5
身近な人が死ぬ未来なんて、これっぽっちも考えたことがなかった。私が大人になっても、変わらず側にいてくれると身勝手な期待をしていた。
「私の後悔は……あきバアへの恩返しが出来なかったことなんです」
爆ぜる火球を眺めながらの独白に、適当に相槌でも打てばいいものを店主は返事も返さず、懐から取り出した煙管を咥え紫煙を宙に燻らせていた。油蝉の鳴き声が容赦なく降り注ぐ軒下で、雲沸き立つ青空を見上げていると一陣の風が吹いて私の前髪を揺らした。慌てて火球が落ちないように手のひらで囲っていると、店主が口を開く。
。
「月並な言葉だが、人は大事な存在を失って初めてから後悔を覚えるもんだ。それは何十年、何百年時が経とうが、いつの時代も変わらん人間の
「そうですね……。その通りだと思います。なんでそんな当たり前のことに気づかないんでしょうかね」
あきバアは最初の旦那さんを戦争でなくして、再婚相手の曽祖父も病気で早くに亡くした。二人ともとても優しい旦那だったと自慢気に語っていたけれど、その裏で身内を次々に亡くしていたことから、「不吉の象徴」と揶揄され距離を置かれていた辛い時期もあったという。
大事な家族を次々に喪っていく胸中は、私ごときには推し量ることもできない。もしかしたら――私は歳が大きく離れた実の子供のように思われて、可愛がられていたのかもしれない。
「その年で理解しているだけマシってもんだ。自分にできることは何か、せいぜい火球が落ちるまでの間に見つけてくるんだな」
リンゴの歌が聴こえた。瞼を開けた私の前には子供に戻ったあきバアが、ベッドの上で鼻歌交じりにスケッチブックにクレヨンで絵を描いていた。
私の前では正気を取り戻してくれていたとはいえ、着実に認知症は進行していて自分を自分たらしめる記憶の
このときは確か、面会に来た私のことを思い出せなかったんだ。
「あきちゃん。何書いてるの?」
童心に帰ってる時のあきバアの接し方は難しく、ほんの些細な言動でヘソを曲げられると口も聞いてもらえなくなってしまうので、老人ホームのスタッフの方々には度々迷惑をかけていた。特に年寄扱いされるのが気に食わないらしく、おばあちゃん呼ばわりすることは厳禁だった。気を遣いながら画用紙を覗くと、満面の笑みであきバアは振り返る。
「らべんだーだよ。あきこね、ラベンダーのお花が大好きなの」
「上手に描けてるね」そう言ってあげると表情筋が弛緩したようにあきバアの顔が綻んだ。
「むかしね、らべんだーのお花畑を歩いたんだよ」
「へえ、そうなんだ」
ラベンダーが好きだという話は本人から聞いたことがある。スケッチブックの大半は紫色のクレヨンを大量に消費してラベンダーばかり描かれていたし、個室にはいつもラベンダーの芳香剤の香りを漂わせていたことから余程好きなんだなと感じていた。よくよく室内を見渡せば紫色のものが溢れている。
そういえば――遠い昔にあきバアがふと漏らした言葉を思い出した。
家族旅行で訪れたラベンダー畑の思い出話を、いつだったか聞かされた。確か――北海道の富良野だったか。
「あきちゃん。ここに描かれてるのは誰かな?」
「その人はね、つよしくん。この子はとおるくんだよ」
一面紫に塗られたラベンダー畑の真ん中に、小さな子供の両手を掴んで左右を父親と母親らしき人物が笑顔で描かれている。曽祖父の名前は
どれだけ記憶をなくしても、家族との数少ない思い出だけは残っているのかと思うと、目頭が熱くなって俯いてしまった。
「ねえ、あきちゃん。また絵に描いたラベンダー畑に行きたい?」
手の甲で溢れてきた涙を拭った私は、思い切って尋ねた。
「うん。行きたいな」
「わかった。お姉ちゃんが連れてってあげる」
「本当⁉ 約束だよ」
満面の花を咲かせたあきバアを見て覚悟が決まった。
最期に思い出の地に連れてってあげよう。それが私にできる恩返しだ。
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