〈十二〉
突如として、一陣の風が吹いた。
初夏の清涼な夜風が、鞄に詰められた呪符を紙吹雪のように吹き散らし、神秘を司る少女の周りを花弁がひらひらと舞い散るように踊らせる。
淡い月の輝きが
「まずは動きを止める」
暈音は両手で素早く印を結んだ。それに呼応して、彼女の霊気から編み出された〝
法力とは、
それは時として、無から炎を生み、大気から水を湧かせ、無機物に命すら与える。神仏に等しい奇蹟を人の身ながら体現させる〝気〟の終着点。それが法力である。
退魔師の絶対的な武器である陰陽術の総称〝術符〟を銃器に見立てるなら、法力は弾薬の役割を担う。研ぎ澄まされた法力は、幼稚なパチンコ玉から殺傷に長けたライフルの弾頭にまで化ける。その優劣を決めるのは他でもない、法力を発生させた術者の才覚に依存する。
「
屍を拾う片羽の鴉
死を悟り、鐘を壊す、泥の聖者よ
土は土に 塵は塵に
天より深き地の底で 歩みを止めよ」
「
術符の発動が少女の一声で開始される。
だが、長く
妖魔は前脚として機能していた両の腕を大きく振り上げ、獲物へ飛びかかる攻撃的な動作に移行する。次の瞬間には、残虐的な血飛沫と肉塊が街路に転がることとなる。
「――――!?」
だが、その直前だった。妖魔の足下に天変地異に属する驚愕の現象が引き起こされた。幅六十センチは超える岩石の柱が渇いたアスファルトを貫き、土の中から急激な発芽の如く生えてきたのだ。
我が物顔で直立する石柱に行手を阻まれた妖魔は難なく真横へ避けようと試みるも、今度は左右に同様の石柱が嘲笑うかのように出現する。右往左往している暇も与えず、連続して六本もの石柱が妖魔を囲うように円陣状になって、狭い街路の真ん中で等間隔に並び建った。
かの有名な
「
六本の石柱は退魔の封陣を完成させるため、互いを結ぶように横から横へと更なる石柱を次々に伸ばし、堅牢な閉錠が繰り返される。僅か三秒ばかりで完成したそれは、さながら巨石の鳥籠のようであった。
宙に舞う幾枚の呪符が重なって連なり、捻れては繋がっていく。やがて、それは神道や呪術に通ずる一本の
封陣の土行術符【
一介の退魔師であれば、誰しもが扱える汎式陰陽五行術符に類するものだが、個人で発動することを推奨していない極めて高等な難易度を誇る術符である。
本来ならば、術符を発動させて完成に至るまでの時間はここまで早くはない。それこそ五分も十分も手間取ることになる。すべては大日女暈音の持つ圧倒的な才能が為せる技だった。
檻の中に閉じ込められた憐れな獅子に成り下がった妖魔は、巨石の鳥籠を破壊せんと強靭な怪腕を振るい、激しく殴打する。その威力はたった一撃であれ、人間を容易く
だが、青白い火花の燐光が衝撃を伴って閃き、妖魔の拳は虚空に弾かれてしまう。眼には捉えられない不可視の障壁が存在しているのだ。いよいよ妖魔は打つ手を
「すっげえ」
信乃は思わず、他人事のような感嘆の息を漏らした。
身も凍るほどの脅威性を感じずにはいられなかった妖魔が、十六歳の少女を相手に手も足も出ず、今や呆気なく鳥籠の中に閉じ込められている。それが現実の光景であるはずなのに、今もなお
信乃にはあの妖魔こそが生物の頂点に坐す絶対的な捕食者に見えた。これに勝る生物はいない。確信さえした。それがどうだ。いるではないか。更にその上が。
退魔師は人に
その言葉の真意に触れたような気がした。信乃の瞳に映ずる少女の背中は、
怖い。
よもや、そのような感情を幼馴染へ向ける日が来るとは思わなかった。強者への畏怖は当然として芽生えるもの。強者と弱者の差は広ければ広いほど、心に滲む恐怖の色はより濃く鮮明に変色する。
果たして、平凡な高校生と天才と称される退魔師の差は如何程のものか。
ごくりと喉を鳴らし、
だが、その思考こそが甘ったるいものなのだ。
「急急如律令」
小さく唱えられた陰陽術の基礎たる
「【
暈音の指に挟まれた術符が起動する。
金行術符【
巨石の鳥籠の頭上にて、二本の釘が音も立てずに空間を歪ませて出現する。人間など簡単に串刺しにできるであろう鋼鉄の太針は、断頭台に設置された刃のように鋭利な先端を檻中の妖魔へ向けていた。
まさか──と、信乃が目を見張る。敵はもう無力化したのではないのか。
暈音が指を軽く振るう。それが合図だった。空中に留まる二本の鉄釘が忘却された重力に従って、自然落下を開始する。吸い込まれるように鳥籠の隙間を通り、妖魔の手の甲へぐちゅりと突き刺さった。
