〈七〉

 なんだ、あれは……白い布……?


 光から閉ざされたやしろの内部に広がる暗闇にも、ようやく目が慣れてきた。そうして、俺は異質極まる物体の正体を漠然と視認することに成功した。

 四方にそびえる朽木の柱によって支えられている十二坪にも満たない空虚な神殿には、場違いとしか言い表せない奇妙な存在が佇んでいた。


 誰も居るはずのない神殿の片隅で、薄汚れた敷布シーツのようなものを被った何かがモゾモゾと


 大きさは年端もいかぬ幼子の背丈程である。子供が幼稚な悪戯を講ずるために、山に不法投棄されたゴミの中から拾ってきたシーツカバーを頭から被っているだけ。そのように仮定すれば、幾分しっくりとくる恰好ではあった。

 だが、その推測は即座に否定しなければならない。

 まず、このような人の寄り付かない場所で子供が一人で遊んでいるとは考えにくい。ましてや、山の麓から近場の小学校や保育園などの児童施設までの距離を当てはめると、子供の足では到底辿り着けるような時間帯でないことが、現実的な結論として弾き出されてしまう。


 まいったなあ──と、喉奥からり上がるような疑心が、冷や汗となって背筋を舐めるようにつたう。俺の予想が正しければ、この後の展開は極めて面倒なものになるだろう。回れ右して帰りたい。


 白い布は依然として沈黙したまま、神殿の隅でゆらゆらと揺れている。

 夏風に煽られた枝垂しだれ柳の緑葉のような無気力な揺動はあまりに不自然である。まるで絵に描いたオバケそのものだ。今日が仮装で賑わうハロウィンだったら少しは心も落ち着いたが、樹木に張りつく蝉たちの合唱が耳から離れない限り、断念せざるを得ない。


 行きたくねーなあ……。


 なんだか近寄るのも億劫になってしまい、引き攣った顔のまま立ち竦んでいると。


「どう……しよう……。どう、して……」


 声帯を焼かれたような男性の細々とした嗄声が、白い布から聞こえ始めた。


「こんなはずじゃ……なかったのに……。どうして……どうして……」


 しぶしぶではあるが、俺も腹を括ることにした。

 警戒心をより一層強めて、きしめく神殿の床を踏み締めた。そうして、三歩ほど前進すると、開けておいたはずの入り口の扉が一人でに閉まってしまう。

 咄嗟に振り返るものの、そこにあるのは光を奪われた一面の闇だけだ。外の世界と隔離されてしまった事実だけが暗闇の中で確信となっていた。


「足りないの」


 こんな中途半端な場所で愚図っていても仕方がないので、発声の方向へ足を進めることを選んだ。


「お皿が足りないの」


 歩を進める度に、腐り果てた床材が悲鳴を上げる。いつ俺の足を地中に引き摺り込んでも可笑おかしくはない。あまりに信用できない脆弱な足場の上では、緊張感が否応なく高まる。


「一枚、二枚、三枚……」


 かちゃかちゃと何処から取り出したのか食器を数え始めた白い敷布へと、物怖せず、されど慎重に、一歩ずつ確実に近づいていく。


「四枚、五枚」


 廃墟の神社に淋しげに響き渡る。

 ふと、垂木や軒桁の残骸らしき木材が散らばる床に、木彫の仏像が埋もれていることに気がついた。

 湿気で腐った表面は蟲に喰い尽くされ、見るも無惨な御姿に変わり果ててしまっている。埃に覆われた慈愛のまなこが、何かを訴えかけるように俺を凝眸している。そう見えたのは気のせいだろうか。

 なんだか首を絞められているような息苦しさを感じて、思わず立ち止まってしまった。そうしている合間にも、皿を数えてはひたすら積み上げていく気味の悪い音調は止まらない。


「六枚、七ま……」


 ついに白い敷布の手が止まる。

 束の間、静寂が神殿を呑み込んで、俺はハッとした。来るか?──と、遅れながらも身構える。


「…………あれ? あれれ? 七枚目は?」


 しかし、予期していたはずの恐怖的ホラーチックな展開に反して、白い敷布の奥から発せられていたおごそかな口調は、どこか素っ頓狂に崩れていた。


「えっ、二枚もないの? 八枚目が無くて、こう、ガバッといってギャーッていく予定だったじゃない。

 本当に無いの? ちょっと待って待って。もう一枚はどこいっちゃったの? い、いっかい落ち着いて、しっかり数え直しやしょうか」


 俺は空気を読んで、しばらく様子を窺うことにした。


「そーれ、いーち、にー、さーん、しー……。

 あっ! それそれ。よく見なされ。ほ〜ら、重なってんじゃア〜ん! 即・解・決ゥ〜!

