八
三度目の過去――寝床から飛び起きて目覚めた私の隣では、すやすやと寝息をたてて大樹が深い眠りについていた。
「大樹、起きなさい」肩を揺すると寝ぼけ眼を擦る息子の頭に防空頭巾を被らせ、自らも避難の準備を完了させると覚悟を決めて頬をぴしゃりと叩いた。
泣いても笑っても、これが私に与えられた最後の機会。どう使うのも全て私次第。
壁に掛けられた時計の針は、夜中の十一時半を指していた。
レーダーも捉えられない遥か一万メートル上空では、日本軍すら接近に気がついていないB29爆撃機の大編隊が首都東京に向け飛び立ち、作戦決行を命じられるその時まで待機を続けていることだろう。これから繰り返される光景を思い出すだけで、脚が震え立っているのも覚束なくなる。一夜にして十万人以上の死者と百万を超す
「過去は決して変えられない」
煙蔵さんの言葉を信じた上で、とにかく自分にやれることは全てやろうと決心した私は、未だに舟を漕いでいる大樹の肩を掴んで振り向かせた。
「あのね、大樹には伝えておく。この東京は間もなく米軍の手によって火の海となるの。今はまだ爆弾が落ちてこないから大丈夫だけれど、お母さんは一人でも多くの人を助けたいからご近所さんに少しでも安全な場所に逃げてもらうよう声を掛けに出掛けてくる。だからお母さんが迎えに来るまで良い子で待っていられる?」
わかってるのかわかってないのか、曖昧に首を縦に振ると「お母さん正義の味方だね」と言って相貌を崩した。私の全てを投げうっても助けてあげたい宝物の頭を撫でて決意を新たにする。
玄関を飛び出した私は、空襲警報のサイレンが町内に響き渡る前から失礼を承知で近隣の戸を叩き、その都度事情を説明して回った。定刻通りに空襲が起きるとすれば、私に残された時間はおよそ三十分――。その間に可能な限り多くの市民に声をかけなくてはならないが、思っていた通り反応は芳しくなく、黙って聞いてくれれば御の字で、大半は「何時だと思ってるんだっ!」と一喝されてはけんもほろろに追い返されるのがオチだった。
それもそうだ。もし私が逆の立場なら、こんな夜中に訪れてきて、未来を知ってると
何度も何度も戸を叩いては怪訝な顔をされ、とうとう誰一人として信じてもらえず無力さに打ちひしがれていると――とうとう忌まわしき空襲警報が静寂を破った。
泥舟から逃れる鼠のように、着の身着のまま避難先の防空壕へと逃げ惑う人々を制御するなど一個人では到底不可能である。
私に残されていた手段は、火の手に飲まれる前に防空壕に逃げ込んだ人々をなんとか説得することくらいだったが、此度の空襲の規模を伝えたところで、やはり他人からすれば空想の域を出ない妄言としか受け取ってもらえずじまいだった。
――残念だけど、もう時間がない。
急いで自宅に残した大樹を迎えに行く最中、低空を飛行するB29から落とされた焼夷弾が、過去を繰り返すように次々と街を
足を運んだ防空壕の周囲は火に囲まれ、生きたまま摂氏千三百℃の炎に焼かれる人達の断末魔が必死に脚を動かしていた私の耳に届く。
怨嗟轟く見抜き通りを駆け、誰一人救うことができなかった悔しさに唇を強く噛み締めてようやく辿り着いた我が家は、予想通り無傷の状態で残されていた。
「よかった……なんとか焼け落ちる前に間に合ったわね。なにが過去は変えられないよ。大樹は無事に助かったじゃない」
✽✽✽
大樹は私の目の前で焼夷弾の炎に飲まれて息絶えた。悪い意味で空襲警報に慣れてしまっていた私は、軍事施設もない住宅街にまさか無秩序に爆弾を落とされるとはつゆとも知らず、夜半に響き渡る空襲警報になかなか目を覚まさない息子を抱きかかえながら避難する準備を整えたところで――鼓膜が破れるほどの衝撃音を聞いた直後に意識を失ってしまった。
それから程なくして、俯せの状態で地に伏し、頭から血を流して意識が朦朧とした状態で目を覚ました。
「大樹……どこにいるの……」
何よりも先に大樹の安否が気になり、声をかけたが反応はなかった。自宅は一階階部分が完全に倒壊していたようだが、崩れ落ちた木材が奇跡的に体を擦り抜けて頭部の怪我のみで済んだ。
「……お母さん……」
幾度目かの声掛けに弱々しく返ってきた返事を聞き漏らさず、声のする方へ目を向けた私はその姿を目にした瞬間、言葉をなくした。
小さな息子の半身が大量の瓦礫に潰され、息も絶え絶えな状態で虚ろな目をこちらに向けていた。吹けば消えてしまうような光が私の視線を捉えて離さなかった。
「良かった……お母さんは、無事だったんだね……」
「ああ、なんてことなの。待っててね、お母さんが今すぐ助けてあげるから」
「無理、だよ。もう、体が言うこと、聞いてくれないもん」
「弱気になっちゃだめ! お母さんを信じなさい」
無事とはいえ、満身創痍であることに変わりはない体に鞭打ち、なんとか大樹を押し潰している瓦礫を取り除こうとしたが女の細腕一つではびくともしなかった。
次第に焦げ臭い匂いと煙が充満し始めると、大樹は振り絞るように「早く逃げて」と口にした。
「馬鹿なこと言わないで! 母親が自分の身可愛さに大事な一人息子を置いて逃げるわけないでしょ! どうしても逃げられないときは……お母さんも最後まで一緒に側にいてあげるから」
血と泥だらけの手で何度も何度も瓦礫を退けようと試みた私の体力も、とうとう限界を迎えたようで火の手も勢いを増して大樹に刻一刻と近づいていた。
せめて最後は大樹に寂しい思いをさせまいと、手を取り合って逝こうとにじり寄った。既に言葉を発することもできなくなっていた息子に手を伸ばすと、口元がわずかに動いて、直後に私を見て笑ってみせた。
あのとき、何を口にしたのか実際のところ聞き取ることが出来ず、今も胸に楔となって残されている。
共に死ぬべきだった私は、瓦礫の中で倒れていたところを生存者を探していた近所の男衆に発見され、私だけが助け出された。
「息子がいるんですっ……中にまだ息子が!」
「何言ってるんだ奥さん! 今戻ってもあんたも犬死にするだけだぞっ」
男数人がかりで羽交い締めにされ、滂沱の涙を流し続けて狂い叫ぶ私の命は、大量の火の粉を上空へと運ぶ上昇気流に巻き上げられ何処かへ消えたままだ。
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