〈六〉

 時が経過して放課後。

 クラブ活動が開始され、一生に一度の青春を謳歌する生徒たちを尻目に、帰宅部である朝倉信乃は颯爽と校門をくぐり、寄り道もせずに早足で帰宅した。

 学生鞄を玄関に放り、汗ばんだ学生服を脱ぎ捨てる。身軽な黒のジョガーパンツと半袖の白Tシャツといったラフな私服に着替えてから、半帽ヘルメットを回収すると、ふと思い出したかのように冷蔵庫の扉を開ける。

 中身は壊滅的である。薄い生ハムと残り僅かとなった卵。バターとマヨネーズ。頻繁に消費する牛乳だけが適度に補充されている。信乃の食生活が即席麺と食パンに依存していることを顕著に物語っているバリエーションであった。栄養バランスを鑑みない不健康な食事を諫める者は今この家にいない。必然的に冷蔵庫の中身は絞られていく。

 このていたらくを幼馴染に見せるのは抵抗がある。彼女なら嬉々として煽ってくるだろう。


『高校生にもなって、まだ子供みたいな生活してるの? 成長しようっていう気概が足りないよね』


 そのようなことを言われそうだ。

 ていうか、十中八九言われるだろう。

 昨晩に冷蔵庫へ放り込んだコンビニのビニール袋を手に掴んで、信乃は逃げるように玄関へと向かった。


 信乃が住まう一軒家の裏手には小さな車庫がある。

 そこには小汚い原付のバイクが一台だけ駐車されている。信乃の愛車だ。交通の便が極端に少ない地元では、こういう手軽に使える足が便利で、家から数キロ離れたバイト先までの交通手段として信乃はよく愛用している。

 父親に借金をしてまで納車した中古の原付はスピードこそ亀のようだが、乗り心地に関してはいたく気に入っていた。

 ヘルメットを被り、キーを差し込んでエンジンを始動させると錆びた排気音が唸る。そのままゆっくりと発進し、舗装された公道へとタイヤを転がした。


 大日女暈音と約束した夕刻の時間まで多少の余裕がある。

 彼女が最寄りの駅に到着するまでの時間を用いて、今朝の懸念を早急に潰しておくべきだと思い至った。あくまで確認するだけなのだから、それほど時間は取られない。最悪の場合が脳裏によぎるが──アイツらに限って、それは無えだろ──信乃は邪念を振り払うようにかぶりを振った。


 法定速度の三十キロを超えるか否かの危ういスピードを維持した原付バイクは人里離れた峠道を登っていく。時刻は午後の四時という日中であるにもかかわらず、舗装された坂道は止め処なく成長した雑木林に見下ろされるように囲まれ、仄暗ほのぐらい自然の闇を形成していた。

 前照灯へッドライトが燃えるような光でアスファルトの道を照らすが、無限の深淵へと無辜の少年をいざなうように、常闇は深みを増していく。信乃は気にせずアクセルを回した。


 神体山。

 朝倉信乃と大日女暈音の思い出が詰まった神聖なる霊峰が、ここであった。

 しばらく無心で車輪タイヤを転がしていると、北と東に分岐するためにてがわれたY字路に辿り着く。

 近辺には、一日一本という弱きなバス停の他に、蜘蛛の巣に絡まった虫の遺骸で埋め尽くされた公衆のトイレがある。信乃は緑色の雑草に隠された駐輪スペースに原付バイクを停めると、Y字路の真ん中を突っ切るように道無き道を進み始める。


 掻き分けた草木の先には、苔生こけむした石積みの階段があった。

 石と緑の直階段は山の上までずっと続いている。


 信乃は呼吸を整えて、合掌と一礼を済ませると、コンビニの袋を片手に駆け足で階段を上がり始めた。足腰に鞭を打つように一段、また一段と踏み上がる。

 段数をまともに数えたことはないが、体感では百は超えているであろう途方もない長さを有している。生半可な体力ではきびすを返して戻りたくなるような苦境である。


「クソが……まだ先かよ……ッ」


 まだ見えぬゴールを睨みつけて、呼吸を荒くしながら足を動かす。

 信乃はスタミナに自信がある。気力と根性も強い方だろう。運動に関しては、部活動に所属していないことを教員に本気で悔やまれるほど優れている。身体を酷使することを苦と思わないタイプの人間であった。