 んん? ナニナニ? この布見えにくい? 言い訳しなさんな! ないものねだっても仕方ないでしょお!?

 まったくもお~! 誰に似ちゃってワガママに育っちゃったのよォ~!」


 身も凍るような怪談ホラーの雰囲気が、木っ端微塵に粉砕されていく状況さまを、俺は肌身で実感していた。もはや、下手な漫才を観覧している気分だ。


 うん。なにこれ。


「〜〜〜! 〜〜〜!」


 引っ付いてしまった二枚の皿を強引に剥がそうとする白い布。しかし、あたふたしながら懸命に頑張っているものの、布のすそから覗く非力な幼子の細い腕では明らかに無理そうな様子である。


「えぇ!? とれないの? そんなにガッチリはまってんの? うわッ、カピカピじゃないですか。誰ですかい、これで納豆ごはん食べたのはっ!? ……あっしでしたわ。

 ちょっ、そんなに怒らないで! 反省してるから! めちゃくちゃ猛省してるからぁ!」


 ぼかぽかと自分の頭を殴り始める敷布。

 何となくというか、もうわかってはいるが、あの小さい布の中には二匹いるようだ。


「ああ、どうしやしょう!? もう人間ターゲットそこまで来ちゃってやすよ!? メッチャ待ってくれてやすよォ!? 気のせいか、生温かい哀れみの視線を感じやすよ〜!」


 気のせいである。呆れているだけである。


「こうなりゃプランFでいきやすか。大丈夫。リスクは承知の上。それにあっしはアドリブに強いんです。できるできる。ユーキャンドゥーイット。当たって砕けろ。しない後悔よりして後悔。つまりはチャレンジ精神がビクトリーってワケよ。

 ほら、いけいけ、GO! GO!」


 声の指示に急かされた白い布が、決心も儘ならぬ慌てた様子で立ち上がり、なんともまあ危なっかしく、蛇行しながら俺に駆け寄ってきた。

 恐らく、長時間正座していたのだろう。痺れた素足はドタドタと豪快な音を立て、恐怖心を煽るような空気を完膚なきまでに崩壊させる。もはや、怖さの欠片も残っちゃいない。

 これから俺はコイツに襲われるんだろうな──って思うと、何だか被害者の俺まで恥ずかしなってくる始末である。襲われる身にもなってくれ。


 とは、言ったものの。

 余裕綽々と待ち構えていた俺であったが、誠に残念なことに、恐怖の演出はまだ終わっていなかったらしく。


「プランFはフリーダムのF! そして、フェイスのF! 愚かな人間よ、我が姿におそおののけ泣き喚けぇ〜!」


 ビリビリと白い布の頭頂に当たる部位が、真っ二つに引き裂かれた。内側から無理に破ったのであろう凄惨な切り口から、ニョキッと生えるように現れたのは──そこそこ歳食った男性の頭だった。


 おっさんだった。


 誰がどう見てもおっさんだった。


 見た目は四十歳を過ぎた脂っぽい中年の顔面である。しかも、無駄に顔が濃いし、なんか毛深い。青髭とケツ顎のインパクトがすごい。しかして、たるんだまぶたの奥に収められた眼光は、戦乱の時代を駆け抜けた武士の風格を携えており、一丁前に凛々しかった。

 一度目と目が合ってしまえば、そう易々と脳裏から離れないだろう濃厚な中年の顔面が、幼い矮躯の首の上に乗っかって、脇目も振らずにドタドタと走り寄ってくる。


 ほぼ二頭身のおっさんが、こっちに向かってくる。


 はっきり言って、キモい。


「おまえの膝の皿をよこせえええいッ!!」


 よだれを野良犬のように撒き散らしながら、白目をむいたミニマムサイズのおっさんが近づいてくる絵面は、認めたくはないが、紛れもなくホラーだった。生理的嫌悪と身の危険を感じさせるサイコスリラーの部類に近しい恐怖である。子供ならトラウマ確定。大人でもしばらく尾を引く怖さ。今夜のトイレは一味違うぜ。


