〈十三〉

 異形の妖魔を内部に封印した【屍址棺龐ししかんほう】の石柱に、背をもたれて腕を組む男は飄々とした若気にやけ面で、暈音の敵意と疑念にちた眼光を何でもないように迎え撃つ。

 時代錯誤もはなはだしい下駄と涼しげな藍色の羽織。腰には飾り気のない一本の段平だんびらを帯刀し、片手で煙管を弄んでいる。その如何にもあやしい風貌は現代人のそれではない。


「誰? 人には見えないけど」

「人には見えねェ? おいおい。どっからどオ見ても、ワシ人間じゃろうが。節穴かっての。ひでぇやい」

「だったら、さっきからわざとしてるその妖気を、きちんと隠してから言ってほしいな」

「カカカッ。ンだよ、しっかと視えてんな。やるじゃん」

「どうも」


 抑揚のない返事を聞いて、快活に哄笑した男は納刀された白鞘を手にすると、石柱をバシバシと軽く叩いた。


「でもなァ、嬢ちゃんや。この程度の術符じゃダメだ。ちょいと強めの妖魔が相手じゃアな、簡単に食い破られちまうぜ」


 男が白鞘の柄に手をかけた。

 暈音は即座に呪符を構える。


「こんなふうにな」


 暈音の反応を遥かに凌駕する音を置き去りにしたかのような圧倒的な速力で、それは白鞘から抜刀された。

 一太刀ひとたち

 夜のほのかな闇を斬り裂くように、鋭い銀閃は滑るような刀痕を虚空に刻み込むと、ぶつんと辺りの街灯が一斉に消えて瞬きするように光を取り戻す。

 少し遅れて、鋭さを増した風が静寂を吹き流す。

 暈音の背後で小さく立ち竦むことしかできない信乃にまで、その風圧は伝わってきた。前髪がめくれるほどの威力に、信乃は果てしないほどの恐怖の片鱗を味わった。


 なんたるスピードか。まったく見えなかった。

 いつ抜刀したのか、いつ納刀したのか。


 男の白鞘には既に段平が収まっている。男が振るったであろう刃の全貌を目にすることすら、信乃には叶わなかった。抜刀から納刀に至るまでの一連の動作を目で追えなかった。よもや、剣を抜いていなかったのではないかと錯覚してしまう。とにかく、常人には理解できない速度に達していたことだけはわかる。


 いや、実は、本当に剣を抜いていなかっただけなのでは――。


 ピシッ──と、亀裂が石柱を駆ける。

 小さな亀裂だった。しかし、それは次第に大きくなり、何本にも増殖し、ついには巨石の重みに耐えきれず、けたたましい音と共に崩れ落ち――いや、滑り落ちた。石柱の中腹には、一刀両断と形容するに相応しい水平の断面が出来上がっていた。凸凹のない美しい断面である。不可視の域に達した斬撃が、暈音の発動した術符【屍址棺龐ししかんほう】の封陣を見事に一閃で叩き斬ったのだ。

 一本の刀でこうも容易く巨大な石を断ち切ることなど、果たして有り得るのか。非現実的な光景を前にして困惑を窮する信乃の網膜へ、休む間もなく悲惨な景色が飛び込んでくる。


「ったく。手間のかかるヤツだのォ」


 細く絞られた男の目線は、崩壊された鳥籠の中で小さくなってうずくまる異形の妖魔の手に留まっていた。

 右手と左手にそれぞれ一本ずつ打ち込まれた金行術符【輟針てっしん】の効果は健在である。

 異形の妖魔を閉じ込める封陣の陰陽術を破壊したとはいえ、両手に鉄杭が突き刺さったままでは逃げおおせることはできない。杭を引き抜くか術符を無効化しなければ脱出は不可能だろう。その慢心があったからこそ、暈音は速攻で発動できる術符を用いることなく、男の様子を固唾を飲んで伺っていた。


「さあて、どうしてくれようか」


 ニヤリと悪意に染まる口角を吊り上げた男は、白鞘に再度そっと手を添えた。素人目にも捉えられる緩慢な動作は遅いというより、余裕の表れであることは本能的に理解できた。

 慣れているのだ、殺刃の扱いに。

 あれは数多くの命を斬り伏せてきたヤツの動きだ。

 きっと、なんの躊躇もなく、なんの理由もなく、飽きるほどに殺してきてたんだ。


 カチャッと、鯉口が小さく擦れる音が聞こえた。その瞬間に信乃の神経に感じたことのない冷たい戦慄が巡った。


 まさか。

 目を見張る暇も与えず、二振りの斬撃が軽々しく風切り音を交わす。


 ヒュン、ヒュン、と。


 やはり、それに躊躇はなく。

 赤く染まった刃だけが、何が起こったのかを叫ぶように伝えていた。


 唐突に雨が降り始めた。

 空は晴れているにもかかわらず。

 黄金の月を隠す灰の雲一つありはしないのに。

 赤い色をした雨は、妖魔の頭上から降り注いでいた。


「ぎぎッギぎギいィイやャあアァああアあアアアアぁアアアア――ッ!?」


 爆発するような死の悲鳴。

 男は表情を変えることなく、刀にこびりついた血を振り払い、街路に凄惨な血痕を走らせる。地鳴りのように響き渡る痛烈な叫声が、男の耳には何も届いていないのか、あまりに淡白とした動きで刀を白鞘に収めた。

 我を忘れて身を起こした異形の妖魔は、くちばしを裂けん勢いで限界まで開いてはよだれを散らして泣き叫ぶ。二つの巨大な魚眼はなみだの網膜で包まれ、次第に溢れ出してはボトボトと垂れ落ちる。巨躯を激しく揺らしているのは痛みから逃げるための無意識的なものだろう。


 だが、どうやってもその傷だけは癒えまい。

 致死量の血液を滝のように吐き出す妖魔の両手には、手首から先が奇麗に無くなっていた。

 返り血に染まる二つの鉄杭が、置き去りにされた妖魔の手を突き刺さしたまま、痛ましい沈黙を守っている。


 男が妖魔の手を斬り落とした。

 なんの迷いもなく。


 この状況をひとえに飲み込むには、人間の常識を捨て去る必要があった。信乃も暈音も唖然としてしまって、両手を喪った妖魔の苦悶をただ眺める他ない。


「うギゅウうううィ……! ぎィィいいイイイッ!!」

「なァに恨めしそうにワシを見てんだ、ボケが。死ぬかァここで? おもんねェからやめい。せめて、死ぬなら臓物の一つや二つ破裂させてから死ねい」


 妖魔の怨嗟を含む反抗的な視線を、男はそれ以上の威迫ですり潰した。妖魔の両手を斬り落としたことに罪悪の感情は芽生えていないのだろう。

 異形の妖魔を束縛から解放させるためとはいえ、手を斬り落とすという蛮行に走ることは正気の沙汰ではない。やはり、この男は間違いなく〝妖魔〟なのだ。


「さっさと幽世かくりよに帰って腕治せ。早よおせんと、足も斬り落とすぞ」


 冗談とは思えぬ男の脅しが効いたのか、妖魔はしぶしぶながらも後退すると、夜闇に拡がる街路の風景に溶けるかのように姿が徐々に消えていった。足の爪先や腕の断面から、深い濃霧に吞まれていくように、妖魔の存在そのものがこの世界から自然消失フェードアウトしていく。

 妖魔が現世うつしよから幽世かくりょに戻るのだ。


 まずい。祓わなければ――!


 我を取り戻した暈音は、急いで呪符に法力を流し込む。目標の座標を手早く計算して「救急如律令ッ!」と、陰陽術における端的な詠唱と共に術符を発動させる。

 行使する汎式陰陽五行術符の属性は火行。名は【玉哨ぎょくしょう】。火炎球ファイヤー・ボールと表現すべき遠距離型の火行符であった。時速九十キロで飛翔する火の玉は、直撃すればその場で爆散し、広範囲にダメージを負わせることができる。並の妖魔なら一撃で祓うことも可能とする殺傷力を持っている。


 敵はまだ現世こっちに在る。この術符なら間に合うはず。


 しかし、彼女の思惑を裏切るかのように、その術符は不発に終わった。


 下駄がからんと鳴ると共に、撤退する異形の妖魔を防衛するために何の恐れもなく躍り出てきた男は四本の指を揃えた手刀を振り上げた。

 たかが手刀と侮ったわけではない。しかし、物の見事に真っ二つに斬られた呪符を見て、暈音は言葉を失った。真言マントラに注がれていた法力は霧散し、火の粉の残滓が彼女の目の前で虚しく散っていく。


「――――ッ!」

「すまねェな、退魔師の嬢ちゃん。あんなんでも将来性があるもんでよォ。こんなところで、やらせるわけにはいかねぇのよ」


 色褪せぬ動揺を抱いたまま、新たな術符の準備のために呪符を構え、暈音は踵で地面を蹴って後退する。

 それとほぼ同時と言えるタイミングで、下駄の男は上体を下げつつ、必死で距離を空けようとする暈音を嘲るように難なく肉薄する。

 やはり、下駄の男の方が速い。

 間合いが急激に縮まる。男は納刀されたままの白鞘を振り上げ、暈音の手背を素早くはたいた。殴打の衝撃が指先まで伝わり、手にしていた呪符は弾かれ、暈音の表情が微かに歪む。


