第四話

 父上が危篤となり、江戸へ向けて早馬が飛んだ。それから既に七日目になる。

 容体は一進一退。もう良くはならないだろう。それは医師でなくともわかる。


 もう新藩主である頼職を待つことだけが、この世とつなぎとめる最後の糸のように思う。

 俺も日参しているが、まともに会話で来た日はない。


 そして、その日の夕方に差し掛かろうかという時分、藩主頼職が戻ったとの報が入った。

 俺が予想していたよりずいぶん早い。家臣を多く連れず、着の身着のままで駆け通したに違いない。

 何せこの紀州からの参勤交代は十二日かける距離だ。四日ほどで帰るには通常の手段では無理である。何頭も馬を潰しながら駆け通したのだろう。


 父上の意識が戻るかもしれない。そんな淡い期待を胸に秘め、家族がそろう場にしたくなった俺は、二度目の父上の寝所へと向かった。



「父上! 」


 衣服は改め、旅塵は落としたようだが、汗のにおいは消えない。それだけ急いで駆け付けたのだろう。危篤に陥ってから何度も会えた俺は、気を煩わせないよう、部屋の隅へ静かに座る。


「父上! まだ逝かないでくだされ。この未熟者の私には父上が必要なのです!」


 必死に呼びかける。

 よくよくみれば、頼職兄上の顔色が土気色だ。駆け通しで疲れがたまっているのかもしれない。それに父上が状況を顧みれば血の気も引いてもおかしい事ではない。


 それにしても顔色が悪すぎる。俺は江戸から駆け通したことは無いが、馬での早駆はそれほど堪える物なのだろうか。


 呼びかける声は止むことなく、静かな寝所に耳障りな騒音をかき鳴らす。

 医師に促された付き人が頼職兄上を引きはがすように布団から距離を取らせる。


 イヤイヤと子供のような仕草をするが、疲れ切っているのか、さしたる抵抗にならず、入り口まで引き戻される。


 そこで頼職兄上は俺に気が付いたように顔をこちらに向けた。


「頼方よ。儂はどうしたら良い? 儂に紀州藩主は重過ぎる。父上がいなくなってしまったらもう終いだ」


 その答えは俺にもなかった。例えあったとしても、その場で答えられたかどうか。

 兄上は幽鬼のような顔をしており、それに意識のすべてが向いていた。


 兄上も答えを求めていないのか、疲れた体を引きずるように寝所から出て行った。


 寝所は、やけに静かになった。これが今まで通りの寝所の様子だったというのに。

 主である父上は相変わらず意識が戻らず、苦しそうな寝息が続くばかり。

 変わったところと言えば、甘さと香ばしさが混ざったような匂い。この部屋に漂う不快な匂いだけだ。



 翌朝の昼。

 父上の意識が戻りそうだと医師の使いから連絡を受けた。

 急いで向かうと、寝所前の廊下で頼職兄上と出会う。昨日の酷かった顔色は、今日も変わらず土気色のまま。一晩休んでいくらか元気になると思ったのだが、変わらなかった。

 父上の様子が気になり眠れなかったのかもしれない。


 兄弟二人で枕元に座り、待つ事、半刻ほど。覚醒するかのようにピクピクと動いていた瞼が開いた。


「「父上!」」


「……頼職、頼方。後は頼んだ。最後に顔をよく見せてくれ。……もう碌に目も見えぬ」

「父上! 頼職はここですぞ」


 兄上は、布団の横に移動すると覆いかぶさらん如く顔を近付ける。


「おお、おお頼職。我が子よ。江戸より戻ってくれた……か。…………なんじゃその顔は。……それ……に……その息の匂い……もしや……またしても……尾張」


 尾張だと? それに顔色についても父上は心当たりがあるようだ。


「少し疲れているだけです。父上はご心配なさらぬよう。お身体を御労り下され」

「身体を労らな……ければならぬの……は、お主の方じゃ……。綱教と……同じ……ではないか。あ……あ……何たることか。我が子たち……三人……も…………」


 医師が慌てて近寄る。切迫した状況のため、医師が軽く押し退けただけなのに兄上は父上の足元で尻餅をついている。



 容体を見ていた医師の肩の力が抜ける。

 意識を失われただけのようです。とポツリと告げ、部屋の隅へと引き下がる。先ほどと同様、置物のように控える。


 父上のお言葉。尾張。また出てきた。俺の位置からは聞き取りにくく断片的にしか声を拾えなかった。

 しかし、この状況であの言葉。兄上の容態。不快な息の匂い。綱教兄上と同じ。そこから導かれるものは、頼職兄上も毒を飼われたという事なのではないか。


 そこに思い至ると愕然とする。


 先日父上を話した時は、あれだけ注意されていたが、どこか他人事のように感じた。現実味が無いというか、そこまでするのかというのがまぎれもない実感。


 しかし、兄上まで魔の手がおよんでいたとなると、どう考えても次は俺だ。



 父上は、毒などの外部的な要因ではなく、老衰と神経衰弱によるもの。兄上が江戸から駆け通したのは、予定外の行動だ。


 であるにも関わらず、移動の最中に毒を飲まされた事になる。連れてきたのは身近に侍らせていた信頼のできる近臣のみであろう。

 下手人の可能性が高いのは、その近臣の誰か。尾張の手は、その近臣にも及んでいるのだろうか。

 近臣が尾張の間者であることも考えなければならない。


 後は、紀州藩に入る手前の宿場で待ち受けていた可能性。無くは無い。こちらから早馬が出て一週間ほど。準備も充分に間に合う。それに帰りのタイミングが速かろうと遅かろうと立ち寄る事は確実だ。そこで水や食事に混ぜた毒を飲ませる事も出来るだろう。


 できれば後者であってほしい。そうでなければ人を信用できなくなる。


 思わず考え込んでしまったが、ここは父上の寝所だ。早く出るに越したことは無い。

 まだ尻餅をついている兄上を引き起こし、肩を貸して部屋から出る。


 隅にいる医師に兄上にも医師をと告げると、承知の目礼をされる。外に出てみれば、廊下に別の医師が控えていた。もう準備は済んでいたようだ。


 その医師に兄上を任せ、葛野藩の執務室に戻ろうとしたが、足を止める。

 嫌な汗がべっとりとまとわりつき不快だったからだ。着替えるため方向を変え歩き始める。

 不穏な空気が漂う寝所から早く離れたいのか少し早足になっていた。

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