 まあ、俺は別に見慣れているんだが。


「ぐだぐだじゃねえか」


 沈着冷静に片足を上げ、おっさんの顔面に容赦なくキックをぶち込んだ。カタギじゃない人が使うキックである。

 標的が真っ直ぐに走ってきてくれたおかげで、大した力も入れていないにもかかわらず、高級なクッションへ沈み込んだように、靴底は顔面にめり込んで、クリーンヒットした。


「ぶぇっ!?」


 おっさんの汚い叫喚が上がり、白い敷布はそのまま軽々と蹴り飛ばされ、神殿の床に叩きつけられる。


──ッ!?」


 今まで聞こえていた男の太い声質とは明らかに異なる、悲痛を押し殺すような女の高い声が聞こえた。


 そのまま後頭部を手で押さえながら、白い敷布は激しくのたうち回る。

 頭を強打したのだろう。中々に痛そうである。当の俺は正当防衛を行使したつもりなので、一ミリも悪いとは思っていない。ほぼ他人事の気分である。

 しばらく、敷布はゴロゴロと床の上を転がり回り、大量の埃を巻き上げていたものの、不意にピタリと動きを止めた。やがて、布の中でモゾモゾと何かが動き始める。


 この後に待ち構える大凡おおよその展開が目に浮かぶ。しかしながら、安否は確認しないと流石に可哀想なので、気は進まずとも倒れ伏した敷布へと近づいた。


「おい。生きてっか」


 声を投げかけた直後だった。

 白い敷布の薄汚れた裾から、四肢のある獣が勢いよく飛び出してきたのだ。


 犬。


 いいや、これは犬らしきものだ。


 見た目は完全に野犬の様相ではあるが、愛玩動物として世間一般的に親しまれる犬という動物とは、明確な相違がある。理性が断じて違うと声高らかに叫んでやまない恐ろしい差異が、そこにははっきりと存在していたのだ。

 ビー玉のようにつぶらな瞳やふっくらとした上顎はどこにも見当たらず、思わず撫で回したくなるような愛嬌み溢れる毛並みに覆われたかおの一切が、あるものにすり替わっていた。


 そこにあったのは、ケモ耳を生やしたおっさんの顔面ツラである。


 犬の体と人の顔。


 としか形容できない都市伝説の怪異が牙を剥いた。


「ヒャッハアァー!! 隙アリだぜぇぇええええええ──ぐべえっ!?」


 襲いかかってきた物の怪にひるみもせず、五本の指でかさず迎え撃つ。指の力で頭蓋を締め上げるアイアンクローというプロレス技だ。人面犬のアイデンティティたる人面かおの部分を片手で鷲掴みにし、そのまま持ち上げて宙吊りにする。

 いだだだだだッ──と、人面犬は手足をバタつかせて暴れるが、数秒後には抵抗も虚しく力尽きたかのようにぷらーんと小さな四足を放埒に伸ばした。


 かの有名な都市伝説が、人間に完敗した瞬間であった。

 哀れかな。たとえ、恐怖の人面犬であれ、所詮はイヌ科に留まる。人間の腕力には敵わないのだ。


「よお。元気いいじゃねえか、ゴロー」

「そ、そそ、そのやる気のねぇチンピラみたいな、お、お声は……朝倉のアニキじゃねぇですかい!?

