「大樹? ちょっとどこに隠れてるのよ」


 玄関に息子の靴が見当たらず、嫌な予感がして上がり框を駆け上がると、私が帰ってくるまで待っているようにと伝えたはずの居間に息子の姿はなかった。

 一階二階と小さな子供が隠れられそうな箇所を隅々まで探したのだが、影も形も見当たらない。考えられる可能性は、言いつけを守らないで一人で外に出たことくらいしか思い当たらないが、しかし一人でどこに向かったというのか。

 息子は私との約束を簡単に破るような子では決してなかったはず。わざわざ破ってまで外に出たのだとしたら――


「……まさか、戻ってこない私を探しに外に出たの?」


 歴史は変えられる――先程までの甘い考えは一瞬にして吹き飛んでしまった。

 今外に出るということは、即ち死を意味する。強風に煽られた火の手は触手のように逃げまどう人達を飲み込んでいく。街を流れる川に飛び込んだとしても流れるガソリンに引火して、火の海の中で焼け死ぬか溺れ死ぬかの二択だ。苛烈な空襲の前には防空壕などハリボテ程度の意味しかなさず、我先にと避難した大人達で詰め状態となった穴蔵は、爆撃の衝撃で崩れた土砂で生き埋めになるか、はたまた生きたまま炎に焼かれるか――

 私は幸運に幸運を重ねて生き延びたが、幼い子供が一人で生き延びられる可能性は限りなくゼロに等しい。

 再び大樹を死なせてなるものか。

 まだ頭を撫でた際の温もりが残る手のひらを握りしめ、行き先もわからない息子を探しに今一度絶望の火の中へと駆け出した。



「大樹! どこなの! 返事をして頂戴!」

「このくらいの小さな男の子を見かけませんでしたか?」

「違う……この子じゃない」

「お願いだからっ、私を一人にしないで!」


 肌をジリジリと焼かれながら、一心不乱に大樹の影を探しに探した。

 同じくらいの背丈の子供がいれば声をかけ、重傷を負って身動きが取れない人には大樹を見なかったか尋ねて回った。酸欠で亡くなったと思われる横臥の遺体を見つければ顔を確認し、安堵と焦燥で胸は散り散りに避けそうだった。


 一向に大樹の姿は見つからず、膝に手を付き肩で息をしていると、一際強い風が吹き抜けた直後に私でなければ聞き逃してしまうほど小さな声が、風に乗って耳朶に届いた。声が聞こえた方へ辿って見つけたのは、勢いよく燃え盛る瓦礫の山とその前にぺたんと腰を下ろしてすすり泣く小さな女の子の姿だった。


「お嬢ちゃん、一人でこんなところにいたら危ないわよ」


 大樹よりも三つは下だと思われる女の子に手を差し伸べて立ち上がらせると、泣きじゃくりながら瓦礫の山を指差した。

「お兄ちゃんが、中にいる」と嗚咽を交えて訴える。

「お兄ちゃん? それはあなたの兄妹かしら」

「ううん……お家に焼夷弾が落ちてきて……お母さんは火に焼かれて動かなくなって……」


 辿々しく経緯を口にする女の子の話をまとめるとこうだ。


 彼女の母親は足が不自由で、頼りの父親は既に戦死を遂げていた。娘の手助けがないと避難もままならなかった身で、空襲警報が聞こえる度に母の介助をして逃げていたという。夜中に尿意を覚え起きた女の子は、用を済ませ母が眠る寝室へ戻ろうとしたとき――時間をわきまえず鳴り響く空襲警報に驚いて飛び上がった女の子は、恐怖で足がすくみ両耳を抑えて屈んでいると、母が眠る寝室から物凄い轟音が聞こえたと同時に室内に一気に炎が燃え広がった。

 訳もわからず母親の無事を確かめに行くと、灼熱の炎の中から「一人で逃げなさい!」と怒鳴る母の声が聞こえ、恐る恐る中の様子を覗くと、自宅の屋根を突き破って落ちてきた焼夷弾に焼かれ、炎の中で狂ったように転がり続ける母親の姿があったという。


