幼少期編 第三十三話

「御免くだされ。徳川新之助です」

「ようこそおいで下された。どうぞお上がり下さい」


 巴屋で調査をしていた数日後、非番になった伊澤殿の屋敷へお邪魔することにしたのだ。しっかり手土産も用意した。色々と教えを請おう。


 伊澤殿の屋敷も拝領屋敷なので、他と大きな差はなく同じような作りだ。数が必要な事から装飾などは少なく、部材もそこそこの物が使用されている。

 そんな似たり寄ったりの家でも住んでいる人の性格が出るのか、落ち着きのある空気感が漂い黒川殿の屋敷に来たような錯覚を感じる。


 伊澤殿は城で会ったように落ち着きのある雰囲気は変わらないが非番という事もあり、いくらか表情が穏やかな気がする。


「非番の日に屋敷にまで押しかけてしまい申し訳ございません」

「いえ、お気になさらずに。治水のことでお聞きになりたい事があるのでしたね」


「それもそうなのですが、納戸方についてもお聞きしたいことが出てきてしまいました」

「納戸方ですか。私は城へ上がるとすぐに勘定方に回されましたから、わからないことの方が多いと思います」


 伊澤殿はいきなり花形の勘定方への配属だったのか。凄いな。


「私は藩の財政の知識がないもので、常識もありません。仕事の仕方を不思議に思っても良い悪いの判断がつかぬのです」

「……我が紀州藩の財務状況は健全だと思いますか?」


 急に伊澤殿は質問を投げかけてきた。正直、納戸方の仕事の仕方を見るにお金がないわけじゃないんだろう。

 金銭的に困っているなら、父上や養父上の加納家老もそういった言葉を発していたはずだ。


「健全ではないでしょうか。紀州藩は55万5千石の大藩ですし」

「ふむ。そこからですか」


 いきなり出された問題に答えてみたものの不正解だったようだ。


「財務の健全性は収入の多寡で決まるものではありません。収入の中で身の丈に合った支出を行う事こそ健全な財務といえるのです」


 大きな話から始まってしまった。伊澤殿は余分な話をしないタイプに見えたが、だいぶ丁寧に話をしようとしてくれているみたいだ。おそらく俺の知識がなさ過ぎて、そこから離さないと埒が明かないと思われているに違いない。


「ひるがえって我が藩は、身の丈に合った支出とは言えません。親藩だとか、いらぬ見栄を張って金を使うなど愚の骨頂。そもそも我が藩は赤字です」


 紀州藩が赤字?! 紀州藩は父上の代でやっと二代目。藩ができてから七十年ほどだ。それでもう赤字になってしまうほどの放漫経営だったのだろうか。


「紀州藩は赤字なのですか。ちょっと驚いています。納戸方の先輩方は、さほど金銭に困っている雰囲気はありませんでした」

「藩士は、金が無ければ借財をすれば良いと考えている節があります。酷い事に返せなくなったら踏み倒すと恥ずかしげもなく公言しているくらいですよ。まったく、親藩の意地を持つなら、そういうところで発揮していただきたいものです」


「そんな事をして借財できるのですか?」

「いずれ商人から見向きもされなくなるでしょう。そうなれば破綻します」


 それはそうだ。返さないのに貸してもらえるなんて都合が良すぎる。

 この問題は一体何なんだろう。武士というものが根本的にそう考えてしまう種族なのか。武士とはそのように情けない存在だったのだろうか。


「なんと言ったらよいかわかりません」

「私も今の現状は空いた口が塞がりません。しかし私にできる事を精一杯行って、少しでも良くしようとしています」


 井澤殿の話は思っていた話の流れと違い、気が重くなってしまった。彼は前向きに考えているようだが、俺はまだそんな風に受け入れる事ができない。

 正直、侍はもっと高尚で士道を邁進するものだと思っていた。代官達の民達への仕打ちもそうだったし、借りたものを返さないなど人として有るまじき行為だ。


「侍が侍たる存在で有らねば統治者たりえません。徒に暴力に胡坐をかく存在は迷惑極まりない搾取者です」

「そうですね。私が余計な話をしてしまったせいで、本題から大分それてしまいましたね」


「いえ、いつかは知らねばならなかったことですから。……本題ですが、私は納戸方として草鞋の調達を任されました。予算は多くて五百両、先日の帰郷時の草鞋の在庫は破棄してしまったというのです。色々と問題だらけに感じて、皆さんに聞いて回っていたのです」

「そのような書付は見た記憶がないですね。記録にも残さず杜撰な対応をしているのでしょう。五百両が適正か今は判断付きませんが、状況的には多すぎるのでしょう」


 確かにここまで話を聞いてしまうと数を計算する以前に予算が多すぎるのは嫌でも想像がついてしまう。書付も残していないとなるとみんな好き勝手やっていたのだろう。


 藩が赤字なのに好き勝手に経費を使用しているなんて父上が知ったらどんな顔をするのだろうか。少なくとも危機意識は全藩士が持たなければならないし、そういった横領紛いのことを監視する機能が働いていないことも問題だ。


「やはり多すぎますね。参勤交代の全藩士が毎日履きつぶしても倍ほど補える金額です。私の考えでは、数は三分の一に減らせると考えています」


 俺は、草鞋の購入量を決定するにあたり徒歩の武士の割合や補修を想定していることなどを伝えた。


「徳川殿のおっしゃるように草鞋をそんなに使うことはないでしょうね。概ね計算に違和感はありません。経験上でお話しすると計画は往々にして崩れるものです。計画を補えるよう次善の策を考えておくとよいでしょう」


「私は一万二千足を考えています。どのように準備をしたらよいでしょうか」

「私であれば五千足をこの地で用意し運びます。そして参勤交代の三分の一の距離当たりの宿場町で五千足を受け取れるようにしておき、さらに三分の二の距離の所でも同じようにします。さすれば、運ぶ荷駄も減らせます」


「なるほど。確かにそれであれば移動も楽になりますね。しかし、どのようにして遠方の場所に用意させればよいのですか?」

「それはさほど難しくありません。ある程度の大店であれば支店が多くあります。こちらの店で発注をしておき、各支店で受け取れるようにしておけばよいのです」


 そうか。大店の支店網なら今回の発注にかかわらず連絡を取り合っているから、早前に伝えておけば準備も難しくないだろう。支払いは一か所で済むし、同じ店なら話も早い。受け取る場所の違いなだけならまとめて購入する際に大口割引も交渉できるだろう。


「その方法は素晴らしいですね! ぜひその案で準備してみようと思います」

「お役に立てて何よりです。先ほどは不快な気分にさせてしまったようですから。さらに付け加えるなら、未使用分の買取価格についても話を詰めておくと良いですよ」


「必ずやそのようにします!」

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