 こ、こいつはとんだご無礼をっ! ええーと、あのー……ほ、本日もお日柄よく」

「二度とお天道さま拝めなくしてやろうか」

「ちょっ待ッ!? ミドリちゃん! 助けてヘルプドッグ──うんぎゃああああああッ!?」


 俺は人面犬を片手でブン投げた。


 そりゃもう躊躇なく。


 きゃうんっ! という犬らしい鳴き声も、中年の厚い唇の隙間から発せられているものと考えるだけで、不思議なことに罪悪感は生まれてこなかった。

 神殿の壁に叩きつけられた人面犬のゴローは逆さまになったまま、きゃんきゃんわめき散らして俺を糾弾しようと試みる。


「こんなキュートでプリティなワンワンに暴力を振るうだなんて、動物愛護の諸団体が黙ってはいやせんぜ、朝倉のアニキィ!」

「鏡見てこいや。おっさんみてーなツラした犬モドキを擁護する団体は、この国には無えよ」


 ハッとする人面犬。

 そして、一粒の涙が頬を流れる。


「なんて悲しい国になっちまったんだ……! 昔の日本人はもっと動物に対して慈しみがあった! 生類憐れみの精神は何処いずこへ……?」

「知らねーよ。てか、テメーは生類に含まれてねえだろ。憐れんでもらえると思うなよ」

「ぬおおおおおおん! ひでぇ!? こんな冷てぇ子に育っちまう日本に未来はねぇぜ! カムバック徳川政権! 今こそ日本を取り戻そうぜぇぇ!」

「うるせえな。海外に売り飛ばされてえのか」


 やかましい人面犬を一言で黙らすと、ぐいぐいと服の裾を引っ張られる。

 次はお前か──と、溜息しながら振り返ると、緑色に彩られたぶかぶかの雨合羽を着た三つ編みの幼い女児が俺を見上げていた。身長は百二十にも届かないほど小柄で、白桃のようにふっくらとした頬が、彼女が未成熟の子供であることを暗に教えてくれていた。

 白い敷布の正体というか、声と頭を担当していたのがあの人面犬で、体を含めた手足を担当していたのがこの子であった。


 切り揃えられていない長めの前髪の隙間から、潤んだ大きな瞳が上目遣いで何かを訴えている。先程から、後頭部を痛々しそうにさすっている姿から予想するに、謝罪の言葉を要求しているのかもしれない。


「謝んねえぞ、ミドリ。テメーも悪い」


 両膝を曲げながら、そう言い放つとのミドリは頬をぷくーっと膨らませた。


「痛かった」


 虫の羽音のようなか細い声音であった。


「お皿割れるかと思った」


 彼女の語るお皿というものは、ついさっきまで大した意味もなく枚数を数えていた食器のことを指してあるのではない。

 あの有名な河童である彼女の小さな頭部に、まるでハットのような感覚で、すっぽりと収まった紅白のラーメンばちのことを言っているのだろう。


 これが河童の皿だった。


 ていうか、俺があげたプラスチックのどんぶりであった。


「そんなに気に入ってんのかそれ」


 こくこくと頷かれる。


「俺がメシ食ってたやつだぞそれ」


 それでも食い気味に頷かれてしまう。


「河童のお皿って、ヤドカリみてーに自分で決められるモンなんだな。なんか知りたくなかったわ」

「イケてる?」

「俺が河童だったら止めてる」

「信乃が人間でよかった」

「言葉の捉え方ポジティブかよ」


 河童といえば頭の皿。しかし、彼女の頭に被さる皿はラーメンのうつわである。それも何か特別な物品というわけでもなく、どこのラーメン屋にも置いてあるような至って普通な中華風の丼である。


 二年前、雨合羽の女児に頑丈な皿が欲しいとせがまれたので、中華料理屋のポイントカードと交換した安物の景品を冗談半分で渡したら、随分と気に入られてしまったという心底くだらない背景がある。

 河童の皿ってそれでもいいのかよ。帽子みたいに被るモンなのかよ。脱着式かよ。ていうか身体の大切な部位とかじゃねえのかよ。乾いたらくたばるんじゃねえのかよ。じゃあなにあれ迷信? 河童の迷信ってなんだよ。意味わかんねーよ。


 はなはだ疑問は尽きないが、若輩とはいえ河童のご本人が目の前で満足していらっしゃる以上、部外者の俺は引き下がるしなかった。


「これが丁度いい。最適で快適。だから乱暴しないで」


 儚げな涙目で訴えられてしまい、俺は目を泳がせるしかなかった。


「それ以上の文句はあそこでぐったりしてる駄犬にでも言ってくれや」

「あっしですかい!? 蹴ったのはアニキでしょお!」

「蹴りやすいんだよ、テメーのツラ

「理不尽!? そこらの妖怪よりも理不尽ですぜ、アニキィー!?」


 犬の遠吠えのような騒がしい叫び声が、寂れた廃神社の境内に響き渡る。


 今やチンケな妖怪どもの住処となった思い出の地。

 おっさん人面犬とラーメン河童娘と出会ってしまった俺は、どういうわけか、こいつらの面倒を見る羽目になっていた。


 きっかけ? ……ンなもん覚えとるか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼夜叉 尾石井雲子 @delicious_shit

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