〈七〉
なんだ、あれは……白い布……?
光から閉ざされた
四方に
誰も居るはずのない神殿の片隅で、薄汚れた
大きさは年端もいかぬ幼子の背丈程である。子供が幼稚な悪戯を講ずるために、山に不法投棄されたゴミの中から拾ってきたシーツカバーを頭から被っているだけ。そのように仮定すれば、幾分しっくりとくる恰好ではあった。
だが、その推測は即座に否定しなければならない。
まず、このような人の寄り付かない場所で子供が一人で遊んでいるとは考えにくい。ましてや、山の麓から近場の小学校や保育園などの児童施設までの距離を当てはめると、子供の足では到底辿り着けるような時間帯でないことが、現実的な結論として弾き出されてしまう。
まいったなあ──と、喉奥から
白い布は依然として沈黙したまま、神殿の隅でゆらゆらと揺れている。
夏風に煽られた
行きたくねーなあ……。
なんだか近寄るのも億劫になってしまい、引き攣った顔のまま立ち竦んでいると。
「どう……しよう……。どう、して……」
声帯を焼かれたような男性の細々とした嗄声が、白い布から聞こえ始めた。
「こんなはずじゃ……なかったのに……。どうして……どうして……」
しぶしぶではあるが、俺も腹を括ることにした。
警戒心をより一層強めて、
咄嗟に振り返るものの、そこにあるのは光を奪われた一面の闇だけだ。外の世界と隔離されてしまった事実だけが暗闇の中で確信となっていた。
「足りないの」
こんな中途半端な場所で愚図っていても仕方がないので、発声の方向へ足を進めることを選んだ。
「お皿が足りないの」
歩を進める度に、腐り果てた床材が悲鳴を上げる。いつ俺の足を地中に引き摺り込んでも
「一枚、二枚、三枚……」
かちゃかちゃと何処から取り出したのか食器を数え始めた白い敷布へと、物怖せず、されど慎重に、一歩ずつ確実に近づいていく。
「四枚、五枚」
廃墟の神社に淋しげに響き渡る。
ふと、垂木や軒桁の残骸らしき木材が散らばる床に、木彫の仏像が埋もれていることに気がついた。
湿気で腐った表面は蟲に喰い尽くされ、見るも無惨な御姿に変わり果ててしまっている。埃に覆われた慈愛の
なんだか首を絞められているような息苦しさを感じて、思わず立ち止まってしまった。そうしている合間にも、皿を数えてはひたすら積み上げていく気味の悪い音調は止まらない。
「六枚、七ま……」
ついに白い敷布の手が止まる。
束の間、静寂が神殿を呑み込んで、俺はハッとした。来るか?──と、遅れながらも身構える。
「…………あれ? あれれ? 七枚目は?」
しかし、予期していたはずの
「えっ、二枚もないの? 八枚目が無くて、こう、ガバッといってギャーッていく予定だったじゃない。
本当に無いの? ちょっと待って待って。もう一枚はどこいっちゃったの? い、いっかい落ち着いて、しっかり数え直しやしょうか」
俺は空気を読んで、しばらく様子を窺うことにした。
「そーれ、いーち、にー、さーん、しー……。
あっ! それそれ。よく見なされ。ほ〜ら、重なってんじゃア〜ん! 即・解・決ゥ〜!
んん? ナニナニ? この布見えにくい? 言い訳しなさんな! ないものねだっても仕方ないでしょお!?
