第十四話

 年も改まり一七一一年。

 三月には江戸に発つ。


 次に幕府から帰国の許可が下りるのは、いつになるかわからない。

 もしかしたら、ずっと江戸に留め置かれるかもしれない。

 藩主就任当初の国元へ帰るべき一番重要な時期ですら、五年も許可が下りなかった。


 当分、ここへは戻れないと思ってやるべき事をやっておかねばなるまいな。


 長い事、喉につっかえた骨のように、ずっと心を苛んできた用件に手をつけることを決心した。



 いつものように腹心達との会合を済ませた俺は、用件の取っ掛かりとなる男に声をかける。


「政信よいか」

「殿……何でしょうか。庭番忍びをどこかに派遣しますか?」


「いやそういう話ではなく、私的な事なんだが……」

「……あまりその続きを聞きたくありませんな」


「そう言わんでくれ。一度は会って話をせねばと思い、やっとの事で決心できたのだ」

「さくらもやっと落ち着いてきたのです。そっとしておいてもらう事はできないでしょうか?」


「それも考えたが、俺が逃げているように思えてな。江戸に戻れば次はいつ紀州へ戻れるかわからん。これが最後の機会になるやもしれん」

「それはわかりますが…」


「駄目か?」

「……殿の頼みを駄目だなどとは言えませぬ。しかし、さくらもの兄として一言言わせていただく。会って区切りがつくのは殿だけ。同様に満足するのも殿だけ。さくらは思い出に浸る事も許されず、バッサリ切り捨てられるのです。それはお忘れなきよう」


「……相分かった。心に留め置く」



 その日の夜。久しぶりに山波屋敷に訪れた。母屋の一室で向かい合うのは、さくら殿ひとり。

 周囲に人の気配もない。屋敷の人間すべてが、この対面の意味を知る。


「さくら……殿、久しいな」

「はい……藩主様になられて、そうそうお会いできるものではありませんから」


「前と同じようにはいかんな」

「はい。でも兄上まで直臣にお取り立ていただきありがとうございます」


「いや。それは政信が優秀だったからに過ぎんよ」

「そのお言葉、兄上も喜びましょう…………」


 そういう話をしたいのではないのだ。しかし言葉が出ぬ。


「……三月には江戸に向かう。次はいつこちらへ戻れるか分からん。戻ってきたところでこうやって会える日はもう来ないであろう……」

「致し方ありませぬ」


「そうだな。致し方ない。さくら殿……お元気で」

「吉宗様もお身体にお気をつけ下さいませ」


 これで終わった。別れの挨拶。言葉はありきたりな挨拶。しかしその意味は別れを告げている。その言葉を口に出さないだけで。


 話がこう進んでしまえば、これ以上言える事はない。


 座から立ち上がり、そのまま立ち止まらず山波屋敷を出る。

 外で控えていた水野と合流して城へと戻る。

 特に言葉は交わさない。水野は何か言う事もない。俺も水野と何を話して良いか思いつかない。


 そのくせ、先程、碌に気の利いた事も言えなかった、さくらへの言葉が頭に浮かんでは消え浮かんでは消える。


 彼女の顔。壊れてしまいそうな儚い笑顔。思い返せば楽しかったことばかり。


 なぜ今になって。なぜあの時言ってやれなかった。

 そう思いながらも心の中でさくらに声をかける。


 さくら。すまなかった。周りに流されねば、女と縁を結べぬ俺は弱かった。自分が一歩踏み出せば、隣にいるのはお前だった。

 俺に勇気がないばかりに辛い思いをさせてしまったな。


 後悔ばかりだが、俺は俺の道を行く。もう俺の道にはたくさんの者たちがついてきている。少しでも止まろうものなら背中を押してくれているんだ。皆の期待に応えられるよう頑張るよ。少しでも多くの人を幸せにせねばな。


 皆の後押しは心強いが、立ち止まる事も許されぬ。不安だよ。本当にこの道で良いのかって。


 それでも皆から期待されれば、藩主として導いていかないとな。本当はのんびり暮らす方が性に合っているのに。

 これも周りに流されているというのかな。


 結局いくつになっても性根は変わらぬものだ。そして世はままならん。


 さくら。君との時間は心地良かった。

 君は素直な愛情を向けてくれた。捻くれ者の俺にはこそばゆかったよ。


 さくら。ありがとう。相も変わらず口に出す勇気のない俺を笑ってくれ。


 さくら。俺の大切な人よ。幸せになってくれ。




「下にぃーい、下に」


 参勤交代の先触れが独特な掛け声をあげながら進む。

 俺は駕籠の小窓を開けて和歌山城下の景色を眺める。


 参勤交代の行列が通る道に居合わせた町民は、通り過ぎるまで平伏している。


 街中の水路が見えてきた。水路は南北に長く伸びている。それに応じていくつもの橋が平行に掛けられている。同じ橋がいくつもいくつも。

 どれもこれも小さな橋なのに、一丁前に太鼓のように迫り出している。


 行列の先頭はすでに橋を渡り切り、俺の乗る駕籠も橋に近づいてきた。町屋が途切れ、視界が開ける。


 俺の視界には一つ南側の橋が入り込んできた。その中央に立つ女性が見える。


 綺麗だ。儚さは消え去り、凛とした姿勢で力強く立っている。


 その女性は、遠い江戸に向かう兄を見送るために来ているのかもしれない。

 それでも俺は満足だった。

 いつまでもその姿を忘れないよう強く目に焼き付けようと目蓋を閉じた。



 予定通り、十二日間の行程を進み紀州藩の参勤交代の行列は、江戸へと到着した。

 俺は、紀州藩主として二度目の江戸の地を踏んだ。


 江戸に帰り何より優先すべき事、まずは正室 真子の墓所、池上本門寺を参らねばならぬな。

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