清家准教授と私 ep1

黒っぽい猫

第1話 謎のレポート提出


その日、私は政治学の講義に5分遅刻した。


友達の悩みを聞いていて、つい時間を忘れていたのである。


全力で講義室まで走ったのだが、間に合わなかった。担当教官は厳しいので有名な清家准教授である。息切れしながら一番後ろの席にそっと座ったが、清家先生は見逃してくれなかった。講義を中断して私をまっすぐ睨んで言った。


「おい、今入ってきたヤツ。名前を言え」

「保科です。保科みゆきです」

「講義の後、俺のところに来い」

「ハイ、わかりました」

「勝手に帰ると単位はやらんからな」

「ハイ、必ず残ります」


ヤバい!私は思った。清家先生に呼ばれるときはロクなことがない。噂では、清家先生は怒ると懲罰的にレポート提出を課すらしい。講義終了後、私は急いで清家先生のところに行った。


他の学生たちは気の毒そうな目で私を見ながらも、さっさと講義室を出て行った。階段教室である。階段に気を付けて降りながら、なるべく速足で私は清家先生の元に参上し、深々と頭を下げた。不吉にも心臓が早鐘のように鳴った。


「遅刻して申し訳ありませんでした」


清家先生のこめかみに血管が浮いていた。よほど虫の居所が悪かったらしい。ヤバい。ヤバすぎる。私は心底ビビった。政治学は必修科目なのだ。この科目で単位を落とすと留年確定だった。


「遅刻くらいたいしたことないと思ってるんだろ。舐めてんのか!」

「いえ、決してそういうわけでは。友人の悩みを聞いていて…」

「言い訳するな!学問に対する誠実さに欠けると言ってるんだ!」

「申し訳ありません。以後気を付けます」

「当たり前だ。今度遅刻したら問答無用で単位はやらん」


ということで、私は先生からありがたい課題をいただいた。その課題というのが超難題だった。何を書けばよいのかさっぱりわからない。先生は今日中に仕上げて午後7時までに研究室にくるように命じた。本来ならレポート提出はテキストデータを送信すればいいだけだが、清家准教授は「研究室に来い」と言った。


午後7時だって!? 政治学の講義は午前中だったが、午後にも講義が2コマあり、それが終わるのが午後4時過ぎ。レポート提出時刻まで実質3時間もない。3時間以内でこの難題を仕上げるのは不可能に思えたが、やるしかなかった。


まずは図書館に直行し、昼食抜きでレポート作成に必要な文献を探した。参考図書は幸い貸出することができた。3冊借りたがこれでなんとかレポートを仕上げねばならない。3冊全部を読むのは不可能だから、必要な部分を探して抜き出して引用し、自分の意見をレポートにまとめなければならない。


午後の講義は必修科目ではなかったが出席した。担当教授には申し訳ないが最後尾の席で私は3冊の参考図書に必死で目を通し、どこを引用するか付箋を付ける作業に没頭した。講義が終わり次第すぐにレポートの執筆にとりかかることができるようにするためだった。


午後4時15分、講義が終わった。私は3冊の重い本をリュックに詰めて図書館の自習室に直行し、ノートパソコンを開いた。午後7時に清家研究室に行くには、図書館を6時半に出なければならない。実質2時間しかない。私は焦った。出来不出来はともかく、とにかく1分も遅れることなくレポートを提出する。それが一番肝心なことだった。


頭の中ではおおよそできていたが、それを論理的な文章にするには思いのほか時間がかかった。参考図書自体が難しくて、正直半分も理解できない。それでも自分の意見を書かなくてはレポートとして成立しない。私はとりあえずパソコンに向かって猛烈な勢いで文章を入力した。下書きの段階でタイムアウトになったら、下書きのまま提出するつもりだった。


それから2時間。ひたすら文書作成と校正を続けた。誤字脱字も禁物だ。ワープロだからといって変換ミスを許してくれる先生ではない。ニュアンス的に漢字の選択に迷ったときは別の表現になおし、漢字のミスを回避した。午後6時20分、ようやくレポートが完成した。いや、完成といってよいのかわからないが、とりあえず最後の結論部分まで書いて形だけは仕上がったというべきか。もう一度読み返し、何か所か誤字脱字を訂正して、私はテキストデータを送信した。


