幼少期編 第十六話
その後、近くに家に行き名主の所在を確かめた。名主の治右衛門は妹夫婦の家に厄介になっているそうだ。妹はよね、そのよねの夫が吾作。
治右衛門の嫁と子は別の家に泊めてもらっているらしい。
俺と水野は、名主が間借りしているという妹夫婦の家を訪ねた。
妹夫婦の家は村の農民たちと似たような造りで、名主屋敷と比べると随分小ぢんまりとしていた。
そして、その妹夫婦の家。小さな板の間に、俺、水野、治右衛門によね夫婦とかなり狭苦しい。この状況は俺にも責任の一端があるので顔に出さず話を切り出す。
「治右衛門殿、田野は代官としてどうでしょうか」
「田野様ですか、とてもお役目熱心で素晴らしい代官様だと思います」
「……そうですか。」
俺は決してそうは思えないのだが、名主はそう思っていないようだ。
「某からもよろしいでしょうか。治右衛門、某は水野だ。何か村で困っていることはないか?」
「そうですな。この辺りは有田川の側で平地のため水田に向く土地が多く比較的裕福な村です。しかし
治右衛門の説明が気になり、俺は口をはさんだ。
「田野が来てからではなく宮川郡代になってからという事でしょうか?」
「田野様は以前もあのような性質でしたが、あそこまで気が大きくはありませんでした。たしか宮川様が視察にお見えになられて少ししてから段々と気が大きくなり、色々と求めることが増えてきたように思えます。」
現状の原因の大元は宮川殿にあるのか。現地の代官が好き勝手やるのは、本人が目を盗んで行っている場合と上司の意向が絡んでくる場合があるようだ。
宮川殿も上の意向が……というような事を言っていたので、問題は、もっと根深いのかもしれない。こうなってしまっては俺にはどうしたらよいかわからない。荒川殿に相談するか。それとも父上に相談すべきか。
「治右衛門、手間をかけた。また何かあれば話を聞かせてくれ」
思案に耽っていると、水野がほったらかしにしていた治右衛門へ感謝の意を伝えてくれていた。
「治右衛門殿、助かりました」
「いえ、お役に立てて光栄にございます」
「あの……」
今まで静かにしていたよねがおもむろに口を開いた。
治右衛門は、何故か苦々しそうな顔をしているが話を止める気はないようだ。
「……吾作をお救い頂けないでしょうか?」
「? 吾作殿とはそちらにおられる吾作殿ですか? 特に捕らわれているというわけでも無し、いったいどういう事でしょう?」
「それは私の方から説明いたしまする」
よねが目上の者と話しなれていないことを見かねて、黙認しようとしていた治右衛門が口をはさんだ。治右衛門はこう続けた。
「昼間、田野様がおっしゃっていた挨拶をしない者というのが吾作なのです。とはいえ、挨拶の件は全くの濡れ衣でして……実のところ、密かに田野様は妹のよねを気に入っていたようで、ある晩に呼びつけたのです。代官様に呼ばれた以上、出向かねばなりませんから、素直に屋敷に参ったのですが、酌をさせられたり身体を触られたりと酷い目にあったそうでして。田野様はだいぶ酒を過ごされていたようで、振り切るように逃げても追われることもなく、その日は事なきを得ました。しかし、翌日以降、田野様はバツが悪かったのか、夫である吾作に事あるごとに突っかかるようになりまして。それからいつの間にやら吾作は挨拶もしない無礼な奴という噂が流れるようになりました」
「それが事実なら何という事。若、いかがいたしますか?」
「出来る事と言えば、噂を否定するくらいとしか言えぬが」
「いえ、噂に関しては問題ありませぬ。村人は吾作の人柄を存じておりますし、ちゃんと挨拶もしている様子を見ております。なのでそのような噂は信じる者はおりませぬが、田野様の手前、無かったことにできぬという事でして。本題はここからです。村請した村全体の税を村人に割り振るのですが、そこに田野様が無礼な吾作には負担を大きくし、心を改めさせよと口出ししてくるのです」
「では、その口出しを止めさせれば良いのか?」
「それも違いまする。田野様は負担を増やしたと伝えればご満足されますので、村人たちが本来自らが追うべき負担分を密かに集め、吾作には届けているので実情は何とかなっています。よねは、夫の吾作の不名誉というよりは、村人に手間と迷惑をかけてしまっていることに心を痛めておりまして。そこで、今の状態を改善するためにも代官様の交代を城の上の方へお願いできないかと考えている次第で」
「それはなかなか難しいですね。私も何とかせねばとは思いますが、私自身、郡代とはいえ見習いになったばかりですし」
「しかし郡代様は御殿様のお身内であるとか。厚かましいお願いですが何とかならぬのでしょうか? 田野様は単純なので今の所は何とかなっていますが、いつばれるやもしれませぬ」
「うーむ……」
「治右衛門、その件は預からせてもらおう。若は、あくまでも見習として視察に来たにすぎんのだ」
「差し出がましいことを口にしてしまいました。申し訳ございませぬ」
「よいのだ。悪いのは田野なのだから」
借り受けた屋敷に戻った。当初の何とかしてやろうという興奮はどこかに行ってしまった。
火の気のない部屋が冷え冷えしているように感じる。それとも無力な自分に気分が落ち込んでいる自らの心情のせいなのだろうか。
とはいえ、聞いてしまった以上は何とかしたい。水野と話し合うことにしよう。
「さてどうしたものか。誰かに相談するにしても俺には親身に聞いてくれそうな人は少ない」
「思い浮かぶのは、恩師の黒川殿、指導役の宮川殿、郡代古参の藤堂殿、あとはご家老の加納様と殿でございますか」
「ふむ、宮川殿は味方にはなってくれぬだろう。そもそも田野を助長させたのは宮川殿のように思える。黒川殿は、あくまで同位の代官職であるから難しかろう。養父上も迷惑ばかりかけていたし味方になってくれるかどうか。父上にもこのような事を申し出るわけにもいかぬ」
水野は何か言いたげであったが、口を挟まなかった。
「やはり、順当にいって藤堂殿に相談するのが良いな。それにしても治右衛門はなぜ最初から話してくれなかったのだろうか」
「おそらく、若様の立場や関係性がわからなかったことが一番の理由かと」
「そうか。俺が田野寄りの考えを持っていたら、問題視しているのも田野に伝わるし大事になってしまうな。信用されていなかったという事か」
「そもそも代官はそんなものと思われているのでしょう。理由として考えられる二つ目は治右衛門は名主ということです。村の代表がそのような事を言えば村全体に咎を受ける恐れもありました」
「だからよねが発言したとき苦々しい顔をしていたのだな」
「ええ、しかし止める気はなかったようなので治右衛門も何とかしたいと思っていたのでしょう。妹夫婦のことでしたから」
「人に意見を聞くというのは難しいな。立場や状況、場所や時期によっては話してくれず、嘘とまでは言えぬとも、思っている逆のことを言うこともある」
「こればかりは致し方ないのかもしれませぬ」
「小さな村でこれだ。場内では多くの人が集まり、思惑や利益が絡らむ。さすればさらに本音を聞き出すのは難しくなるだろう。本音や情報が集められず父上はどのように
その後、話題も弾まぬまま床についた。明日以降は移動し残り二つの村を回らねばならぬ。また歩く時間が多くなる。答えの出ぬ考えはやめて今はゆっくり休もう。
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