幼少期編 第二十三話
「確かに、手塩に育てた農作物も流され、開墾した田畑は使えなくなってしまいますね」
「家々も流され家財も失いかねませぬ。それだけでなく復旧にも時間がかかると聞いたことがあります。そうなってしまえば、田畑を捨て、職を求め城下に流れていくとか。運よく職につければよいのですが、大半は、ならず者になるか無宿人となるか」
「俺が加納屋敷にいたころ、河原者とつるんでいたが、そのような者が一定数いたな」
河原者はその名の通り河原で住み暮らす者たち。掘っ立て小屋を立てたり橋の下で眠ったりしている。こういう境遇になるのは、しがらみから逃れるため自分から進んでなる者と仕方なくなってしまう者の二通りに分かれる。大半は後者だ。
そういった者達は、家での折り合いがつかず飛び出してしまった者や口減らしで捨てられたも同然の者、今の話に出たような逃散農民が多かった。
働きたくとも働けない立場の弱い者たちが寄せ集まって助け合い暮らすのが彼らだ。
溝さらいなど人の嫌がる仕事を受けて何とか糊口を凌いでいる。
「そう、水害は大切なものを奪っていくのでござる……」
「黒川殿も大切なものを亡くされたではありませぬか?」
何故そのような事を聞く?水野がいきなり言い出したことに驚いた。そして何故そう思ったのかわからなかった。
「某も大事な物を全て流されてしもうた。もう二十年以上も前のことでござった。先祖伝来の槍も、同じ代官職を目指してくれていた息子も、碌に出世の出来ぬ某を支えてくれた妻も全てな」
「やはりそうでしたか。屋敷には女っ気がありませんでしたし、武士たらんとされている黒部殿がお家の存続に気を配らない様が気になっておったのです。ご家族の話もされないので、もしやとは思っておりましたが」
「そうじゃな。普通の武士であれば養子をとって家を残すべく動くものじゃ」
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。全く気が付いていなかった。いや、それは自己弁護だろう。
考えもしなかったのだ。何度も屋敷に上がり込んでいたし、長い事、時を共有してきたにも拘らず。
先ほどの水害の話でもそうだったが、同じ条件、同じ情報を得て水野は気が付き、俺は気が付かなかった。それだけだ。
きっと、自分の発案した改革案のことしか目に入っていなかったのだ。黒川殿を師に仰ぐなどと、ほざきながら、実のところ黒川殿の見識を利用していただけではないか。
相手を慈しむこともせず、己の望むままに相手に寄生する人間だった。
それは自分が最も唾棄すべき大人たちと同じではないか。
「黒川殿、申し訳ございませぬ。私は全く思いも至りませんでした」
「今の歳で、それまでできてしまっては、大人の立つ瀬がないでござるよ。思い悩む必要はござらん」
「しかし、私は自分の聞きたいことだけを聞き、黒川殿のことを顧みる事をしませんでした」
「それも仕方なき事。某は話せなかったのでござる。話して思い出にする事で、楽になりたくなかったのでござるよ。今も自分の生き方がこれで良かったのか自問自答しておりまする。どうか若様も己の身を顧みて、師のようにならぬよう進んでいってほしいものでござる。水野殿も触れずにおいてくださり
「…………」
俺は恥ずかしさと情けなさが
「……ご家族に何があったのですか?」
見かねて水野が質問した。
「そうさな、さして楽しい話ではござらぬが……お二方には聞いてもらおうかの…………」
そう言いつつも黒川殿は、中々口を開かなかった。
それは、落ち込んでいる俺を慮って無理して話そうとしてくれているからなのか、人に話したことがないから、どう話そうか頭で整理しているだけなのか。俺は怖くて、それについて聞くことはできなかった。
訥々と語った黒川殿の話はとても悲しいものだった。本人は、感情を抑え平坦な話し方をしていたから尚更無念さを感じずにはいられなかった。
「あれは二十年ほど前のこと、川沿いにある少し裕福な村の代官でござった。四十歳前の某は、若い頃に感じていた仕事の不満に折り合いをつけられるようになっていた。むしろ楽しみを感じるようになっていたものでござる」
「我が子も遅まきながら元服を迎え、代官見習として先々が楽しみでござった。父に似ず聡い子でな。代官に留まらず、もっと偉くなったであろう。特別な日々は要らぬのだ。普通に日々暮らしていければ、順当に出世をして不自由ない暮らしをできたであろうの。普通に過ぎ去る日が迎えられれば、それで良かったのござる。それで充分だったのでござる」
「あの洪水が全てを無にしてしまった。その時、某は家族の事を考えもせず、村人達の救助の指揮をしておった。ひと段落を終え戻ってみれば屋敷ごと全てのうなっておったのでござる。某は代官の職務を優先して全てを失い申した。だから、あれ以来、代官の務めに人生をかけてきたのです。代官の職務を全うせねば、家族に申し訳が立たぬのです」
黒川殿が一言、一言、嚙みしめるように話す言葉を、俺も一言、一言、心に刻み付けるよう聴いた。涙が流れていた。
黒川殿の悲しみに触れたからなのか、己の思慮の浅はかさに恥じたからなのかはわからない。
「と、さほど珍しい話ではござらん。こんな境遇の者などいくらでもいよう。川の氾濫自体が珍しいものでは無いのだからそれも当然というもの。某は弱く受け入れることができずにいる。それだけでござる。民は強いですぞ。皆、何かしらの悲しみを抱えながらも日々強く生きておる」
「今のような平和の世では、武士の方が気楽に生きていると言うことなんでしょうね」
「だからこそ!不器用ながら実直に日々を生きる民の味方でありたいのでござる」
「そうですね!私もそうなれるよう精進いたします」
今までは父上への反発で武士を嫌い民に近い目線で見てきた。これからは民のために考え、真面目に働く者が真っ当な暮らしが出来るよう皆を守って行くのだ。
「ふふ、似た者同士の師弟ですね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます