〈十一〉

 に前振りはなかった。


 住宅地の狭い街路は一方通行である。自動車が二台通れば、それだけで詰まってしまうような狭溢の道だ。

 古びた電信柱に備えられた防犯灯の薄い光と仄かな月光だけが、褪せた土瀝青をぼんやりと照らしていた。

 ひっそりと建ち並ぶ住宅はどれもここ十年変わらず同じ顔触れだ。玄関に引き戸を採用している旧世代の家屋ばかりが身を寄せ合っており、薄汚れた石塀や生垣がずっと街路の奥まで続いている。

 夕闇の残滓が混ざった色彩の夜空は広い。遮るものは細い電線だけ。月は大きく無辜の地上を黙して見下ろしている。


 視界は良かった。人気ひとけは無かった。車も動いていなかった。

 街路ここには信乃と暈音の二人だけが歩行者として存在していた。その他にはいない。足音は確かめるべくもなく二人分だっただろう。家宅から人が出入りする物音もしていなかった。不自然とも取れる異様な静けさがそこにはあったはずだ。


 なのに、その声は前方から突然聞こえてきた。


 同時に、片頬を掠める暴力的な質量を帯びた突風に殴られて、信乃はほんの一瞬だけ顔を背けるように目を閉じてしまった。

 猛スピードのトラックが真横を走り去っていくような震慄の感覚と悲鳴の一つも上げられない突発性に煽られて、信乃は思考の整理もままならぬまま目を開けた。


 そして、言葉の限りを奪われた。


 すぐ隣りに、疣贅いぼだらけの巨大なくびがあったからだ。


「────……は?」


 それは丸太のように太く、腐蝕した苔のような穢らわしい色をして、信乃のすぐ横でゴムのように

 これが何かは分からない。理解に努める時間も余裕もない。

 戦々恐々とした身体は竦み上がり、悪寒と冷や汗が絶え間なく神経を逆撫でする。抱きかかえていた買い物袋が両腕から滑り落ち、地面に落下すると吐瀉するように中身を散乱させた。新鮮な赤みを帯びたトマトがその頸の仰々しい影へと転がり込み、コツンと何かに当たって、動きを止めた。


 嗅覚を捩じ切るような耐え難い汚臭を漂わせる巨大な頸の下へと、信乃は目線をぎこちなく潜り込ませる。横に倒れたキャリーバッグと変装用の伊達眼鏡が落ちていた。見間違いようもない。暈音のものだ。だが、その所有者が居ない。つい先程まで、信乃の隣で歩いていた少女の姿は何処にも見当たらない。何度そこを確認しようとも、不気味な頸だけが生々しく居座っている。

 息が詰まる。巨大な飴玉を飲み込んでいるようだ。手足が震える。血流が止まってしまったようだ。舌が言葉を探す。何を叫べばいいのか、まだわかっていないのに。


「あっ……う、か……かか、暈……」


 なにもわからない。

 ただ一つ、わかることがあるとすれば、それは信乃が認めたくないものだ。


 この頸にはきっと体がある。そして顔もあるのだろう。恐らく、暈音が直前に足を止めていた遥か前方から伸びてきたであろうこの頸は間違いなく大日女暈音を狙っていたのだ。

 狙って、喰ったのだ。

 喰ったに違いない。

 じゃなきゃ頸など伸ばさない。


 だから、もう、幼馴染は──。


「あァアぃれぇエ?」


 人の言語であるにも拘らず、まるで異なる発声めいた波長の呻きは、巨大な頸の奥――鳥類と思しきくちばしのように長く鋭角な顎から、血腥ちなまぐさい放埓な息吹と共に吐き出されていた。

 嘴の横からぎょろぎょろと蠢く魚眼の瑞々しい網膜が無力に立ち尽くす信乃を捉える。丸吞みにするような視線。人の頭ほどある大きなまなこにはおよそ正気と呼ばれるものは残されておらず、飢餓の獣が無防備な獲物を見つけたかのようなおぞましい狂喜だけが瞳孔に浮かんでいた。


