第十五話

一七一二年十月


 寒さが一段と強まる中、病は身分の貴賤を問わず襲い掛かる。

 夏の頃より、体調を崩されていた六代将軍 徳川家宣様が感冒(インフルエンザ)に侵され、明日も知れぬ身だという。


 俺は、三月には紀州へと戻っていた。情報は庭番忍びによって届けられる。



 同月の十四日。家宣様が身罷られた。

 体調に不安を抱えておられた家宣様に病に打ち勝つ力は持ち合わせていなかった。

 将軍職在任はたったの三年。江戸幕府は後継者不安の弱みを露呈し、先行きに暗い影を落とす。


 後継は、実子の家継様。御年三歳。

 候補には尾張藩 四代藩主 徳川 吉通よしみちも上がったようだが、家宣様の側近である間部 詮房、新井白石あたりが止めたと風の噂で聞いた。


 時の天皇、中御門天皇がお認めになられ将軍宣下をお受けになるのは来年の春になるようだ。

 四月ほど将軍の座は空位となる。その間、家継様には将軍としての教育がなされるのだろうが、三歳というお歳では、どこまで意味があるのか。



 いくらか明るい話題と言えば、今年の頭に俺に子が生まれた事であろうか。

 今の所、母子ともに健康である。

 子には長福丸と名付けた。末永く幸せに生きて欲しいという思いを込めたのだ。


 母は、以前に政信達から側室にと勧められた大久保忠直の娘である須磨。産後も落ち着いており、体調を崩さなくてよかった。



翌年 一七一三年五月。


 城内で嫌な噂を聞いた。

 尾張藩にて二名の藩士が吐血し頓死(突然死)、もう一人は自害したという事件が起きたようだ。

 さらに尾張藩の御連枝(親族)である梁川藩主 松平 義昌までもが死去したという。


 いくら何でも同じ時期に人が死に過ぎる。謀略の匂いが否が応でも立ち込める。

 松平 義昌殿は病がちという事だったが、藩士の方は疑いようがない。

 何かが起きている。


 そう思い、庭番忍びの薮田 定八を呼ぶ。


「お呼びでしょうか」

「尾張の出来事、知っておるか?」


「はい。人を入れておりますれば」

「噂は真なのだな」


「はっ。どこから漏れたか知りませぬが、おおよそ真実です」

「おおよそとな」


「二人の藩士が死んだのは同時ではなく、吐血し頓死した藩士の騒ぎが起きた後。それが真実です」

「それは……誰が見ても明らかではないか」


「左様にございます。そのため、同時に起きたという事で尾張藩邸では話がまとまっております」

「ふむ。御連枝の松平 義昌殿の件は?」


「あの件は、むしろ……」

「……むしろ、なんだ?」


「いえ、推測ですので差し控えさせていただきます」

「そうか。では調べられたら調べておいてくれ」


「かしこまりました。では」


 それ以降、薮田から、その件について報告が入ることは無かった。

 あの歯切れの悪さ、何か報告するのを躊躇うような仕草であった。

 真相を掴んでいても話せないような事だったのだろうか。



 かような事件のあった一七一三年は、不審死が相次ぐ。しかしそれは、尾張藩に限って。


 同年七月。尾張藩 四代藩主 徳川 吉通、死去。

 母である本寿院を饗応(接待)の直後、吐血し悶死。五月に起きた藩士の死因と同じである。

 この時、何故か近侍していた医師は、治療を行わず、苦しむ様子を見ていたという。

 なぜそのような事をしたのか、そしてなぜそのような話が広まるのか。

 謎が深まる。


 そして、もう一つ。この話を聞いて解決したと思い込んでいた事件の真相が再び闇に包まれる。


 五月にあった尾張藩士二人の不審死事件。薮田からの話で、死亡した順序を聞いた俺は、吐血頓死した藩士、その後に自害した藩士という関連性から、自害した藩士が何らかの方法で毒殺したのだろうと結論付けた。


 しかし、しかしだ。藩主 徳川 吉通殿が全く同じ死に方をしている。これは偶然なのだろうか。藩士二人を死に追いやった人物が、今回も蠢動したのではないか。

 俺にはそう思えてならない。


 どれほど考えてみても答えを教えてくれる人物はいないのだが。


 疑問は消えぬが藩主の座を空席のままにはできない。

 二十五歳という若さで亡くなった藩主 徳川 吉通の後継はその実子である五郎太殿に決まったそうだ。


 将軍 家継様より一つ年下の御年二歳。相変わらず徳川家は早死にが多い。

 我が子もそうだが家継様や五郎太殿にも健やかに育ってほしいものだ。

 ……のだが。



 同年十月 第五代尾張藩主 徳川五郎太殿 死去。

 

 七月に父である吉通殿を亡くされ、わずか二歳で藩主の座についてから、正味二ヵ月ほど。短すぎる人生であった。

 元服も出来ず幼名のまま、この世を去らねばならぬという無常。言葉が出ない。

 もう人が死ぬのは沢山だ。


 激動の尾張藩は直系男子が途絶え、叔父である徳川 継友殿が藩主となった。

 これで落ち着いてくれれば良いのだが。


 しかし、この継友殿。二十一歳の今に至るまで、お控えといわれる藩主に何かあった時に家を継ぐ者として扱われており、籠の中の鳥と変わらぬ生活を強いられてきた。

 嫁もなく、仕事もなく、藩主であった兄から捨扶持(小遣い)を貰って暮らす日々。

 楽しみもなければ、将来の展望もない。


 普通であれば、老いて死ぬまでその生活を続けていくはずだった。

 しかし、吉通、五郎太と不慮の死が続き、藩主の座が転がり込んできた。


 不謹慎だが、その好機に舞い上がる気持ちもわからぬでもない。

 しかし五郎太殿が亡くなった翌日に側近や家臣を集めて壮大な酒宴を開いたという。

 それはいくらなんでも不謹慎であると尾張藩の附家老である竹腰正武から諌められたらしい。


 その話を聞いて暗澹たる気持ちになった。藩主とは己を律し、他者を敬わねばならない。これが徳川宗家に次ぐ尾張藩主であるのかと。

 年齢からしても将軍位候補の筆頭にある事は間違いないのだ。


 ましてや家継様は三歳。家継様が大人になり、子を作るまで早くて十年。さらにその子が成人して後継者となれるまで、十年。

 どちらもお健やかに過ごされるという前提でだ。いかに気の遠くなる時間が必要かわかっているのだろうか。


 家継様に万が一の事があれば、あの男が将軍となるのか。

 そうしたら、家継様の亡くなられた次の日に将軍就任の祝いの酒宴を行うのだろうか。


 考えれば考えるほど許せん。

 そのような男が天下の舵取りをするなど。万民がどれほど苦しめられようか。

 自分の事しか考えられぬ男には、万民の生活など背負わせられん。


 まったく。甥の死を偲ぶどころか、それによって浮き上がれた自分のために酒宴を開くとは。

 思い起こすたびに腹が立つ。


 そしてその話が広がってしまう程の人望の無さ。これが親藩筆頭の尾張藩主か。

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