蕾、花開く

きょんきょん

昭和三十年 東京

 澄み渡る青空を覆い隠すほどに沸き立つ入道雲が、遠くに聞こえる雷鳴とともに半夏雨はんげあめを連れだってやってきた。

 梅雨時期の終わりを告げる驟雨しゅううは、海を逆さまにひっくり返したとしか思えない雨量をトタン屋根に叩きつけ、雨樋あまどいから瀑布のごとく流れ落ちる。その一連の音は忘れもしないB29が放つ機銃掃射のそれと似通っていた。


 通りを行き交う人々は急げ急げと蜘蛛の子を散らすように慌てふためき、手荷物や上着を頭に乗せることで防空頭巾ならぬ即席の傘とし、各々の目的地へと急いで駆けていく。かくいう私も多分に洩れず、つい八百屋の店主の売り文句に財布の紐を緩めて買ってしまった西瓜を頭に乗せ、這々の体で駆け込んだ店舗の軒先で一時の雨宿りをしているところだった。頭上ではいつ鳴り止むかもしれぬ稲光に身がすくみ上がり、鈍色の空が白に染まる。


「体を冷やしちゃって御免なさいね。家に帰るまでの辛抱だから」


 じょじょに迫り出してきたお腹を撫でながら優しく話しかけると、返事の代わりにお腹の中の胎児が身動ぎをしたような――そんな都合のいい解釈をするほど我が子が愛おしい。

 現在妊娠七ヶ目の私のお腹の中には、戦後になって再婚したつよしさんとの間に授かった待望の新しい命が宿っている。自らの血を分けた子供が欲しくて欲しくてたまらなかった毅さんは、多感な時期に一人っ子であるがゆえの寂しさを強く感じていたようで、「子供はできればたくさん欲しい」と婚前から常々話していた。


 私も子供の頃に「妹が欲しい」と、度々両親に懇願しては困らせていたので彼の意見には一部理解を示したが、第一子を妊娠するまでに四年もの歳月がかかってしまった以上、年齢も考慮すると第二子というのは現実的に厳しいと暗に告げるも、なかなか諦めきれない様子だった。

 さらに輪をかけて面倒だったのが、お義母さんの存在である。旦那の手前表立って口にすることはないが、いけしゃあしゃあと「お国のために子供は沢山産んだほうがいい」と放言するので、さしもの私も開いた口が塞がらなかった。


「それにしても、一向に雨が止む気配がしないわね……」


 一時的な避難場所のつもりでお邪魔していた軒先だったが、見上げる空はより低く垂れ込み、まるで敗戦国の日本がずるずると泥沼の長期戦に嵌っていったような暗澹あんたんたる気配に満ち満ちていた。          

 肌に張り付くほどに濡れそぼったブラウスはすっかり冷えてしまい、体温をじょじょに奪っていった。

 西瓜には丁度いい冷水かもしれないが、我が子をお腹に抱える母体に寒さは厳禁だと、お義母さんに口酸っぱく咎められていたことを思い出す。


 お腹が大きくなるにつれて食欲も落ち、瑞々しい果物なら家族みんなで分けられると良かれと思い買ったものの、そういえば西瓜は体を冷やす果物であることを今更気がつく。これは帰宅でもしたら、又候またぞろ小言を言われることに違いないと、鬱々たる気分に呼応するように雷鳴がいなないた。


「どうしてもお義母さんと同居しなくちゃ駄目かしら」

 ある日、私は就寝前に思い切って尋ねた。

彰子あきこと母さんが馬が合わないのはわかるけど、うちは父さんを早くに亡くしてるし、田舎に住んでいる母さんの身に万が一のことでもあったら駆けつけるのも大変じゃないか」

 気が強いお義母さんに上手く言いくるめられたのか、ハッキリとしない物言いに不満を感じないと言ったら嘘になる。

「それはそうだけど……なんとかならない?」

「きっと孫の顔を見せてやったら、案外母さんもコロッと変わるかもしれないしさ」


 新婚生活は出来れば夫婦だけで暮らしたいと訴えてみたものの、「老いていく母を一人放ってはおけない」との毅さんの意向で、ひとつ屋根の下で暮らすようになったのが運の尽き。

 それから四年もの間、妊娠の兆候が一向に訪れなかった私にお母さんから散々な陰口を叩かれたものだ。

「いつまで経っても毅の子を妊娠しないのは、きっとあなたの体に流れる血のせいよ」と、家族までを否定する言葉に耐えかねて一人枕を濡らした夜も何度あったことか。


「お腹の子供の性別は男の子かな。それとも女の子かな」

「そんなのわかるわけないじゃない。生まれてからのお楽しみよ」


 まだお腹の膨らみが目立つ前から、毅さんはしきりに我が子の性別を知りたがっていた。根っからの野球好きな人で、今年からセ・リーグとパ・リーグの二リーグ制になったとかなんとか言っていた気がするが、男の子なら大ファンの巨人軍に入団させたいと将来を熱く語っていた。子供の頃から英才教育を野球を受けさせるんだと今から落ち着きがない。

「女の子ならどうする?」と、からかい半分に聴いてみると、一転して顔をしかめさせ、「どこぞの不埒千万な男に引っかかりやしないか不安だから嫌だ」と、一体何年先を見据えてるのやら呆れ返るような心配事をしていた。


彰子あきこは晴れてお母さんになったんだ。なんかこうさ、母親特有の能力で赤ん坊の性別がわかったりしないのか?」

「なんべんも言わせないでよ。超能力者でもあるまいし、無事に生まれてくるまでは神にも仏にもわかりっこないわよ」

「そうよ毅。今から浮かれてないで少しは父親らしく毅然とした態度を取りなさい。家長たるもの――」


 食卓でお義母さんの時代錯誤な訓示に頷きながら、右から左へと聴き流しているあいだも私の心中は穏やかなものではなかった。

 これまで笑顔の裏に隠し通してきた事実をいつ打ち明けるべきか――それとも胸のうちにしまい続けるべきか。

 今の今まで暴露することで家庭内に亀裂が入るんじゃないかと、過去の秘密を打ち明けることができずにいた。

 少し情けないところがある毅さんではあるが、心から愛していることに変わりはない。仕事一筋で堅物という職場の評判を裏切る実に性根の優しい男性――なにかと厳しく当たってくるお義母さんとの架け橋になってくれて、私の身重な体を誰よりも案じてくれる。この人と結婚してよかった、と心から思える人なのに――だからこそこの秘密を墓場まで持っていくことははばかられる。


 

 

 

 

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