 凍てつく心臓が告げる。これは勝てない。狼と対峙する兎。弱肉強食の摂理における貪られるだけの弱者へと信乃は成り下がった。目前に居るバケモノは圧倒的な強者に位置する存在だ。勝てるはずがない。間違いなく喰われる。

 動揺で平衡感覚を失ったまま無意識に後退ると、足首を挫いてしまい、信乃はその場で崩れるように尻餅をついた。浅い呼吸が気を遠くさせる。指先にすら力が入らない。


 どうすればいい。

 どうしたらいい。


 混乱する思考が巡り巡って、微かな正気を踏み潰し、あまりにも薄っぺらい、可能性とすら言えない陳腐な希望を弾き出す。


(コイツ、ひと口で、いったよな……? 噛んじゃいなかったよな? 咀嚼なんざしてなかったよな?

  だったらよ。だったらよお……! まだ腹ン中にいんじゃねえのかあ……?)


 彼の愚かしい思案に、正論を返す者がその場には当然としていなかったことが災いした。

 信乃は己が捻り出した何の確証もない推測を鵜呑みにしてしまった。


(いるよな……いるよなあ……っ! いるしかねえもんなあああ……!)


 そう決めつけた途端に、信乃の中から恐怖心と呼ばれる感情の一切が忽然と消えた。震えていたはずの手にはいつの間にか拳が握られている。足腰の骨が生まれ変わったように身体の自由が利く。

 腹の底から闘志が迫り上がってくるようだ。ぐつぐつと煮え滾るマグマのような怒気が全身の神経を鋼鉄の針金のように鍛え上げる。

 起き上がった信乃は、勝ち目がないと悟ったばかりの少年とは思えぬほどに殺気に充ち満ちた眼光で、異形の怪物を果敢に睨み返す。

 無謀は承知。

 されど、退けぬ理由がある。


「てめえよおおお……! よくもやってくれやがったなあああッ!」


 信乃の殺気が尖る。

 しかし、当の怪物は命知らずの少年など最初から眼中になかったのか、伸びた頸を急激に縮めて、三十メートルほど離れた躯体へと一瞬の内に戻っていった。

 冥漠たる闇夜の果てで薄い電灯の火に晒されたその全貌はおよそ五メートルに及ぶ。やはり、それは異形と形容する他ない。魚類の双眸と鳥類のあぎと。大猿のような四肢は腕だけが異常な発達を遂げており、人間すら握り潰し兼ねない巨大なてのひらの五指をアスファルトに漫然と伸ばしている。その姿は何処か蟇蛙を彷彿とさせる。

 地球上に実存する生物の特徴を有しながらも、その枠組みから外れたいびつキメラめいた魔の怪物。


 これが、この理解を許さない異形こそが、人を害する〝〟なのだ。


 信乃は自らの意識に定着しかけていた妖魔のイメージを塗り替えざるを得なかった。彼の知り合った二匹の妖魔が如何に友好的且つ脆弱な存在であったのか。痛烈な寒気が止まらない肌身で実感する。

 これが本物の妖魔なのだ。

 かつて人間を欲望のままに鏖殺し、天仰ぐ大地の主として君臨せしめようとした異形の怪物たち〝妖魔〟──それが信乃の目前にて、傲然と顕現している。


 大日女暈音という少女を、その腹に収めて……。


「アあァれレぇェ? 食べテえなァいイぃ? ナあァんンデでぇエ?」


 一言では名状し難い異形は頸を左右に揺らし、月に吼えるように喚き散らす。


「食ゥうっタよォおネえェ? 食べマまアぁしタたヨォおオおお? デもォ……お腹スすすイぃてテぇエるルノオおオオおおおオオオッ!!」


 猿叫の金切り声を散らし、地団駄を踏むように舗装された街路に掌を何度も叩きつける。強固なアスファルトを容易く砕き、軽く陥没させる途方もない暴力性に目をつぶれば、さながら駄々を捏ねる子供の様相であった。

