第十六話
一七一五年 三月
江戸へと戻った。五月に日光東照宮で行われる神君家康公の百回忌に参加するためだ。
紀州藩主となりもう十年になる。
家臣どもに食い荒らされてボロボロになった紀州藩はこの十年で完全に立ち直った。
俺も再び絹物を着ても良いだろうと判断できたのは何年前だったであろうか。
簡素化された官僚組織、身分の貴賤を問わない人材登用、治水、新田開発、災害復興。
長い事、見るだけしかできずに歯がゆかった事に順次手を付け、満足できる結果が出ている。
藩の借財であった十万両(10億円程度)も随分前に完済した。今はその返済資金を貯蓄に回し、小判が蔵に積み上げられている。
我が子、長福丸が紀州藩を引き継ぐ時にはどれほど蓄えられるであろうか。
この分なら余計な苦労を背負わせず、家督を引き継げることだろう。
問題は徳川宗家。家継様は病弱であるという話があちこちから聞こえてくる。
幕臣は皆不安なのだろう。もう二代にわたって安定していない。
そうなると湧き上がるのは将軍位の後継者選定。
現状、継の字を賜り継友と名乗っている通り、現在の幕府首脳部から次代の候補者として期待されている
少し疑問なのは、漏れ聞こえてきた家宣公の臨終の際の様子。
むしろ継友を後継に推したのは、家宣公であったらしい。それを前出の二人が、自分たちが補佐をするから実子である現将軍の家継様にすべきと反意させたという。
その話を聞いて、いまいちしっくりこなかったのだが、今になると良くわかる。
家継様は、生来病弱の質という事実。
おそらく、二人は敬愛する主君の子を盛り立て、守っていこうとしていたのだろうが、その御旗が倒れかねない事態になった。
そうなると話は変わってしまう。元々、家継様を推したのは、自分たちの権力の維持という側面もあったはずであろうから、家宣公の系図が続いてもらわねばマズい事になる。
尾張でも紀州でも外の家から将軍が来ると、前将軍に近い者ほど自分たちの席は無くなる。それぞれ側近たる自分たちの家臣がいるからだ。
その点、老中や若年寄などの諸大名が連なる者達は違う。
将軍が変わっても方針が変わるくらいで、基本的には現状維持だ。
どちらも同じ徳川宗家の家臣という立ち位置でも、側近と重臣では支えてくれる権力の仕組みが違うのだ。
側近は将軍個人の後押しでその座についている。当然、押し上げてくれる者がいなくなれば、その座には座っていられない。代が変われば、一緒に去る運命だ。
老中達は、家柄や自らの政治能力でもって、その座を勝ち取ってきた。派閥争いなどで入れ替わりはあるが、基本的に自立した由緒ある大名である。
権力構造が全く違うのだ。
話は戻るが、間部達の思惑を推し量るに、当初は家継様を担いで、二代にわたり幕府を取り仕切ろうと考えていたように思う。
しかし、病弱な家継様に不安を感じたのか、生まれた時から病弱であると知っていたのか定かではないが、保険をかけ後継者筆頭に恩を売る事にしたようだ。
おそらく、家宣様と二人の距離感からするに、家継様の病弱さは知っていたのだろう。だが、成長とともにお強くなられることに期待していたのではないか。
現に、継友は尾張藩を引き継いだ時に、家継様より継の字を賜り改名したのだ。
その時、家継様は四歳。自分の諱を与えるなどという知識はないであろう。どちらかの入れ知恵なのは明白だ。
御三家の筆頭である尾張藩主。そして正室として婚約しているのは、関白太政大臣
後継としては申し分ない。その性格を除けば。
このまま進むと、継友が将軍就任という路線は決定的になるだろう。
家継様が病弱であるという情報を得てしまった以上、のんびりとはしていられない。
万民のためにも、継友の将軍就任を阻止せねばなるまい。
その制限時間は家継様のご健康次第。
出来る事であれば、お健やかに成長され、御子に引き継いでいってもらいたい。
そうなれば俺は表舞台に立つ必要もなくなる。
それが誰もが幸せになれる道だろう。
だからといって、楽観視して何もせぬとはいかぬだろう。
側に控える小姓に政信を呼ぶよう伝える。
「殿、お呼びでしょうか」
「おう、来たか」
話す内容が内容のため、庭番忍びが周囲を固めている私室に来てもらっている。
さすがに自分が将軍になるための戦略などと誰かに聞かれでもしたら反逆の徒として処刑されるだろう。
この話はそれだけ危険で重要な話なのだ。だから相談できるのは政信くらいだ。
信頼度で言えば、そばにいてくれた水野 知成や陰から支えてくれていた加納 久通もいるが、彼らはそういう事を得意としていない。
人の思考を読み、隠密裏に事を進めるには、相応の才能が必要となる。
水野は言わずもがな剣の腕は一級品。寡黙で実直だ。
加納は温厚篤実。慎み深く前に出る事を好まない。副官として向いている気質だろう。
両者とも、性質で見れば陽の人物である。彼らには彼らに向いた仕事をしてもらう。
「万が一の際、俺が将軍にならねばと考えてはいたが、あまり時間が無いかもしれん」
政信とは俺の考えや意思を擦り合わせているので、回りくどい前置きはいらない。
「こちらにも家継様のお身体の話は入っております」
「そうか。その時、俺が将軍に選ばれるにはどうしたら良いと思う?」
「端的に申さば、吉宗様以外の候補者がおらなければ良いのです」
「それはそうだが、その手は許さん」
「はっ。では次善の策を。今の候補者は尾張公の継友と紀州公である上様のお二方。上様が適していると認められるしかありません」
「うむ。問題はどう認めさせるかと誰が認めるかだな」
「はい。どう認めさせるかはそう問題ではありません。問題は誰が認めるかという事でしょう」
本来、そういった決定権は将軍である家継様である。しかし、家継様はまだ六歳。
まともな判断は望むべくもない。今の政治も間部と新井が行う側近政治だ。
順当にいくなら間部と新井が決めて家継様が追認する形となるだろう。
だが、彼らは尾張の継友に近い。今のままでは、俺が選ばれることは無いだろう。
「それはどうすれば良いのだ?」
「ご安心を。私に策がございます」
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