 しまった!? ──と、無意識の内に彼女の視線が地面にこぼれた呪符を追う。

 暈音の意識が一瞬れたことを下駄の男は見逃さない。白い歯を獣のように剥き出しにして笑いながら、白鞘で押し込むような刺突を繰り出した。

 反射的に両手を交差させて防守ガードはしたものの、人外の膂力から絞り出された衝撃ばかりは殺し切れず、体幹を損なった暈音は後方へと紙屑のように吹き飛ばされる。


 マズい。受け身が取れない。


 そのまま背後の石塀か電柱に脊髄を叩きつけられてしまうかと、死に近い覚悟を腹に決めた暈音の背中に、想像していた痛覚とは別の感触が伝わった。

 少し硬いが、頼りがいがあって、温かみもある、なんだか懐かしい気にさせられるようなものが、抱き締めているような──……。


「ぐえっ」


 踏み潰された蛙の断末魔のような情けない声がした。


「……信乃!?」


 生身のクッションとなった信乃が、暈音をかろうじてキャッチしていた。おかげで背中と腰を電信柱にぶつけてやられたが、頑丈が取り柄の彼にとって、大きな怪我には至らない。何よりも、反射的に全開にした両脚が衝撃を最小限にまで留めていた。

 暈音が後退した時点で、一先ず思考を捨て去り、一目散に走り出していたのが功を奏した。ここにくるだろうという予測は見事に当たった。

 内心で安堵する信乃へ、暈音が血相を変えて叫んだ。


「大丈夫っ!? ケガしてない!?」

「すげえ痛い。泣きそう」


 ずるずると力無く腰を下ろす信乃に抱擁されたままの暈音は、ふところから新たな呪符を取り出して、下駄の男の背後を見遣みやる。しかし、既にそこには異形の妖魔の姿も影もない。


 逃した。

 危険分子をみすみす野放しにしてしまった──!


 白鞘を肩に担ぎながら、下駄の男は呑気に二人を見下ろした。もはや、この男にとって、大日女暈音という少女は脅威ですら成り得ない。むしろ、今の興味はもう一人に向いている。


「へェ……。意外とやるじゃねェか、あンちゃん。よくもまア、あの位置から割り込めたもんじゃのお。先読みしてたのか。夜叉みてーな脳ミソしてんなァ」


 男は下顎を片手でさすりながら、一人でに満足そうに頷くと、ひらりときびすを返して二人の前から立ち去ろうとする。


「よォし。そんじゃア一回、ワシも幽世あっちに戻るかのォ……。撤退じゃあ。撤退。カッカッカッ」

「待ちなさい!」

「待たねェよ。まだ死にたかねェだろ、嬢ちゃん」


 圧倒的な力を携えた強者のみが許される尋常ならざる圧が男の眼光から放たれる。それは死神が振るう大鎌の如き冷ややかな鋭さを伴い、暈音の心臓に突き立てられていた。

 堪らず、息を呑む。

 かけ離れた実力の差。

 格の違いというものだろう。

 やがて、本能的な敗北感が胸に燻る闘志を支配し、暈音は苦渋を噛み締めながら呪符を下ろした。


 ダメだ。勝てない。少なくとも一人では無理だ。退魔師は基本集団チームで動くのがセオリーだ。単独で上級の妖魔と戦える例外的な存在は一つしかない。


さえいれば……!」


 幼馴染の口から絞り出された謎の言葉。信乃には当然として、その意味を理解できない。


「安心せぇい。次はワシも手ぇ出さねぇからよ。じゃねーと面白くならねェしなア。ああ。そうそう」


 男は背を向けたまま立ち止まって、何かを思い出したかのようにおもむろに振り向くと、暈音を両腕で抱いたままグロッキーな表情で固まる信乃の方を見遣った。


「あのセコはオメーさんの連れかァ? だったら、早よォあいつ殺しに来いよ。同族の血は、妖術の質を高めるつうからのォ。カッカッカッ、カカカカカッ!」


 不気味な哄笑を響せて、男はついに漆黒の闇へ溶け落ちて、影も残さず去っていた。

 そして、ようやく田舎町の街路に平穏が訪れる。だが、緊張の糸はしばらく解けなかった。全身の筋肉が強張って立てもしなければ、舌を動かそうにも適当な言葉すら選べない。意気消沈とした重圧だけが双肩にのしかかる。

 ぱちぱちと電柱に備わった街灯が弾け、虫と蛙の風流な歌声がしんしんと鳴り始めると、暈音は深い溜息と共に神妙な顔つきで語り始めた。


「あの妖魔、同族喰いする気だね」

「……同族喰い?」

「妖魔にも種族があってね。血を高めるために、同じ種族を喰らうの。妖魔に伝わる風習みたいなものかな」

「共食いってことか?」

「そうそう。でも、セコなんか食べてもあんまり意味ないと思うけど」

「セコってなんだ。弱そうな名前だけど」

「妖魔だよ。山に住む、小さい、河童の妖魔」

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