まったくもお~! 誰に似ちゃってワガママに育っちゃったのよォ~!」
身も凍るような
うん。なにこれ。
「〜〜〜! 〜〜〜!」
引っ付いてしまった二枚の皿を強引に剥がそうとする白い布。しかし、あたふたしながら懸命に頑張っているものの、布の
「えぇ!? とれないの? そんなにガッチリはまってんの? うわッ、カピカピじゃないですか。誰ですかい、これで納豆ごはん食べたのはっ!? ……あっしでしたわ。
ちょっ、そんなに怒らないで! 反省してるから! めちゃくちゃ猛省してるからぁ!」
ぼかぽかと自分の頭を殴り始める敷布。
何となくというか、もうわかってはいるが、あの小さい布の中には二匹いるようだ。
「ああ、どうしやしょう!? もう
気のせいである。呆れているだけである。
「こうなりゃプランFでいきやすか。大丈夫。リスクは承知の上。それにあっしはアドリブに強いんです。できるできる。ユーキャンドゥーイット。当たって砕けろ。しない後悔よりして後悔。つまりはチャレンジ精神がビクトリーってワケよ。
ほら、いけいけ、GO! GO!」
声の指示に急かされた白い布が、決心も儘ならぬ慌てた様子で立ち上がり、なんともまあ危なっかしく、蛇行しながら俺に駆け寄ってきた。
恐らく、長時間正座していたのだろう。痺れた素足はドタドタと豪快な音を立て、恐怖心を煽るような空気を完膚なきまでに崩壊させる。もはや、怖さの欠片も残っちゃいない。
これから俺はコイツに襲われるんだろうな──って思うと、何だか被害者の俺まで恥ずかしなってくる始末である。襲われる身にもなってくれ。
とは、言ったものの。
余裕綽々と待ち構えていた俺であったが、誠に残念なことに、恐怖の演出はまだ終わっていなかったらしく。
「プランFはフリーダムのF! そして、フェイスのF! 愚かな人間よ、我が姿に
ビリビリと白い布の頭頂に当たる部位が、真っ二つに引き裂かれた。内側から無理に破ったのであろう凄惨な切り口から、ニョキッと生えるように現れたのは──そこそこ歳食った男性の頭だった。
おっさんだった。
誰がどう見てもおっさんだった。
見た目は四十歳を過ぎた脂っぽい中年の顔面である。しかも、無駄に顔が濃いし、なんか毛深い。青髭とケツ顎のインパクトがすごい。しかして、
一度目と目が合ってしまえば、そう易々と脳裏から離れないだろう濃厚な中年の顔面が、幼い矮躯の首の上に乗っかって、脇目も振らずにドタドタと走り寄ってくる。
ほぼ二頭身のおっさんが、こっちに向かってくる。
はっきり言って、キモい。
「おまえの膝の皿をよこせえええいッ!!」
まあ、俺は別に見慣れているんだが。
「ぐだぐだじゃねえか」
沈着冷静に片足を上げ、おっさんの顔面に容赦なくキックをぶち込んだ。カタギじゃない人が使うキックである。
標的が真っ直ぐに走ってきてくれたおかげで、大した力も入れていないにも
「ぶぇっ!?」
おっさんの汚い叫喚が上がり、白い敷布はそのまま軽々と蹴り飛ばされ、神殿の床に叩きつけられる。
「
今まで聞こえていた男の太い声質とは明らかに異なる、悲痛を押し殺すような女の高い声が聞こえた。
そのまま後頭部を手で押さえながら、白い敷布は激しくのたうち回る。
頭を強打したのだろう。中々に痛そうである。当の俺は正当防衛を行使したつもりなので、一ミリも悪いとは思っていない。ほぼ他人事の気分である。
しばらく、敷布はゴロゴロと床の上を転がり回り、大量の埃を巻き上げていたものの、不意にピタリと動きを止めた。やがて、布の中でモゾモゾと何かが動き始める。
この後に待ち構える
「おい。生きてっか」
声を投げかけた直後だった。
白い敷布の薄汚れた裾から、四肢のある獣が勢いよく飛び出してきたのだ。
犬。
いいや、これは犬らしきものだ。
見た目は完全に野犬の様相ではあるが、愛玩動物として世間一般的に親しまれる犬という動物とは、明確な相違がある。理性が断じて違うと声高らかに叫んでやまない恐ろしい差異が、そこにははっきりと存在していたのだ。
ビー玉のように
そこにあったのは、ケモ耳を生やしたおっさんの
犬の体と人の顔。
人面犬としか形容できない都市伝説の怪異が牙を剥いた。
「ヒャッハアァー!! 隙アリだぜぇぇええええええ──ぐべえっ!?」
襲いかかってきた物の怪に
いだだだだだッ──と、人面犬は手足をバタつかせて暴れるが、数秒後には抵抗も虚しく力尽きたかのようにぷらーんと小さな四足を放埒に伸ばした。
かの有名な都市伝説が、人間に完敗した瞬間であった。
哀れかな。たとえ、恐怖の人面犬であれ、所詮はイヌ科に留まる。人間の腕力には敵わないのだ。
「よお。元気いいじゃねえか、ゴロー」
「そ、そそ、そのやる気のねぇチンピラみたいな、お、お声は……朝倉のアニキじゃねぇですかい!?
