六
どれだけ求めてやまなかったことか――
目尻を細め、右目にだけ特徴的な笑い
「大樹、なの?」
遥か南の洋上で散っていった旦那との間の一粒種は、戦争で一切合切を奪われた私に残された唯一の希望だった。
僅か八歳という年齢で焼夷弾の炎にその身を焼かれ、遺骨の一欠片も見つからずにいた愛息子が目の前で確かに
「今日のお母さん、なんだかいつもより格好よく見える」
「そ、そうかしら……。改めて言われると、なんだか恥ずかしわね」
「そんなことないよ。まるで正義の味方そのものだったもん」
なんでもない言葉を
大樹は同世代の子供と比べて体が一際小さかった。運動神経も決して良いとは言えず、なにかと近所の子供達にからかわれては夕方になると泣きべそをかいて帰って来るような子供だった。
当時健在だった旦那は仕事で家を開けがちだったこともあり、尋常小学校に入学してからも一年間は引っ付いて離れなず、どうしたものかと頭を悩ませてることもあったけれど、都市部の空襲を危惧した軍が集団疎開を開始してから大樹に変化が見られた。
どうやら疎開先で自分より小さな子供達が、その土地の子供達に「疎開者」と邪険にされ虐げられている光景を目の当たりにしたらしく、父親の訃報を機に戻ってきた大樹は他人を労れる強くも優しい子供に成長していた。
しばらく防空壕に立て籠もっているうちに米軍機のプロペラ音が次第に遠退いていき、恐る恐る外の様子を窺うと空襲前の町並みは酸鼻を極める光景へと変貌していた。
空襲から逃げ遅れた市民は悉く息絶え、爆弾が直撃した人、炎に巻かれた人、苦悶の表情を浮かべ横たわる人もいれば真っ黒に焼け焦げ、関節という関節をくの字に曲げて路傍に転がる人もいた。
いっそ禍々しくさえ見えてしまう青空に米軍機の機影は確認できず、「もう大丈夫」と伝えると、防空壕から次々に這い出してきた者同士で生き残った幸運にほっと胸を撫で下ろし、中には安堵して涙するものもいた。それもそうだ――東京を襲った空襲は計一二〇回を超えるとされ、その都度国民は命の危機に晒されていたのだから誰だって心の余裕があるはずもない。
隣に立つ大樹の泥で汚れていた頬を拭き取ってやると、恥ずかしそうに身をよじるも嫌がる素振りは見せなかった。それだけで胸に温かい感情が宿り、自然と頬が緩む。久しく忘れていた感情に浸っていると、それまで笑顔だった大樹の顔に影が差したのを見逃さなかった。
「ポチは無事かな。連れてこれなくて今頃一人で震えてるかも」
「ポチは……きっと大丈夫よ」
「でも、鎖に繋げっぱなしだよね。もし家が家事にでもなったりしたら……」
ポチとは我が家で飼育していた雑種犬の名前で、一人っ子の大樹にとって大切な兄弟そのものだった。固い絆で結ばれた兄弟分の生存を今すぐ確認したいのだろう――早く自宅に帰ろうと手首を引っ張り急かす息子にされるがままにされていると、同じ防空壕に逃げ込んでいたご近所の奥さんが目を輝かせ話しかけてきた。
「さっきの啖呵は聞いていたスカッとしたわ。男って本当に無知で困るわよね」
「いえいえ、つい口が滑っただけですので……私自身も驚いてるくらいです」
「謙遜しなくてもいいわよ。このご時世、まともなことを口にするのだって他人の顔色を窺わないといけないっていんだから、褒められこそすれ非難される謂れはないわよ」
なおも褒めちぎってくる奥さんの勢いに、ただだ圧倒されて苦笑いを浮かべてい私は話題を変えるべく、目覚めてから気になっていた疑問を尋ねた。
「あの、今日って何月何日でしたっけ」
奥さんから耳を疑う返事が返ってきた。
「あら、ど忘れでもしたの? 今日は三月九日に決まってるじゃない」
「三月……九日……。もしかして、今年の元号は昭和二十年ですか?」
「何言ってるのよ、当たり前じゃない。もしかして頭でも打ったの?」
先程まで体を覆っていた温もりが、急速に失われていく喪失感を覚えた。
昭和二十年三月九日――
忘れもしない。
忘れるはずもない。
その日は大樹を喪った東京大空襲の前日だ。
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