第五話

 一七〇五年八月八日


 父上が亡くなった。享年七十九歳。

 年齢だけで言えば大往生なのだろうが、今年に入って連続して起きた凶事が晩年の父を苦しめたのは言うまでもない。


 心中察して余りある。


 そして……喪主を務める兄上。

 帰ってきて以来、顔色が良くなる事はなかった。毒のせいなのか、父上の死が兄を苛んだのか。俺にはわからない。


 しかし、あの時に聞いた父上の断片的な言葉。兄上が毒を盛られた事を確定事項のように話されていた。


 確かにあの匂いは普通ではあり得ない。内腑に病を抱えた人間は独特の匂いを醸すようだ。しかし身近にそういう人間がいなかったため、病か毒かはっきりとはわからない。


 藩主の健康状態なので兄弟といえど、情報が回る事もなく、葬儀で数日ぶりに会って、そのひどい顔色に驚いた。



 だと言うのに、葬儀は恙無く進む。

 まるで今の藩主はどうでも良いとでも言うように。




 初七日を過ぎると、藩内の上滑りするかのような気味の悪い雰囲気は落ち着いた。


 しかし、紀州藩の財政状態は壊滅的らしい。

 久しぶりに話した井澤 弥惣兵衛殿から聞いた話では、慢性的な赤字に加えて、先の藩主 綱教、先々代の藩主 光貞、二代の藩主の葬儀が続いた事で借財を積み増した。

 家康公から譲られた蓄財は、とうの昔に使い果たしていたらしい。


 毎年の収益は赤字。蓄財も無い。借財は増えるばかり。

 このままでは、改善の見込みはない。


 そんな状態でも家格に見合った葬儀を行わなければならない。

 当然金が無いから借財で行う。だがしかし、その返済は何を原資にするのだろうか。


 もう言葉も無い。紀州藩はこのままでは、終わってしまう。

 いや、既に終わりかけているのかもしれない。

 他人事のように考える俺は現実逃避をしているのだと自嘲する。



 一七〇五年九月九日


 分かっていた事だ。父上の葬儀の時には理解していた。俺に御鉢が回ってくることを。


 きっかり一月。藩主である頼織兄上が、父上である光貞を追うように亡くなった。

 まだ二十四歳だった。妻もおらず子もいない。藩主となり江戸に出向いた。父上の危篤を知り、紀州へ駆けつけた。それから一月ほどの滞在。藩主としての在任は正味三か月しかなかった。


 そして紀州徳川家に残る男系は俺一人。否が応でも紀州藩を引き継がなければならない。

 尾張藩との確執、不正体質の家臣団、無念に散っていった一族の怨念。

 一つでも重すぎるのに、一体俺にどれだけの重荷を背負わせるのだろうか。



 家督の承継において家中の反対など起きようもなく、俺は藩主の座に就いた。といっても紀州徳川家内部で認められたにすぎない。これから江戸へと向かい、五代将軍 綱吉様に拝謁。家督継承の承認を得ねばならない。


 そう、逆の道をたどった頼職兄上は、この道中で毒を盛られた。下手人も見つかっていない中、その道を俺は行かねばならぬのだ。


 出府するにあたり、山波政信、水野知成、風羽の三左と善後策を図る。

 何も対策を打たねば、兄上と同じ末路を辿るのは目に見えている。


 血筋としては、既に死した兄弟共に神君家康公からみて曾孫にあたる。兄上たちが将軍位争いで邪魔となるのならば、俺も邪魔になるのは道理。

 現在二十一歳で若いが、それは尾張藩も同じ。

 今の尾張藩主は第四代藩主 徳川 吉通である。歳は十六歳。


 この年齢からわかる通り、紀州と尾張の暗闘は、先代同士の者と思える。尾張藩の先代 綱誠公は六年前に死没。それでも暗殺の指示は残り、現在の惨状へと至る。おそらくそれは、こちらも同様であろう。


 正直なところを言えば、不毛な戦いは終わりにしたい。将軍を望むのならば、ぜひ受け持ってもらいたい。俺は、これ以上重荷は背負いたくない。


 しかし、尾張は代を重ね、吉通公は神君家康公の玄孫。何より血筋を重んじる徳川家にとって看過できない事実だ。


 俺が将軍を望まなくても、尾張が将軍位を継ぐには俺が邪魔だ。俺の意思に関係なく危機は続く。



 そこで、先ほどの善後策だ。

 まず護衛として水野を筆頭に腕の立つ小姓で固める。俺と水野は一心同体。常に共に行動し、小姓たちは交代制で任務に就く。


 そして陰の警護。忍びから身を守るため、風羽の三左が率いる夕凪衆が裏の守りとなる。庭番の忍びでは経験が不足しており、対忍者戦には対応できない。

 各地に散っている夕凪衆と育った庭番忍びを入れ替える事で、身の回りを経験豊富な忍びで固める事が出来た。


 紀州藩主となった事で、庭番の人材を動かせるようになったからできた事だ。それまでは、紀州藩士を藩外へ出すことなどできなかった。

 手元に残る庭番忍びは士官候補の薮田定八と訓練を終えたばかりの新人十五名。

 彼らは薮田を除き全員紀州に残す。訓練官でもある三左とともに。


 薮田は俺との繋ぎ役で庭番忍びの頭として近侍させる。


 現地組には引き続き紀州藩士の行状を調べさせる。この問題も藩主として解決せねばならぬからだ。

 三左は、新人たちを監督しながら、新たな人材の育成を任せる。全ての庭番をこの忍術修行を受けさせることにした。当分忙しくなるだろう。


 そう。庭番忍びでは、庭番と名称が重なり外聞も悪いので、名を変える事になった。

 政信の提案だ。


 彼は、鉄砲に秀でている事から薬込役(鉄砲の火薬と玉の意)という役職を作り、俺の鉄砲訓練に近侍するお役目にした。

 政信はその頭。忍術修行を終えた者達の中で優秀なものを薬込役の平役とする。


 今は、手が足りないので薮田だけになる。

 しかし、これで俺は目と耳を手に入れる事が出来た。幼き頃から課題としていた情報収集の手段を完成させたのだ。

 結果、それは俺の命を守る術にもなってくれた。


「ではこれで話し合う事は終わったな?」

「はい、殿。後は詳細を三左と打ち合わせておきます」


「よし。では後は頼んだ」


 今できる対応はこれだけ。まだ幾分頼りないが、昔、水野と二人きりだったことを思えば随分違う。心強い限りだ。




「三左よ。殿には内密な話だ。というより私からの依頼だ。受けてくれるか?」

「なんだ? 改まって」


「私の依頼だが、殿のためだ。聞いた以上は引き受けてもらわねば困る」

「これは尋常じゃねぇな。いいだろう。殿のためならば否が応でもない」


「この醜い争いを止めるため元凶を断ってくれ」

「元凶というと?」


「私が思うに今の尾張藩主は若くして就任したため傀儡です。尾張藩の中枢に尾張を将軍に押し込もうとする者がいるはず。それを探し出し仕留めてもらいたいのです」

「……難しいな。期間は?」


「出来るだけ早く。殿に危難が及ばぬうちに」

「……やってみよう。しかし俺も出ないと済まんだろうな」


「その辺りは私がうまく取り成します。くれぐれも内密に頼みます」

「わかった。必ずや仕留めてみせよう。夕凪衆の名に懸けて」

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