こ、こいつはとんだご無礼をっ! ええーと、あのー……ほ、本日もお日柄よく」
「二度とお天道さま拝めなくしてやろうか」
「ちょっ待ッ!? ミドリちゃん! 助けてヘルプドッグ──うんぎゃああああああッ!?」
俺は人面犬を片手でブン投げた。
そりゃもう躊躇なく。
きゃうんっ! という犬らしい鳴き声も、中年の厚い唇の隙間から発せられているものと考えるだけで、不思議なことに罪悪感は生まれてこなかった。
神殿の壁に叩きつけられた人面犬のゴローは逆さまになったまま、きゃんきゃん
「こんなキュートでプリティなワンワンに暴力を振るうだなんて、動物愛護の諸団体が黙ってはいやせんぜ、朝倉のアニキィ!」
「鏡見てこいや。おっさんみてーな
ハッとする人面犬。
そして、一粒の涙が頬を流れる。
「なんて悲しい国になっちまったんだ……! 昔の日本人はもっと動物に対して慈しみがあった! 生類憐れみの精神は
「知らねーよ。てか、テメーは生類に含まれてねえだろ。憐れんでもらえると思うなよ」
「ぬおおおおおおん! ひでぇ!? こんな冷てぇ子に育っちまう日本に未来はねぇぜ! カムバック徳川政権! 今こそ日本を取り戻そうぜぇぇ!」
「うるせえな。海外に売り飛ばされてえのか」
次はお前か──と、溜息しながら振り返ると、緑色に彩られたぶかぶかの雨合羽を着た三つ編みの幼い女児が俺を見上げていた。身長は百二十にも届かないほど小柄で、白桃のようにふっくらとした頬が、彼女が未成熟の子供であることを暗に教えてくれていた。
白い敷布の正体というか、声と頭を担当していたのがあの人面犬で、体を含めた手足を担当していたのがこの子であった。
切り揃えられていない長めの前髪の隙間から、潤んだ大きな瞳が上目遣いで何かを訴えている。先程から、後頭部を痛々しそうに
「謝んねえぞ、ミドリ。テメーも悪い」
両膝を曲げながら、そう言い放つと河童のミドリは頬をぷくーっと膨らませた。
「痛かった」
虫の羽音のようなか細い声音であった。
「お皿割れるかと思った」
彼女の語るお皿というものは、ついさっきまで大した意味もなく枚数を数えていた食器のことを指してあるのではない。
あの有名な河童である彼女の小さな頭部に、まるでハットのような感覚で、すっぽりと収まった紅白のラーメン
これが河童の皿だった。
ていうか、俺があげたプラスチックの
「そんなに気に入ってんのかそれ」
こくこくと頷かれる。
「俺がメシ食ってたやつだぞそれ」
それでも食い気味に頷かれてしまう。
「河童のお皿って、ヤドカリみてーに自分で決められるモンなんだな。なんか知りたくなかったわ」
「イケてる?」
「俺が河童だったら止めてる」
「信乃が人間でよかった」
「言葉の捉え方ポジティブかよ」
河童といえば頭の皿。しかし、彼女の頭に被さる皿はラーメンの
二年前、雨合羽の女児に頑丈な皿が欲しいとせがまれたので、中華料理屋のポイントカードと交換した安物の景品を冗談半分で渡したら、随分と気に入られてしまったという心底くだらない背景がある。
河童の皿ってそれでもいいのかよ。帽子みたいに被るモンなのかよ。脱着式かよ。ていうか身体の大切な部位とかじゃねえのかよ。乾いたらくたばるんじゃねえのかよ。じゃあなにあれ迷信? 河童の迷信ってなんだよ。意味わかんねーよ。
「これが丁度いい。最適で快適。だから乱暴しないで」
儚げな涙目で訴えられてしまい、俺は目を泳がせるしかなかった。
「それ以上の文句はあそこでぐったりしてる駄犬にでも言ってくれや」
「あっしですかい!? 蹴ったのはアニキでしょお!」
「蹴りやすいんだよ、テメーの
「理不尽!? そこらの妖怪よりも理不尽ですぜ、アニキィー!?」
犬の遠吠えのような騒がしい叫び声が、寂れた廃神社の境内に響き渡る。
今やチンケな妖怪どもの住処となった思い出の地。
おっさん人面犬とラーメン河童娘と出会ってしまった俺は、どういうわけか、こいつらの面倒を見る羽目になっていた。
きっかけ? ……ンなもん覚えとるか。
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