第2話
それから会話が弾み、私たちは仲良くなって……ということはなかった。
笑い疲れて一息ついた青野さんは、気まずそうに私から目を逸らし、そそくさと補習プリントを再開した。汗ひとつかく様子もなく、すっかり元の無表情に戻っていた。
このまま青野さんを残して一人で帰るのは気が進まない。八つ当たりで椅子を蹴って自分の足にダメージを受けた今の私は、二重の意味でただのイタい人だ。青野さんがよくても私は納得いかない。
大きく息を吐き、机に突っ伏して目を閉じる。学校のそれ独特の木の香りが鼻を抜けていく。しばらくすると、青野さんのペンが走る音、紙が擦れる音、時計の秒針の音、屋外のわずかなセミの鳴き声と、時折上がる運動部の掛け声が混ざり合って私の意識を溶かしてゆく。
瞼の裏には夕日に照らされ目を細める青野さんがいた。
「夏目さん」
「んあ」
少しの間眠っていたらしい。顔を上げるとスクールバッグを持った青野さんが私を見下ろしていた。夕日は今まさに沈むころで、紫色の空からは光がほとんど入ってこない。室内が静まり返っているのは青野さんが窓を閉めたからで、時計を見ると丁度下校時刻だった。
青野さんは二つ手にしていたスクールバッグの片方を私に差し出した。そばには私の松葉杖が立てかけられていた。彼女が持ってきてくれたらしい。
「そろそろ帰らないといけないんだけど」
青野さんからバッグと杖を受け取り、戸締りをして二人で教室を後にする。青野さんは職員室まで鍵を届けないといけないけど、先には行かず私と歩調を合わせた。
コツンコツンと杖のつく音が誰もいなくなった廊下に響く。二人並んで歩くと、背は私のほうが少し高いのに、スカートのウエスト位置はほとんど変わらなかった。
「先に行ってていいよ」
「それはそうだけど」
青野さんが私から離れる素振りは見せなかった。
同級生を「気持ち悪い」と言い切ったくせに、どうして。杖の持ち手にぎゅっと力が入る。
「青野さんさ、私が怪我人だから待ってくれてたんでしょ」
転校生の青野さんという存在に埋もれていたけど、私も二学期の初っ端は良くも悪くも目立っていた。杖をついてるしずっと下を向いて表情は暗いし。部活は行かなくなり授業も時々サボるようになった。友人のからの誘いやラインのメッセージもことごとく無下にして孤立への道を突っ走っている。
青野さんは更にその上を行く。青野さんは人に絡まれるのを迷惑がって、登校拒否までして人間関係を拒絶している。
「別に、どうも思っていないけど」
「思ってないんかい」
肩透かしを食らって力が抜けた。痛々しいギプスと杖に対し、同情の目を向けなかったのは彼女が初めてだった。それはそれでいいのか疑問だけど。
「さっきの自爆してたアレが面白くって、置いて帰るのも悪いなって……くくっ」
そう言ってから、青野さんは思い出し笑いをこらえるように息を詰まらせた。
「むう」
しかし恥ずかしさや怒りの意識は、とある一点に上書きされた。
不規則に漏れる青野さんの吐息が、なんか、色っぽい。
ぶんぶんと首を振って考えないことにした。でもその間も私は青野さんからの視線を意識してしまい、結局意味をなさなかった。
やがて下りの階段に差し掛かる。右膝の不自由さにも慣れ、松葉杖捌きもすっかり板についた。私は意識を振り払うように、いつもよりせかせかと素早く杖を振って階段を下る。
それでも青野さんからは遅れるけど、彼女は踊り場に留まって私が追いつくのを待っていた。
「ねえ青野さん」
「何?」
「明日は学校休むの?」
「…………」
沈黙は肯定だった。私が追いつく寸前で彼女は階段を下りていく。ほっそりとした背中が暗闇に沈む。
置いて行かれる。しばらく会えなくなる。二人で過ごした放課後がリセットされてしまう。
「待って!」
私は更にスピードを上げ、踊り場から一段踏み出した。その時だった。
「ぬあっ」
