凄く丁度いい」

「よかった」

「安心して夏目さん、私もお世話はするけど友達になるつもりはないから」


 そう言って彼女は微笑みを浮かべた。


「ありが」

「空、あんた大丈夫?」


 私の言葉は母に遮られ、青野さんに届くことはなかった。


 母が青野さんを家まで送ることを提案すると、彼女は受け入れて一緒に車に乗った。青野さんが助手席で、私が後ろ。松葉杖と学校から借りた車椅子を一緒に乗せたから窮屈で身動きが取れない。


 前の怪我で慣れたのか、母は私の腕が吊られているのを見ても大して驚かなかった。それよりも一緒にいた青野さんに興味を示して、色々と話しかけていた。


 整形外科から一旦私の家を通り越して青野さんの家にたどり着く。自宅から高校を間に挟んだところのあまり見覚えのない土地だった。


「今日は本当にありがとね栞ちゃん。遅くなっちゃったわね。お家の人は心配してるでしょ」

「いえ」

「また今度挨拶に行くから、この子が」


 私かよ。まあ行くけど。ていうかもう名前で呼んでるのか、母。


 助手席のドアが開くと、まだ秋になりきれず熱を帯びた夜の空気が入り込んだ。

 母が気を利かせて後部ドアの窓を下げた。エアコンの冷気が飛び出ていくのを感じながら青野さんと目が合う。今日のお礼とか明日からのこととか言わなきゃ。


「その、あの!」

「夏目さん、また明日」


 その言葉に私の胸は確かに躍った。

 青野さんは友達ではない。私たちの関係を言い表すなら何だろう。契約? お手伝いさん?


 ともあれ、明日から気詰まりや遠慮のいらない相手ができたこと、彼女と特別な繋がりができたことに、私の心は無邪気に弾むのだった。

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