時刻は6時40分になろうとしていた。この大学のキャンパスは広い。これからキャンパスの端っこにある清家准教授の研究棟まで速足で歩いてギリギリだった。外はすでに暗くなっており、キャンパス内を走るのは危険だったから、私はできる限りの速足で研究棟に向かった。清家研究室に着いたのは午後7時3分前だった。間に合った。


「保科みゆきです。ただいま参りました」

「おう。入っていいぞ」


私はおそるおそる部屋に入った。清家研究室に入るのは初めてだった。細長く狭い部屋はどこもかしこも本だらけだった。清家准教授は背を向けたままパソコンに向かって文書を読んでいる様子だった。出入口のドアを閉めたものの私はどうしたものかと手持無沙汰に立ったまま待っていた。数分たって先生が振り返って言った。壁に掛けてある電波時計の針が7時ちょうどを指していた。


「ギリギリセーフだな」

「ハイ。なんとか仕上げました」

「今、読んでる途中だ。なかなかよくできてるじゃないか」

「ありがとうございます。課題が難しくて苦労しました」

「だろうな。あれは院生用の課題だから当然だ」

「そうなんですか。道理で…。本当に難しかったです」

「まあ、いいだろ。そこに座れ」


笑顔ではないものの午前中とは打って変わってなぜか清家准教授は機嫌が良いようだった。先生の正確な年齢は知らなかったが三十代後半に見えた。ウチの大学では三十代で准教授になるのは出世が早いほうだろう。五十代になって准教授。定年近くでやっと教授に昇格する人もいた。


「保科。お前に話がある。どうだ。院に進学してみないか?」

「大学院ですか?私にそんな才能があるとは思えませんが」

「お前の意思はどうなんだ?院で研究する気持ちはあるのか?」

「親に相談しないとなんとも」

「そうじゃない。お前の意思をきいてる」

「私の意思は…まだ決まっていません。就活はしてますが」

「そうか。無理にとは言わん。考えてみてくれ」


清家准教授は独身だと聞いていた。過去に結婚していたが離婚したとも聞いていた。うぬぼれかもしれないが私はちょっとだけ警戒した。研究室は本があふれているだけでなく、散らかって汚れていた。


「先生、部屋、掃除しましょうか?」

「なんだ?俺におべっか使っても単位はやらんぞ。それに女だからって他人の部屋を掃除することなんかない。特に研究者は男も女もない。実力勝負の男女対等社会だからな。俺はお前に掃除させるためにわざわざ研究室に呼んだんじゃないぞ。無用な気遣いはよせ」

「迷惑なら遠慮しますが、掃除と片付けは私の趣味みたいなものなので。散らかって汚れた部屋を見ると掃除したくなるんです。すぐすみますから、やらせてもらえませんか」

「まあ、好きにしていいが、本の並びは変えないでくれよ。乱雑に積み上げているように見えるかもしれんが、俺にはどこに何の本があるか頭に入ってるんだ。勝手に片付けられては迷惑だからな」

「わかりました。本の整理はしません。ゴミ拾いと床拭きだけしときます。テーブルの上は触りませんから安心してください」

「言っとくが、俺におべっかは通用しない。掃除してくれるのはありがたいが、それでレポートの評価が甘くなることは一切ないからな。その点は念を押しておく」

「はい。わかってます」


私は30分ほどでちゃっちゃと掃除と片付けをすませた。その間ずっと、先生は私のレポートに目を通していた。私は自分のレポートがどう評価されるか気になった。追加課題だからこれがダメでも単位認定不可にはならないだろうが、大学院への進学を勧められたのは意外だった。私は先生の期待を裏切りたくなかった。


「掃除、終わりました」

「そうか。すまんな。もう帰っていいぞ」

「あの、私のレポート、出来はどうでしょうか?」

「まあ、そう焦るな。出来が悪くても単位認定不可にしたりはしない。お前は誠意を見せてくれたからな。研究者は誠意がなくてはならん。それと時間厳守。それが俺のポリシーだからな。次から遅刻するなよ」


清家准教授は初めて穏やかな笑顔を見せた。


「はい、わかりました。それでは、失礼します」


私は研究室を出てホッと一息ついた。清家准教授はめちゃ厳しい先生だが意地悪な人ではない。研究にも講義にも真剣に取り組んでいるのだ。二度と遅刻しないことを私は肝に銘じた。


満月が煌々と輝いていた。


ああ、おなか減った。そういえば昼食も夕食も食べてなかった。アパートに帰ってパスタでもゆでるかな。






おわり。


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