右わきに構えて体重を支える松葉杖の先端が、段からずれ落ちた。
一瞬の浮遊感を伴って体が放り出される。
―――私、死んだかも。
見ている光景が、世界がスローモーションになる。
青野さんに追いついて、追い越す。
反射的に左手を伸ばした。青野さんも右手を伸ばす。
お互いの指先が一瞬だけ触れた。でも掠るだけ。
受け身を取るために背中を丸める。右腕はもう引っ込みがつかない。仕方なく肘を曲げて衝撃に備える。
ぎゅっと歯を食いしばり、目を閉じる。最後に映ったのは青野さんの驚きに染まった顔だった。そんな顔もするんだ。いつもは仏頂面で人間味がないくせに。私の前では笑って、普通の女の……
ぐしゃりという感触が、真っ先に階段の淵に接触した右肘から全身へ伝わった。
「・――・・・――――ッッ!!」
頭が白黒に点滅してパニックになる。痛い、痛い、いたいいたいいたいイタイ。涙が溢れて何も見えない。
「なつ……だい……よん……るから」
青野さんの声が痛みの熱でシャットアウトされる。
どうしてこんな目に合わなきゃいけないんだ。なにか悪いことをしたのかな。した覚えなんかない。
私は悪くない。ちょっとだけ杖の先端がズレただけ。青野さんはいてもいなくても変わらない。どうしようもない。避けようもない。今回はただの事故。
誰も悪くなんかない。
そういえばこの間も似たような目にあったな。炎天下のスタジアムで膝の痛みに成す術なくうずくまっていた。前回の怪我は自分のせいだった。
痛みを我慢して、顧問にも仲間にも家族にも誰にも言わず走り続けた。根拠もなく自分を過信して、見て見ぬふりをした私への罰。
そうして私の陸上人生は閉ざされた。数年は膝を曲げることはできず、全力で走ることもできない。
私がうな垂れている間に青野さんは養護教諭を連れてきた。二人に抱えられ車椅子に乗せられる。
―――ところで、膝を壊していなければ、階段から落ちることもなかったのではないだろうか。そもそも足が不自由だから階段から落ちたんだ。こんなところで這いつくばって、泣き声をあげて、不愛想な転校生に見られることもなかったはずだ。……最初から全部私が悪かったんだ。
タクシーで行きつけの整形外科に駆け込んで診察を受ける。養護教諭の姿はなく、呆然とする私の代わりに青野さんが対応してくれた。
「夏目さん、大丈夫?」
「どうだろ」
病院の外に出てようやく我に返った。
「私が目を離して先に行ったせいで、ごめんなさい」
「なんで謝るのさ、私の自爆でしょ。全部私が悪いよ」
「それはそうだけど」
否定しないんかい。
「丁度足も怪我してたし、今さら腕の一本や二本潰れたってどうってことないよ」
幸いにも骨は折れてなかった。一、二週間で右腕を吊っている医療用の三角巾は取ることができるらしい。
青野さんには強がってみせたけど、松葉杖は左側の一本だけになり、これまでよりさらに歩行が困難になってしまった。
それ以上に精神的なダメージが大きい。泣き面に蜂、弱り目に祟り目。二度の怪我でこれから先何もかもうまくいかない気持ちが強くなった。
これ以上ネガティブな自分をクラスメイトに見られたくない。自分から「ネタ」にするのも何か違う。私は打たれ弱いほうだったんだなと気づいた。気づけただけでもよしとしよう、と思ったけど無理だった。もうおしまいだ。
病院の明かりが消えた。それと同時に強い夜風が吹き抜ける。
薄明の街灯の光に照らされた青野さんの髪がふわりとなびいた。右手で髪を押さえ目を閉じる。その仕草が優雅に感じて、吹きさらしにされる私は更に惨めな気持ちになる。
お互いに黙って間が持たない。迎えに来るはずの母はまだだろうか。
「夏目さん」
「なに?」
先に口を開いたのは青野さんだった。
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