 理解及ばぬ妖魔の行動に唖然としてしまう。だが、けたたましい騒音を聞き、慌ただしく玄関を開けようとする物音を耳にしてしまった信乃はふと我に返った。

 ここは住宅街である。それも日の落ちた時間帯。大半の住民は帰宅している。


「やッべ、出てくんなッ! あぶねえぞおおおお!」


 血相を変えて叫んだ信乃の声は無情にも届かず、ガチャンと戸が開く音がして――。


「嫌いなんだよね」


 青白い光の霧雨がどこからともなく街路に降り注いだ。


「場所も空気も読まずに襲ってくる、低俗な妖魔は」


 凛とした流麗の声に導かれ、咄嗟に信乃は暗澹たる夜空へ顔を上げた。そして、息を呑んで瞠目した。まず、目に飛び込んできた光景は、金色の月や砂のように散らばる星々などではなく、青色の光芒で描かれた円陣サークルであった。魔法陣と表現すべきそれは複雑な幾何学模様をかたどり、中央には太極図を据えて、神秘の空に絢爛と拡がっていた。

 目を凝らせば、輝く円陣の四方に呪符らしき札が等間隔で空間に張り付けられているのが見える。呪符には真言マントラと呼ばれる複雑な文字が綴られており、それぞれが人智を超越した力を放ち、空中に留まっている。

 もはや、推測の必要もないだろう。信乃の浅い記憶が正しければ、これはどう見ても現代における〝〟の為せる奇蹟きせきの一つに違いない。


「汎式結界術符【空隠うろかくし

 効果は、結界内から外部に与える情報の遮断、または隠蔽」


 騒音の原因を探ろうと、怪訝な顔をしながら、外に出てきた住人たちが、年季ある石塀からひょこっと顔を覗かせる。幅の短い道路では、現界を果たした巨大な妖魔を、視界に捉える時間は然程かからない。しかし、彼らはざっと辺りを見渡すと、と納得して、そのまま踵を返し、玄関へ戻っていってしまった。

 この違和感極まりない現象に、信乃は驚きを隠せなかった。彼らの遥か頭上には、不可思議な円陣サークルが浮かび、少し先には、十七尺に達する異形の怪物が佇んでいるのだ。気付かないはずがない。加えて、不自然に身構えていた信乃と偶然目と目を合わせてしまったはずの老人は、それすら関心を寄せず、かのような素振りで帰っていく。

 いや、実際にいなかったのだろう。彼らの目には何も映ってはいない。一本の街路を隔てて、家宅が並ぶ普遍的な風景は変わっていない。そこには誰も存在していないし、不気味な妖魔の影すら抹消されている。

 これが結界。内側と外側で何らかの決定的な差違を設け、二つの世界を分かつ境界線を発現させる陰陽術の一種。今現在行使されている【空隠うろかくし】と呼称される結界術は、指定された領域の外に在る者に対して、視覚や聴覚などに通ずる五感の認識を阻害し、結界の内部を外部から隠匿する効果がある。

 だから、結界の内側に在る信乃は外の住人に認識されず、またその逆は無いが故に、一方的な知覚を可能としているのだ。


「何が……起こってんだ……?」


 上空に刻まれた陰陽の円陣サークルから半透明の薄いベールのようなものが地上へ降りているのが見えた。色彩を欠いた薄い黒色でさえなければ、さながらオーロラのようだ。これが結界の外と内を隔つ境界線の役割を担っているのだろう。


「おいおい。まさかマジックミラー的なヤツか。エロビデオでしか見たことねえぞ」

「そこ。台無しになること言わない」


 信乃の品のない軽口を諫める声の方向は、彼の頭上からだった。


「術符発動までの時間が長いくせに、効果は短時間なのがネックだけど、急場凌ぎにはなるから普段から持ち歩いてるの。身代わりの術符と一緒にね」


 光輝する太極図と黄金の月が交わる古びた電柱の頂にて悠然と立つ人影があった。季節外れの細雪を連想させる白髪と鮮やかな琥珀の瞳。息を吞むほどの美貌を携えた麗人は、指で挟んだ一枚の呪符をひらひらと揺らして、月影の下で小さく微笑んだ。

