幼少期編 第三十五話

 草鞋の発注は紀ノ本屋に決まった。


 店主である紀ノ本屋孫兵衛は太筆で払ったような太い眉毛を持つ豪快な男のような印象だった。話してみれば、豪快さは見た目だけで、頭が良く、話が早い。さすが大店の店主といったところだ。

 

 納品場所を三箇所に分ける計画など、その効果や利点をすぐに理解してくれた。

 これらの対応を求めたことで紀ノ本屋には手間をかけることになってしまった。


 大口の発注という点と、こういった面倒な納品の手間を勘案して納品の単価を提案してほしいと依頼した。もちろん時間をかけて構わないので後日連絡をくれればと言ったのだが、紀ノ本屋孫兵衛は、その場で金額を出すと言い切った。


 少し緊張を含んだ時間は俺には長く感じた。紀ノ本屋はわずかばかりの間、目をつむり思案するような顔をしている。

 彼は、おもむろに口を開いた。




 結果、草鞋の納品単価を提示してきたが店頭売りよりだいぶ安く収まった。

 一足当たり二十文だ。店頭売の価格より一割から二割安い。これを一万五千足発注した。つまり三十万文、両に換算すると75両だ。

 

 俺からすると大金なのだが、紀ノ本屋には大した商いにはならなかっただろう。紀ノ本屋ほどの大店であれば、この程度半日も掛からずに稼げるはずだ。

 

 そんな大きくない商売の話を持ち込んだのに、店主直々に対応してくれたうえ、話を即決で決めてくれた。

 彼曰く、二年ごとに発生する取引であるし、城との取引は店にとって信用が増すから問題ないとの事だった。


 これから何か発注があるときには紀ノ本屋を候補に入れることにしよう。江戸にも支店があるようだから、向こうからの帰りも紀ノ本屋を候補に入れてもらえるよう口利きしても良いだろう。向こうの心意気に答えるなら、そのくらいのことをすべきだと思う。



 その代わりと言っては何だが買取価格は十文。ほぼ原価に近い金額になった。

 

 紀ノ本屋曰く、発注数が多すぎ下取りを希望するという事は、購入者側の不手際(つまり俺)だから厳しく対応をする。その分、売値は商人たる自分の腕次第だから、かなり安くしたとの事。

 

 いちいち尤もな話だったので反論の余地はなかった。



 今回の一連のことは養父上を経由して父上に報告した。

 高級な料亭で接待を受けているだろうこと、発注の見返りとして金銭を受領している恐れがある事、予算管理が甘く監視体制ができていないことなどだ。


 父上からはこれらについては特に何のお言葉も頂けなかった。

 

 しかし、担当した草鞋の購入価格を従来の五分の一にしたことは褒められた。しかも、大々的に成果を公表し、皆の前でお褒めのお言葉と感状を頂けることになるという。

 侍としては大変な名誉だ。侍にとって感状は、家の代々の家宝になるくらいに重要視されている。



 本当であれば俺が横領や使い込みなど不正行為を行う役人どもの捜査をしたいのだが、それはできない。


 俺も水野も帳面を読み解くこともできないし、尾行して金の使い込みを探ることもできない。捜査すべきだとは思うが手段がない。そしてそんな立場にもない。

 せいぜいできたのは、養父上に伝えるくらいだ。


 井澤殿のような優秀な方でも、やりたい事と今やるべき事を分けて取り組んでいるのだから、俺も今できる事をやるだけだな。


 しかし、こういった調査をする部署はないものか。職制でいえば目付という部署が該当するが、紀州藩では形骸化してしまっているようだ。このままでは、今の不正体質はそのまま横行してしまうだろう。父上は何か手を打ったりしているのだろうか。


 視察の時も感じたが、正確な調査というのはとても大切だとわかった。頭で考えていてもわからないことや誤った方向に進んでいても、現場に立ち返ると答えがすぐそばにあったりする。


 視察は自分が行けば見たいものが見れ、知りたいことを知れる。しかし自分が行くとその場しか見れない。時間も有限だから領内を全部把握するのは不可能だ。

 

かといって任せられるほど信用がある役人も多くないように思う。

 どうすれば良いのだろうか。黒川殿や伊澤殿のように信頼できる人を少しずつ増やしていくくらいしか思いつかないな。



◇◇◇ 和歌山城 奥にて お萩の方視点


「あやつには褒美を与えた。萩、これで良いであろう?」

「殿、ありがとうございまする」


「あれほど毛嫌いしていた新之助に褒美を与えよとはどういう風の吹き回しだ?」

「毛嫌いなど… あれも殿の大切なお子。なにより、信賞必罰、良い行いをしたものには褒美を与える事におかしな事はございますまい」


「……まあな。ともかくこの話はこれで終いじゃ。本当に新之助はよくやっている」

「さようでございますね……」


 まったく憎らしい。足を引っ張るつもりが褒美をくれてやるお願いを殿にしなければならぬとは。しかし、このまま放っておけば、手柄を重ね分家設立の話が出てきてもおかしくない。殿は新之助のことを気に入ってるようだからな。

 

 この紀州五十五万五千石は、我が子 綱紀の物じゃ。一石たりともあの女の子にくれてやるものか。そのためなら殿に頭を下げて、あの憎たらしい小僧のために褒美でも貰ってやるわ。



◇◇◇ある山深い山中にて


「……あったか」

その深い山、太い木々、さして日の届かない薄暗い木の根元にうずくまる大きなヒヒのような者は、そう言ったように思えた。唇を動かさず話す癖があるから、はっきり喋ったかもわからない。


ただ一つだけはっきりわかることは、その足元には見慣れぬ茸が自生しているということだけ。




幼少期編 完

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