陰陰鬱々いんいんうつうつな雨雲から、絶えず降り注ぐ雨音と時折地上に轟く稲光の音に体が強張ると、長い時間をかけて堅牢な錠を掛けていた胸の奥深くをいたずらに掻き乱される。

 私がまだ幼かった頃、日中戦争が勃発する直前に辛党だった父が出張先の上海から持ち帰ってきたお土産の葡萄酒ワインを、好奇心に任せて空の瓶を逆さまにし一舐めした際に感じた不快感が蘇る。

 緑の瓶底に沈殿したおりの不味さと言ったら、紙ヤスリを舌の上に押し当て力任せに磨かれるような酷い嫌悪感を私に与えた。心の奥底にも記憶の残滓が沈殿していて、ふとした拍子に撹拌される。その都度耐え難い疼痛とうつうに顔を歪める私に、背後から声がかけられた。


「御嬢さん。あんた、そんなところでなに突っ立ってるんだい」


 硝子ガラス戸を引いて姿を見せたのは、煙蔵商店と刺繍されたお世辞にも綺麗とは言えない半纏はんてんを羽織った男性だった。

 生来生まれ持ったような仏頂面を微塵もも隠さず、額が禿げ上がった白髪は無造作に後ろに撫で付けられていた。樹齢数百年に到達する老木の木膚きはだを思わせる皺を顔に刻み、猛禽類のような鋭い視線に射抜かれた瞬間、得体の知れないなにかが私の体内に浸潤するような、得も言われぬ気配を感じた。


「あの、突然雨に振られてしまいましてて……事後報告になって大変申し訳ないのですが、雨宿りにと軒先を借りていました」


 今すぐ出ていきますね。余計な雷を落とされる前にお腹を抱えながらお辞儀をし、その場を辞去しようときびすを返し驟雨の中を駆け出そうとしたその時、一拍遅れで男性は返事を寄越した。


「ああ。そういやぁ、もう半夏雨の季節だったか」

「はい?」


 つい足を止め、律儀に振り返って答えると、男性は額の境目を掻きながらトタン屋根に吊り下がる釣り忍を見上げていた。「雨が止んだら花火の季節だなぁ」と、雨垂れにしとどに濡れる苔玉に何を想っているのか、特に表情を崩すことなく独りごちる。

 ああ、この人が例の、と私は井戸端会議で小耳に挟んだ噂を思い出した。

 眼前に立つ御仁の名は、確か――煙蔵えんぞう――と話していた気がする。


 娯楽に飢えた主婦たちが尾鰭おひれをつけて話す噂話に、いちいち信憑性を確かめるつもりもありはしないが、なんでも煙蔵さんは数十年前から独り身を貫いている花火師らしい。

 私が故郷信州の里山で泥にまみれて遊んでる頃から、長年花火師を続けていると聞くが果たしてどうか。ある年嵩としかさの女性は、「私が子供の頃からお爺さんなんじゃないかしら」なんて冗談めかして戯けるほど、どこか世捨て人というか、俗世とはかけ離れた隠遁者然とした佇まいだと聞いてはいた。


 その手の話題に事欠かなく、さらには「実は皇族の血を引いてる」だとか、「女気がないということはつまり男色趣味ではないか」だとか、近隣住民との関係性も没交渉なので、「実は共産主義アカのスパイなのではないか」だとか――まぁ様々な憶測が飛んでいる。

 ただしどの話も『彼が一流の花火師』という点では一致していた。


「この時期の雨は体に障るから、雨が止むまで中で休んでいきなさい」

 再び視線を重なった煙蔵さんに中に入るよう促される。

「ですが……お客でもないのに、なんだか厚かましくはないですか?」

「構わん構わん。この通り梅雨時期は商売上がったりだ。汚い所だが適当に寛いでいきなさい」

 ただでさえ申し訳ない思いで肩身が狭いというのに、寛げと言われてもなかなか難しいが、そこで断れないのが私という人間だった。

「はあ……それではお言葉に甘えて失礼いたします」


 三和土たたきに足を踏み入れると、奥に細長い十畳ほどの店舗の中には様々な種類の玩具花火が棚に陳列されていた。懐かしい手持ち花火にヘビ玉花火、ねずみ花火にトンボ花火、それにやたら主張の強い置型の打ち上げ花火など、子供なら誰しも見を奪われる光景が広がっている。


 目算でも数百は下らない数の花火は全て煙蔵さんが手掛けた商品だと聞き、呆気にとられながら店内を散策していると、奥からタオルを片手にやってきた煙蔵さんに「これで水気を拭き取るといい」と、無愛想に手渡された。


「……ありがとうございます」


 生地に鼻を近づける。微かに火薬の臭いが染み付いたタオルで言われたとおりに体を拭いていると、煙蔵さんは口を開いた。


「あんた、最後に花火で遊んだ記憶を覚えてるか」

「花火ですか? 五年ほど前になりますが、それがなにか」

「その時、子供と一緒ではなかったかい。子供というのは御嬢さんの実子のことだ」

「……ええ。そんなこともありましたね」


 唐突な質問に、胸を鷲掴みにされた私は変化を悟られないよう平静を努めた。


「そりゃあいい。いつの時代も花火が嫌いな子供はいないからな」


 煙蔵さんは、全てを見透かすように私を凝視する。

 二度と再会できない愛しい我が子。幼くして理不尽な戦争に命を奪われた可哀相な我が子の死に顔が脳裏に浮かぶ。

 口をついて出てきてた澱は醜い感情を伴っていた。赤の他人の前で、人目をはばからずに頬を伝い落ちる涙、嗚咽、長らく封を閉じていた感情の赴くままに溢れ出る痛みを、タオルで覆い隠してもなお果てることはなかった。

 そして、伝えるべき真実を未だに伝えることができていない毅さんへの罪悪感で、胸が張り裂けるほどの痛みを感じずにはいられなかった。


 結婚を前提に交際を求められた際に、毅さんもお義母さんも把握していない子供がいたという事実を、一体いつまで隠し続けることが出来るのだろうか――

 問題を先送りに先送りにして騙し騙しここまでやってきたが、どうやらそれも限界を迎えたようだ。

 これ以上自分を、愛する毅さんを騙し続けながらの生活を共にすることはできない。なにより最も苦しいのは、ようやく宿ったお腹の子を心の底から慈しんでやれない醜い自分――


 立っていられず、その場に屈んで暫く泣き伏せていると、「少し時間をくれないか」と訊かれた。

 再び店内の奥に姿を消して戻ってきた彼の手には、七色の和紙が特徴的な線香花火が握られていた。


「こっちに来なさい」と軒先まで呼ばれ、言われたとおりに傍らに立つと件の線香花火を手渡された。


「わしが作る線香花火は特別でな、誰にでも売っているわけではない。中にはどこから聞きつけたのか、ある聞いてわざわざやってくる成金連中もいるが、幾ら金を積まれようがこの人と決めた客にしか譲ることはないと決めている。お嬢さん――あんたはわしに選ばれた」

「私が……ですか?」


 お金持ちでも買えないという花火とマッチ箱を一緒に手渡された私は、一体どれほどの贅沢品なんだと戦慄を覚えた。

 もしかしたら、これは無理矢理に商品を買わせる阿漕あこぎな商売なのでは、と訝しんだりもしたが、こちらの心中を察したかのように「金は取らない」ときっぱり否定された。


「まずは狐につままれたとでも思って試してみなさい」


 私がたかが線香花火一つに選ばれたという理由はなんなのか、釈然としないままマッチで花火の先端に火を灯した。


 


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