「ヒいィぎィヤあァアあアアああああああッ!?」
飛び散る血液に悲惨な叫喚が混ざり合う。
信乃は咄嗟に目を伏せたが、遅かった。激痛に喘ぎ、のたうち回る妖魔の血飛沫は彼の足元にまで及んだ。
血だ。
剥製を生成するが如く妖魔の両手を貫穿している鉄釘は、その全貌の殆どを地面に埋めている。恐らくはアスファルトの深くまで突き刺さっているのだろう。無理にでも引き抜こうとすれば、手の肉ごと裂き兼ねない。
真っ赤な
やりすぎではないか。信乃の懐疑な視線を振り払うように、暈音は妖魔へと一歩近づいた。
「術符で封じたとはいえ、万全じゃないからね。その腕も特符の効果で伸びるんでしょ? 厄介そうなので、言葉の通り、釘を刺しておきました。
特符は強力であれど、初見で
「いィぎゅウぐぅゥウうウッ!?」
「そうそう。一つ質問に答えてもらっていい? なんで私を狙ったの? 霊気垂れ流しにしてたから、退魔師だってすぐわかるでしょうに」
暈音の淡々と行われる尋問に対して、妖魔は何も答えない。ただ、手に
妖魔の知能は一定ではない。言語を習得している妖魔も少なくはないが、意思疎通が不可能な域に達する
知能を有するなら、何かしら情報が得られるかもしれない。
問題はどうやって引き出すかだ。暈音の蔑むような視線が妖魔の
「じゃあ、質問を変えるね。誰に言われて狙ったの? あなたをここに仕向けた妖魔がいたでしょう? 答えてくれたら、その術符解いてあげてもいいよ」
痛いの嫌だもんね──と、暈音は上っ面だけの冷めた笑みを浮かべた。彼女の手には、新たな呪符が隠すように握られている。妖魔の息の根を確実に絶つことのできる殺傷力の高い術符の用意である。
無論のことではあるが、暈音にこの妖魔を生かす気など微塵もなかった。これだけの妖気を放っているのだ。既に何人もの犠牲者が出ているに違いない。生かす理由はないが、殺す道理が明確にある。
背後から「えっ、逃がしてやんの!? や、やさしい……!」と、言葉の意味をそのまま受け取っている幼馴染がいるので、やりづらさは少しあるが。
「けっこう辛いでしょそれ。刺さったままじゃ、甦生術符も使えないよ?」
「アぁあ……ううッ……バあァア……けェえ……ッ」
悲痛な嗚咽が混じる不快な啼き声には、何かを伝えんとする意図が感じられた。
己が命を顧みず、同胞のために死すら厭わず、口を固く閉ざすほどの厚い義理は、この妖魔の胸中には宿っていないのだろう。所詮はそういう存在なのだ。妖魔に仲間意識など持ち合わせるはずもない。己の快楽のみを至上とし、その為ならば躊躇なく他者を踏み躙る。
妖魔の本質は〝個〟にある。社会組織を形成する人間との最たる違いはこれだろう。
個であるが故に、多には及ばない。
千年以上もの間、あらゆる生命に勝る凶暴性と
逆に言えば、個々が秀でた妖魔を統括し得る絶対的な支配者が現れ、妖魔による組織的な集団を形成してしまう事態が起これば、人類にとってそれは絶滅の危機を意味することになる。誇張ではない。実際、この国の歴史において、二度に
それが百鬼夜行。
群となった魑魅魍魎による
百鬼夜行を食い止める。
それは退魔師にとって、存在意義に近いものだった。
「バぁア……ばッ……けケケぇえ……!」
「化け?」
暈音は耳を傾ける。妖魔の起こす行動は理解の及ばぬ無意味で奇怪なものが多い。しかし、僅かでも妖魔が徒党を組む可能性があるのならば、神経を尖らせて、その芽は早々に摘まねばならない。
すべては社会の安寧のため。
人が人して生きられる世界のために。
「ァァあだダダあああアアア……ッ!?」
突如、狂気に触れた呻き声が何かに怯えるように一段と乱れる。
その時だった。肌を撫ぜるように微かながらも絶えず流れていた夜風が、息を殺したように
夜夏の虫の音色さえ不可解にも消え失せ、不気味な寒気がゾワリと背中を
「よオ。あんちゃん」
その場に居る誰のものでもない声は、信乃の耳に吹きかけるように囁かれた。
「
咄嗟に振り向くと、そこには誰もいない。
「カカッ」
からん、と風のように下駄が鳴る。
信乃の方向へと振り返っていた暈音は下駄が地を打つ音を過敏に聞き取り、額に冷や汗を滲ませながら、妖魔を封じる巨石の鳥籠へ視線を走らせた。
男がいた。
堂々と、泰然自若に。
まるで、この世すべてを嘲るような薄気味悪い笑みを浮かべながら。
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