 どうすることもできずに立ち尽くしていると、支柱を失った家屋は二階部分から崩れ落ちて親子ともども巻き込まれたという。

 半壊した自宅の中で身動きが取れず、恐怖に支配されてにいた女の子は迫る火の手に自らの死を覚悟したその時――自分の手を引っ張る男の子の姿を見たと話していた。


「その男の子って……もしかして、このくらいの男の子?」


 手でだいたいの身長を伝えたが、わからないと首を振る。


「それじゃあ、右目の目尻に皺はなかった?」

「そういえば……『正義の味方が今から助けてあげるかね』って言ってた。その男の子の右の目の横に、シワがあったと思います」


 その答えだけで十分だった。

 残酷すぎる現実を突きつけられた私は、瓦礫の僅かな隙間を見つけると顔を突っ込んで大樹の名を叫ぶと、消え入りそうな返事が確かに聞こえた。目を凝らすと大樹の顔を見つけ、一瞬喜んだのも束の間、上から被さるように瓦礫が小さな体を押し潰している光景を目にした私の脳裏に、「過去は変えられない」という言葉が反響した。


「大樹っ、お母さんが絶対に助けてあげるから」

「もういいよ……それより逃げて……瓦礫に押し潰されて、体が言うことを聞かないんだよ……」


 神も仏も息子を見離すのであれば、私が助けるしかない。

 一つ一つ瓦礫を取り除こうと、木材を引き抜こうとしたが力を込めると瓦礫全体が傾いた。

 奇跡的な均衡バランスを保っていることを知り、もはやここまでなのかと膝から崩れ落ちた私に、大樹が話しかけてきた。


「僕が、助けた女の子は、無事……?」

「……え? ええ、無事に助かったわよ」

「そっか……よかった」


 会話が途切れた瞬間、微かに燃える命の火が消えてしまいそうな予感がして、少しでも先延ばしにしようと会話を続けた。最後に伝えておかねばならない真実を伝えないと。


「実は、信じてもらえないかもしれないけれど、お母さん未来からやってきたの」

「……未来?」

「そう、未来から。戦争が終わって、焼け野原だった東京が混沌とした時代を経て、二度と戦争はしないと誓って復興を遂げている真っ最中の未来からやってきたの」

「お母さんが……未来から」

「こんなこと伝えたら大樹に怒られるかもしれないけど、戦争でお父さんをなくした私は別の男性と再婚したの。お腹には赤ちゃんもいるの。だけど……大樹は今回も救ってあげることが出来なかった……二度も見殺しにしてしまった……愚かなお母さんを罵ってちょうだい」

「そうなんだ……僕はもう、未来にはいないんだね」


 傍から聞けば法螺ほら話にしか聞こえない会話を、大樹は素直に聞いてくれた。

 ずっと毅さんに抱いていた罪悪感。かつて実の息子をみすみす見殺しにした女が、どの面を下げて母親を演じればいいのか分からず、隠し続けるうちに肥大した澱は内側から私を毒していた。新しく授かった我が子より、大樹に対する未練おもいが未だに勝っていることを毅さんが知ったら――きっと仮初の幸せは霧散するに違いない。私のことを毛嫌いしているお義母さんは、これ幸いと私を家から追い出すに違いない。


「ずっと謝りたかった……こんなお母さんでごめんなさいと」


 項垂れて地面に染みの跡を残していると、直に炎に包まれる瓦礫の中から思いもしなかった言葉が返ってきた。


「僕は……ずっとお母さんの子供で良かったって思ってるよ」

「……本当に?」

「本当だよ。だって……二度も命懸けで僕を助けてくれようとしたんだから……それだけで、涙が出るほど嬉しいんだよ」


 その告白に、私の視界はぐらついて世界は崩壊を始めた。とうとう崩れ始めた瓦礫が、大樹の姿を遮断していく。最期に右目の横に皺が寄って、何かを口にするように口元が動いた。

「危ない」と、背中を引っ張る女の子にされるがまま引き下がった直後――目の前で家屋は全壊し、私の意識もそこで途切れてしまった――

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