幼少期編 第三十四話
納戸方の仕事の目処は着いた気がするな。
あとは尾藤屋に会って、そこに依頼するか、忠吉から紹介された紀ノ本屋に話を持っていくか。
交渉してみて条件が良い所と契約すれば良いだろう。いくつか当たれば安くて信用できる商家が見つかるはずだ。
ここまで来たら、あとは元々の本題の治水について教えてもらおう。
「それで治水の話なのですが、今紀州藩ではどのような対策を行っているのでしょうか?」
「特に変わったことはしていませんね。堤を強化して川底を浚うくらいでしょうか」
「それでは河川の氾濫は無くなりませんよね」
「そうです。今のやり方は非効率ですね」
「結局のところ視察をしてきて川の曲がった部分が決壊を引き起こしやすいのは分かりました。しかし私には、今以上に良い対策が思いつかなかったのです」
「そうですか? 簡単ですよ。川の流れの曲がったところが決壊しやすいなら真っ直ぐにしてやれば良いのです」
簡単って。確かに理屈で言えばそうなんだけど、川は蛇行しているものだよな。それを真っ直ぐにするって考えのスケールが大きすぎてビックリする。
さも当然のように考えつく井澤殿の頭はどんな作りになっているのやら。さすが天狗に教えられえたと言われるだけはある。むしろそう言う事情があった方が納得だ。
俺も周りの大人と一緒で凡人なんだろう。井澤殿のような凄すぎる方を前にすると天狗話がないと劣等感に押し潰されてしまう気がする。
「川の流れを真っ直ぐすることは可能なんでしょうか?」
「可能ですよ。現に我らは用水路をいくつも作ってきています。それが大きくなっただけですから。しかし大きくなったというのは厄介な事で、正確な土木工事の知識が必要になります。今の私には無いものですね。そのためこの計画はまだ実行できていません」
「では、土木に詳しい人が見つかれば河川の氾濫が減らせるのですね」
「恐らくそうなるでしょう。実行して問題点を洗い出し改善していけば必ず達成できます」
この自信凄いな。物事を言い切るのって凄い勇気がいると思う。井澤殿はブレない強さがある。困ったときこう言う態度はとても安心できるものだ。
俺なんてここまで言い切ることなんて出来なかった。寅達と徳利爺に紹介するって話の時も、多分とか恐らくとか、そんな風に保険をかけていたように思う。失敗した時に自分への被害を減らしたかったのではないだろうか。
俺ももう少し大人になる頃には、井澤殿のような揺るがない強さを得ることはできるのであろうか。
ひとまず井澤殿との話はこれで終わりにしよう。
河川の決壊も見込みがあるようだし、この辺りは俺が手を出せる領分を超えている。井澤殿なら必ずやり遂げてくれるだろう。俺は井澤殿の計画がうまく行くよう土木の専門家を見つければ良いのだ。
「では私も土木に詳しい人がいないか探してみます。本日は長々とありがとうございました」
「こちらこそ実りのある話し合いで楽しかったですよ。私は出身が農家ですから友達が少ないのです。良かったらまたお越しください」
井澤殿に友人が少ないのは農家出身ではない気が多分にしたが、それには触れず挨拶をして屋敷を辞去した。
翌日、俺は水野と共に卯の花という料亭に向かっている。
昨日のうちに井澤殿の屋敷からの帰りに尾藤屋に寄って草鞋の購入について相談したいと伝えると日を改めて場を作ると言うので、その日はそのまま帰ってきた。
そして今日、招かれて料亭へと向かう道の途中というわけだ。
「若、城の御用向なら城で打ち合わせれば良かったのでは?」
「俺もそう思うが、伝言に来た尾藤屋の丁稚では、お越しいただきたいとしか言えぬようでな。断ると丁稚の小僧が可哀想だったから、つい受けてしまった」
「上の言いつけ通りに招待できねば、丁稚の立場が拙いのはわかりますが。我々の懐具合では、卯の花は厳しくないですか?」
「酒を飲むわけでもないし、話すこと話してさっさと帰ろう。そうすれば大して値も張るまい」
「尾藤屋の主 金兵衛と申します。この度はご足労をおかけしてしまい申し訳ございませんでした」
そう言って平伏したのは尾藤屋の主。恰幅が良く、着ている着物は父上と同等の絹物。
髷も黒々としていて裕福が服を着て歩いているような人物だ。顔はフグのようにまん丸でギョロギョロとした目は嫌でも忘れられないだろう印象を持つ。出目金のようだ。