 見間違いようがない。白き妖精の如き幻惑的な美しさと唯一無二の存在感を兼ねた少女は、世界は広しと言えど一人しかいないだろう。


「それで、奇襲には失敗したみたいだけど、まだ何かある? これからハンバーグ作らなきゃいけないから早くしてね」


 大日女おおひめ暈音かさねは侮蔑を含んだ挑発の眼差しを異形の妖魔へ送った。電柱から怪物を見下ろす氷柱つららのように冷たくも鋭い少女の眼光は、信乃ですら知り得ない幼馴染の顔であった。


「いィイぃ……タたァああア……!!」


 歓喜に喉を震う妖魔。暈音を一撃で仕留め損なったことを微塵も悔いていない。彼女に勝つ絶対的な自信があるのだろう。今はただ狩猟のよろこびを嚙み締めている。

 暈音はその様子を見るや否や「時間の無駄かも」と溜息をついて、八メートルはあるだろう電柱の頂から躊躇なく飛び降りた。

 平然とした表情を崩さず、受け身も取らず、片膝すら地に屈せず、と綿が舞うようにして、信乃の目の前へ降り立つ。

 重力を軽んじる幼馴染の不可解な落下に対して、小さな悲鳴を漏らした信乃に、暈音は悪戯な笑みを返した。


「びっくりした?」

「び、びっくりって……つうか、暈音ッ! お前! お前よお! 生きてんならよおお! もっと早くよおお! 生きてますって言いやがれよおおおっ!!」


 息が切れるのも忘れて、信乃はまくしたてるように暈音へと詰め寄った。安堵と驚愕。そして、僅かばかりの怒気が入り乱れて、頭がすっかり混乱している。


「もうちょっと遅かったら、お前、俺、玉砕覚悟であの野郎に上等ブチかますトコだったじゃ――……っ!」


 緊張の箍が外れたように喋り続ける信乃の口元へ、暈音は人差し指を突き出した。

 唇が指先に触れるか否かの距離感に、信乃は口を閉じ、顎を引き、息を止めて黙るしかない。


「そこから動いちゃダメだよ。私の後ろにいて」


 彼女のいつになく真剣な声に、平静を取り戻した信乃は溜飲を下げて、一つだけ頷きを返す。

 暈音が背中を向けた。正しくは、凶悪な妖魔と対峙するために、結界に覆われた街路の真ん中で凛然と身構えた。

 小さな背中であった。齢十六の少女にしても小柄な方だろう。抱き締めるだけで折れてしまいそうな腰と非力を物語る細い腕。現実的に鑑みれば、五メートルを有する巨体の妖魔に匹敵する力があの小さな身体に隠されているとは到底思えない。


 思えるはずがないのに。


 こんなにも頼もしく感じてしまう。


「案外強そうだね。フェーズ3ぐらいかな。けっこう人食べてるよね? なんか臭いし」

「チちぃィイかラらがアあ……ホちいイぃぃいのオおおオおお……」

「クビが伸びたのは特符とっぷの効果? 法力もそこまで消費してないし、即効系の妖術?」

「ダあアカアらあ……食べマすスうう……ワたシタちいのおお……エぇえさァああああああアアアアァァァッ!!」


 重厚な筋肉に覆われた巨躯を引き摺っているとは考えられないほどの爆発的な脚力をもって、暈音へと襲いかかる妖魔の動きに迷いはなかった。一直線。最短距離を転瞬の間に走り抜けんと手足を鞭のように振るわせる。


「どのみち、退魔師一人ではらっていい妖魔じゃないんだけど」


 暈音は焦燥とは無縁の沈着とした様相を傾けることなく、足下に転がるキャリーバッグをブーツの爪先で軽く小突いた。ロックが開錠され、内部に搭載されたスプリングが反応し、蓋が勢いよく開放される。

 中身は紙だらけだった。

 一面の紙である。

 それがすべて陰陽術における呪符と呼ばれるたぐいの品であることを悟る時間はあまり有さない。複雑な紋様を描く真言マントラが単なる紙片の束ではないことを容易に教えてくれる。


「私、天才だから祓ってあげる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る