第六話
江戸への旅路は大過なく終えた。
何かあるのではと、だいぶ力が入っていたが肩透かしを食らった。
何もない方が良いのだが、いつ来るのかと怯える日々では、早く来てくれと望むようになるのだから不思議なものだ。
紀州藩の江戸藩邸に入ると、五代将軍 綱吉様に拝謁するための根回しに動く。
会いたいからと言って、そうそう気軽に合えるものではないのだ。
以前、逼塞していた俺を連れ出し、綱吉様にお目見えの機会を与えてくれた大久保 忠朝殿は、七年ほど前に老中を辞職され、隠居なされた。そのため、ご子息である現老中の大久保 忠増殿を頼る事にした。
この大久保氏だが徳川家にとって格別の家柄。徳川十六神将にも称えられる大久保 忠世を祖とし、同じく重臣であった石川氏の血も引く。
徳川家臣団の中でも名門中の名門だ。
その大久保 忠増殿だが、父君からあらましを聞いていたようで、快く承諾してくれた。
これで準備は整った。あとは、綱吉様に謁するのみ。
「悲しい事が重なったな。我が婿(紀州藩 三代藩主 綱教)に頼職、光貞まで。頼職など、ついこの間、顔を合わせたばかりだというのに」
優しいお顔立ちと雰囲気はそのままだが、随分とお歳を召された。もう六十近いはずだ。
いまだ過酷な将軍位に留まるのは、後継者に不安を感じておられるからのようだ。
直系であるご子息は早逝されている。ここにも徳川家の闇が見えるが今は置いておく。
先年、綱吉様の甥にあたる家宣様が養子に入り、後継となったばかり。
なぜここまで遅くなったのかというと、まだ自分に子ができるのではという期待していたという噂と家宣様自身が後継者になる事を嫌がったという噂がある。
聞いた感じではどちらも正しいように思える。噂というのは多分に真実を含む。
この場には、将軍である綱吉様と俺、そして取次老中の大久保 忠増殿と老中首座(複数の老中の長)である土屋 政直殿のみ。あとは小姓など会話に入れぬ者ばかり。
「誠に悲痛この上なく」
「さようであろうの。おぬしは紀州を継いで皆を安心させてやれ」
「ありがたき幸せ」
「松平から徳川に戻るのであろう? これだけ悪い事が続くと縁起が悪い。頼方という名は捨てよ。我が吉の字を授ける。吉宗とせよ」
「かしこまりました。徳川 吉宗、謹んでお受けいたします」
「うむ。それに先代は嫁も取らず亡くなってしまったらしいの。紀州に直系はおぬしのみ。跡継ぎ問題は頭の痛いものよな。こちらで見合う公家の嫁を世話してやろう。もう一度、家を栄えさせよ」
「はっ。重ね重ねのご厚情、感謝の念に堪えませぬ」
「よい。せめてもの餞別じゃ。婿殿(綱教)には将軍位を継いでもらいたかったのじゃがな……」
「上様。さすがにそれ以上は」
老中首座の土屋 政直殿が、それ以上言葉を重ねないように諫める。将軍の言葉は幕府の言葉である。軽々な発言は無用の混乱を招くので言葉を遮ってまで発言を止めたのだ。
既に後継者は家宣様。綱吉様も老中も全会一致で認めた。揺るぎようのない事実として進めていかなければならない。そうでなければ天下は収まらない。
俺は、その流れを継ぎ、信頼の証としての誉め言葉だったというように感謝の言葉を述べる。
「かような過分なお言葉。綱教兄上も草葉の陰から涙を流している事でしょう。果報者ですな」
「そうじゃな……」
何か言いたげな様子を表す綱吉様だが、誰も会話の継穂を差し出す者はいない。
「ではこれにて。吉宗殿。書状は後程屋敷へと届けよう。下がってよろしい」
土屋殿の言葉で綱吉様との拝謁が終わる。
日ノ本の武家頂点に立つ将軍とは言え、思った事を口に出せない事実。今の世で一番幸せに生きる者は誰なのだろうか。そう考えずにはいられない日だった。
それから数年、大きな変化はなく紀州藩の赤字は膨らむ一方。
家臣団の横領は、藩主がいない事もあって、ますます大胆に、そして杜撰になっていると言う。
この辺りは薬込役(庭番忍び)からの報告が入っている。
そして江戸藩邸に届く、紀州藩の帳簿には、壊滅的な数字が並ぶ。
薬込役からの報告と併せて見れば、単なる赤字が別の意味を持つ。これは、国家老派が紀州藩を食い潰した証なのだ。
笑ってしまったのは井澤殿から取り寄せた帳簿。こちらは井澤殿が自分だけで数字を付けた私版帳簿だ。
見比べると、正版として届いた帳簿より赤字が大きい。
国家老派は、赤字額が大きすぎて、流石にまずいと思って数字を弄ったらしい。見栄えを良くするために。
自分達の私服を肥やしてきたから赤字になったのに、やり過ぎたから帳簿の数字は取り繕う。
もっとすべき事があるだろうと言ってやりたい。
この辺りは、紀州へと戻った時に大鉈を振るうつもりで泳がせている。
国家老を更迭しなければ、状況が変わらないのは、今までの経験で理解している。
だからこそ、俺が紀州に戻った時、一気呵成に処断する。それしかあるまい。
だから戻るまでは藩が存続していてくれないと困ると切実に心配しているのだ。
その他に大きな動きといえば俺の官位が上がったくらい。従三位左近衛権中将、参議、権中納言、捨て子の俺が殿上人さ。阿保くさい。
ひとつ重要な事がある。綱吉様はお言葉の通り、俺に嫁を取らせた。将軍直々の話だ。断る選択肢なんてない。俺は一七〇六年 貞致親王の王女真宮を御簾中に迎えた。
生まれが高貴すぎて俺に合わぬかと思ったが、心根の優しい女性だった。俺の初めての女でもあった。大切にしたかったがどうしたら良いかわからなかった。
仲睦まじいと言えるほど時間を共有してきたわけではない。それでも俺の唯一の女性だ。どうにか安らかに暮らしてほしかった。
しかし、華やかな京の都から親元を離れ武骨な江戸での武家暮らし。彼女は日に日に塞ぎがちになっていった。そのうち義務の如く抱かれるようになった。
空しいが仕方ない。俺もどうすることも出来ずいつものように抱いた。抱けば子ができる。紀州へと帰る事が決まった一七一〇年、俺に子ができたのだ。しかし彼女は付いてくることはなかった。出産も控えていたし、これ以上、環境を変える事を嫌った。
そして一七一〇年四月 五年ぶりに再び紀州の地を踏んだ。
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