「こんなすごい料亭でなくても良かったのですが……」
そう。卯の花は凄い料亭だった。和歌山城の奥座敷よりもお金がかかっているように思える。さすがに広さはそれなりだが、調度品、畳、欄間、襖絵に至るまで一級品で揃えられている。
何でもかんでも高級品ばかりで品が無いように感じてしまうのは、俺自身が身の丈に合わない店に来てしまったからか。
「納戸方の皆様は、こちらを利用して商談していますからお気になさりませぬよう。せっかくの卯の花です。滅多に来れないような高級料亭でしょう。なあに、卯の花と言えど、慣れてしまえば大した店ではございません。芸妓衆も呼んでおきましたから、本日はごゆるりとお楽しみくださいませ」
「いえ、商談なのですから芸妓衆など不要です」
皆このような接待を受けていると言うのか。なんで金額を決めるのに芸妓衆が必要なのか理解できん。むしろ話の要点(価格と納品数)だけを打ち合わせるだけなら茶の一杯もいらないくらいだ。
「そんなつれないことをおっしゃらないでくださいな。芸妓衆ももう来てしまっていますから、今帰しても費用は変わりませんよ。もちろんお代は私どもで持たせていただきますがな。草鞋なんぞ、この尾藤屋がしっかり揃えておきますから、大船に乗ったつもりで楽しんでくださいませ」
なぜか尾藤屋は自分のところで受注できるつもりでいる。今までもこのような流れで当たり前のように受注してきたのだろうか。まともに話を取り合ってくれなそうなので、今回の本題だけ確認を済ませてしまおう。
「真に結構だ。尾藤屋、お主であれば草鞋を幾つでも揃えられるだろう?」
尾藤屋はなぜか褒められていると思いニヤッとしている。まだ発注するとも決めてないぞ。
「もちろんでございます! 尾藤屋にかかれば草鞋なんぞ五万でも十万でも揃えてみせますよ」
五万も十万もいらん。そんなに買ったところで使いきれん。紀州藩は赤字なんだから、使わないものにお金を払うなど、そんな余裕はない。
「では、あとは単価だけだな。そちの店ではいくらで出せる?」
「飲み食いより実物の方がお望みでしたか。でしたら三百五十両で五十両お渡しすると言うのではいかがで?」
「……意味がわかりませんね」
「では百両お渡しします! その代わり四百両分の発注をぜひ」
「話になりません。我が藩とは、長い付き合いのようですから、最後のチャンスとして単価だけは聞きます。丁稚にでも希望単価を書いた紙でも届けさせて下さい。尾藤屋さんに発注する時はこちらから連絡します。では失礼する」
「それでもご不満なら百三十両では……」
最後は聞き取れなかったが、聞く必要もなかっただろう。俺は座から立ち上がり、卯の花の座敷を出た。全くの無駄な時間、無駄な金の使い道だった。
俺は怒りに任せズンズン歩く。
一体あのやりとりはなんなのだ。
自分への見返りのために発注額を釣り上げるなんて横領そのものではないか。
さも当然のようにこういう話が出るのは、今までの担当が受け入れてきたからであろう。考えていた以上に倫理が欠落しているようだ。
これは父上に報告せねばなるまい。
そして腹が立つのは尾藤屋にもだ。見返りを断ると値を釣り上げた。まるで俺が金銭を要求しているようではないか。昨今の侍も侍なら商人も商人だ。骨のある信頼できる商人はいないものだろうか。紀ノ本屋は尾藤屋のようでなければ良いが。
いかん。怒りのあまり水野を置いて卯の花から出てきてしまった。また店に戻るのはバツが悪いので、店の前で水野が出てくるのを待つ。
少し待つと水野が出てきてくれた。
「お待たせしました。会計が手持ちでは足りず難儀しました。一体何を召し上がったんです?」
「何も食ってないよ。尾藤屋が芸妓衆を呼んでいたんだ。不足分はどうした?」
「なぜ商談で芸妓衆を? とりあえず後で届けると言うことで話がつきました」
「それは俺にもわからん。今までの担当はそういうのを受け入れてきたようだ。今回の費用がいくらかわからんが、折半して必ず払っておいてくれ。金は養父上に頼んでおく。俺も同じ穴の狢と思われたくないからな」
「承知しました」
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