紀州藩主編
第一話
一七〇五年 紀州藩 和歌山城。俺は二十一歳になった。この城へ登る事になった加納源六の頃から数えて十五年になった事になる。
この十五年、嫌な思いもしたし、良い思い出も少しはあったと思う。
されども嫌な記憶が多すぎて、母上や父上に会えた良い思い出もかすれて感じてしまう程だ。紀州藩士の汚職は目に余るものがあるし、気位ばかり高くて下を見下す風潮は消えていない。
俺にとっては、苦々しい限りで、まさに苦汁を嘗める日々であった。
確かに庭番の者たちを組織して自分の諜報組織らしきものを作れたが、数は少ないうえに汚職の事実を掴んで訴えたところで国家老派に握りつぶされてしまった。
それ以降、情報は集めるものの使い道を見いだせず宝の持ち腐れとなってしまっている。
もし、強硬な手段を取れば、俺は隠居させられ、下の妹に婿を取らせお飾り藩主の出来上がりだ。そうなれば葛野藩は手の届かないところに行ってしまうだろう。
そうだ、話が逸れてしまったが、嫌な事はこれからあるんだ。そのまま現実逃避できれば、どれほど楽であろうか。和歌山城に住むようになってから十五年、かつてないほど気の重たい登城かもしれない。
城へ登る藩士たちは、一様に顔を俯かせている。今の時期は夏に向けて生命の息吹を感じる時期のはずだが、どれもこれも背を背けているようだ。
春も過ぎた五月、よくよく悪い事が起きるものだな。さくら殿の誘拐騒ぎも確か今くらいの時期だった。
参勤交代で帰ってきたばかりなのに、急に体調を崩され、あっという間に息を引き取ったという。まだ四十一歳、疲労で亡くなるわけではないと思うのだが。急な病であろうか。持病があるとは聞いていなかった。
第三代紀州藩主 徳川綱教。我が兄。享年四十一歳。早すぎる死だ。もしかしたら将軍になっていたかもしれないほどの俊英。
現将軍の娘を嫁にする程の信任を得ていたし、先代藩主の父上も大層期待をされていた。今の父上の心情を察するに余りある。どれほど打ちひしがれているだろうか。
隠居をされて七年。以前より活力が戻られたように感じていた。それなのに。
もう父上も七十九歳だ。あまり心労をおかけしたくなかったのだが、こればかりは俺にはどうしようもない。
昨年、五代将軍 徳川綱吉様の長女であり、綱教兄上の正室だった鶴姫様が亡くなられた事にもショックを受けておられた。父上は孫を楽しみにされていたのに、姫は天然痘という病には勝てなかった。
鶴姫様の事に加えて、兄上まで。何か御心を安らがせることができれば良いのだが。
朝から何度も何度も同じことを考えては、どうにもならぬと結論を出しては、また考えてしまう。
よくよく考えてみれば俯いて歩いているのは、俺も同じだったな。皆と同様、悲しんでいるのか、世の非情を嘆いているのか。
これから城で綱教兄上が逝去された事を公表される。そして次の藩主が決まり、我らは忠誠を誓うのだ。そんなこと後回しにして、家族で兄上の死を偲びたいのだが、武士の家ではそうもいかない。跡継ぎなければ断絶。何とも人情味の無い世界だ。
◇◇◇紀州藩二代藩主 徳川光貞(綱教、頼方達の父)
尾張か!尾張のせいなのか!
綱教!どうして先に逝ってしまった?!
どうせ逝くなら老いぼれからが筋であろうが。
親より先に逝くとは何たる親不孝者よ。なぜ次郎吉(次男)だけでなく綱教まで。
二度も子の死に目に合わすとは、尾張許すまじ……
気ばかり急くが、体は動かぬ。我が身の衰えが恨めしいわ。もうできることも多くない。せめてこれ以上、我が子らを死なせてはならぬ。残された頼職や頼方だけは守ってやらねば。
「ムカデはおるか」
普段人と話す声とは打って変わって低く暗い声が出る。あやつに声をかける時はいつもそうだ。
行わせる内容がそうさせるのかもしれぬが、はっきりとはわからない。もうそれについて考える事も随分前に無くなった。
「ここに」
いつものように床下から声がする。いつよんでもムカデはそこにいる。
父上の頼宣公より引き継いだ忍びだが時代の流れなのか忍びとして生きる者は少なくなった。
みな武士や農民として生きる事を望んだ。任務の報酬として、少しずつ認めてやってきた。
今も残るムカデの衆は歳を重ねたもの達ばかり。歳を取ると生き方を変えられないものだ。
そう、間違っていると分かっていても、生き方を変えられないのだ。
「尾張藩主と血筋の者全てを消せ。殺し尽くせ。どれだけ時間をかけても良い。任を全うするまで帰るな。儂が死んでもこの命令は消えぬ。必ず全うせよ」
「かしこまりました」
「……無理をさせるな。代わりに主らの家族に手当てを下そう。ここに百両ある。持ってゆけ」
「日頃より光貞様のご厚情を賜っております。追加の手当てなど不要にございます」
「良いのだ。黄泉路に黄金は不要。六文銭さえあれば事足りよう」
「ありがたき幸せ。任を全うし後を追いまする。黄泉路のお供をさせてくだされ」
「長い付き合いだ。そこまで付いてこんでもよかろうて。孫とのんびり暮らせよ」
「それが出来れば、床下を這いずり回ってなどおりませぬ」
「違いないわい。ムカデとして生まれムカデとして死ぬ。それも良い人生か」
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