 そのような彼が急勾配の石階段を登るにつれ「キツい」と感じているのだから、誰も寄り付かなくなっていくのも当然と言えば当然である。


 この先にある神社が廃れた理由は、そこにあるのだろう。


「……ここに……作ったやつ……末代まで祟るぞゴラ……!」


 ついに、最後の石段を踏破した信乃は、両膝を押さえて、項垂れるような態勢で息切れを起こしていた。呼吸を整えようにも酸素が少ない。玉藻のような汗がぽつぽつと地面に落ちて弾ける。

 本来ならば、もう少し緩やかな歩幅で登るべき階段を、急ぎ足で駆け上がって来たせいで、体力は底をついていた。


 しかし、水分と塩分を引き換えに手に入れた時間は裏切らない。

 まだ太陽は青色の空にふんわりと浮かんでいる。


「これならよ、約束の、時間にもよお……間に合うだろ……約束すっぽかして、あいつの機嫌を損ねでもしたら、そっちの方が怖えや……へへ……」


 だから、あと少しだけ休ませて──。


 信乃は誰に向けてでもなく自分に言い訳をして、しばらく無言で休息を取り、ゆっくりと汗だらけの顔を上げた。


 風。

 ざわりと。


 まるで、彼がここに来ることを知っていたかのようにそれは悠然と佇んでいた。


 腐りかけた紅色の鳥居。


 門の先には、廃屋に等しい小さな神殿がぽつんと物悲しく建てられている。


 風。

 さらさらと。


 時代の流動から久しく取り残された神域の遺物が来るはずもない待ち人を永久とわに待つが如く、何の意味も与えられず、何の理由も得られぬまま、霊峰ここに孤独と坐していた。


「いつ見てもシケてんよなあ、ここはよお」


 信乃は一呼吸してから、腐食した鳥居をくぐり、本殿なのか拝殿なのかは定かではないが、やしろおぼしき建物へ堂々とした足で向かう。生い茂る深みのある雑草が行手を阻むが、意に介することなく神殿の入り口まで辿り着いた。

 両開きの扉には、所狭しと魔除の呪符が貼られている。複雑な記号や紋様が書かれている御札は色褪いろあせ、裂かれて破かれ、今や紙屑と同然の様相である。

 彼の記憶が正しければ、昔はもっと大量に貼られていたはずだ。それこそ怪談話に登場するような不気味さがあった。しかし、年月が経つにつれて自然と剥がれていったのだろう。

 最初から効力など無かったのだ。信乃はそれをよく知っている。


 崩れかけた扉を、慎重な手つきで片側だけ開き、邪悪めいた闇が広がる神殿の中を静かに覗き見る。

 かつては、神が坐す聖なる領域であった空間には、噎せ返るほどの塵埃が舞っていた。底が見えぬ本殿の床は、朽ちた木片と木屑が散らばり、目を凝らすと何匹もの黒い虫が忙しなく這っている。天井を支える柱は、腐り果てて「く」の字に曲がって折れてしまい、今にも屋根が落ちてきそうだった。

 幾重にも巧妙に張り巡らされた蜘蛛の糸が、来訪者のことごとくを無差別に拒んでいる。犯しがたい静謐が漂う屋内は、生者が踏み込んではいけない独特の冷たい空気に充ちている。

 ここは人が安易に立ち寄っていい場所ではない。完全なる廃神社の様相である。


 何を祀っていた神社か。


 それはわからない。推理の余地すら残されていない。

 社の内部は、全くと言っていいほどにそれらしい残骸が見当たらない。からの状態である。最初から何も無かったように、人々が参拝していたであろう輝かしい当時を想像できる物品はこぞって廃棄されたか、盗難によって紛失していた。

 ここにあるのは、腐敗した木屑と動物の乾いた排泄物ばかり。今や単なる廃屋と言っても差し支えない。寂れてしまった廃墟が物悲しく風化の刻を待っているだけに過ぎない。


 朽ちて消えゆくだけの廃神社──。


 果たして、本当にそうだろうか。神殿ここには、何も存在していないのだろうか。


 いや、断じて違う。


 


 ただ一つ、

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