〈八〉

「じゃあ、他に悪さしてねえんだな?」


 柔らかな木洩れ日が刺さる神殿の外。

 蜘蛛の住処となっている賽銭箱の前で腰を下ろした信乃は、横に座らせた人面犬と河童の少女に、威圧的な語気を用いて問いかけた。

 四十代中年の相貌をした人面犬のゴローと、紅白のどんぶりを頭に載せた幼い河童のミドリは、顔色を真っ青にしてブンブンと何度も肯首する。


「菩薩様に誓って、なんもやっていやせん!」


 ゴローは大声で宣誓した。


「神隠しなんてとんでもおっかねぇ……! あっしらは肝試しに来たウェーイな若い連中しかターゲットにしていやせん!

 ビビらせ、おののかせ、恐怖でガタガタにして、失禁寸前まで追い込んで、二度とこの神社に近づかないようにかる〜く揉んでやることぐらいしかやっていやせんぜ! あっしら善良な妖魔でさァ!」

「善良の意味、今すぐ調べてこい」


 頬杖をついて呆れ果てる信乃に、ゴローは全身の毛を逆立てて必死に弁明する。


「あっしらはそもそも人間をちょっくら驚かせる程度の能しか持ってねぇんです! ザコ中のザコなんです! そんな木っ端の妖魔が人をさらう神隠しなんて大層な真似できるわけありませんぜ! なあ、ミドリ?」


 つばを散らしながら熱弁する人面犬に同意を求められた河童の女児は、激しいヘッドバンギングのような速さで首を縦に振る。すると、頭上のラーメン鉢がずり落ちそうになって、慌てて頭頂を手で抑えた。見ていて非常に危なっかしい。


「それにあっしらみたいな弱小妖魔は現世うつしよに長い時間いられやせんからね。こうして逢魔時おうまがどきを待たずに現界できるのはここの龍脈が濃いおかげであって、あっしらの実力じゃあ無ぇんです」

「うつ? りゅう? なんだそりゃあ? 新しい流行語かなんかか?」


 ギャルじゃねえからギャル語わかんねえんだわ──と、眉根を寄せた信乃の素っ頓狂な返しに、二匹の妖魔は愕然とした。


「えっ。朝倉のアニキ、まさかご存知でいらっしゃらない? 龍脈ですぜ? 霊脈なんて言い方もしやすが」

「あ? どこの国の言語だよ。急にグローバルな話をすんじゃねえ。ここはサムライの国だぜ。日本語喋れ。日本語」

れっきとした風水の言葉です、アニキ。あっしら妖魔や陰陽術に深く関係する言葉なんですが、知りやせんか? ガッコーとやらでやってるとは思うんですが」


 人面犬の冷静な指摘を受けて、現役高校生は無愛想に口を尖らせる。


「漢字多くて苦手なんだよ、おんみょーとかの話」

「ああ。アニキは座学がてんでダメな方でしたねぇ〜」

「うっせ」


 不機嫌そうにそっぽを向く信乃に「だったら、恐れながらも、このあっしが」と、規律正しい狛犬のように背筋を伸ばして居住まいを正したゴローは得意げに鼻を鳴らした。


「お勉強が苦手な朝倉のアニキのために、妖魔のことをバッチリ解説してあげやしょう!」

「やだ」

「即答!? なんでぇ〜!?」

「テメーに教えを請うってのが、なんかこう、腹立つ」

「プライド無駄に高ッ! そんなんだからアニキはおバカなんですよ!」

「んだとゴラ。俺はなあ、やればできる子なんだぜ。やってねえから赤点とるだけで、やればすぐにでもハーバードにダイナミック入学だコノヤロー」

「なんて頭の悪そうな台詞」

「次世代のスティーブ・ジョブズとは俺のことよ」


 手遅れだと言わんばかりに失望の眼差しを向けるゴローとミドリ。流石の信乃バカも立つ瀬がなくなり、中身のない適当な洒落を口にする余裕もなくなった。


「いや、確かに頭の出来は悪りいけど、そこまで深刻じゃねえからな?」

「それじゃあ、実際やってみましょうや。アニキがバカじゃねぇってこと証明してくだせぇ」

「それはヤだ。メンドくせえし」

「そう仰らずに聞くだけ聞くだけ! 損はさせやせんから! ちょっとだけでさァ! ほんのちょっと! 先っちょだけ! 先っちょ! ね!」

「その言い方やめろ。ミドリに悪影響だろうが」


 なぜか、妙にノリノリになってしまったゴローを拳で黙らせることは簡単であるが、それを実行してしまえば、真性の莫迦バカという烙印を押され兼ねない。

 信乃は気乗りしないまま、拒絶の選択を諦めた。

 中年顔の人面犬の方へ向きを変えて、胡座あぐらを組み直す。すると、膝の上に吸い込まれるように緑色の雨合羽が、信乃の胡座にすっぽりと収まってしまった。

 体重軽ッ、紙粘土か?──と、驚きのあまり危うくツッコミを忘れかけてしまう。


「おい。邪魔だ」

「……?」

「小首を傾げんな。可愛くねえんだよ」

「ミドリ、河童だから人間の言葉ワカンナイ」

「由緒正しい日本語使ってんじゃねえか。ナメてんのか」

「信乃はしょっぱそうだから舐めない」


 恐らく、この雨合羽の女児は退く気がないのだろう。無駄に強固な意思を短い問答から感じ取った信乃は、青筋を額に浮かべながら、ミドリの餅のように柔らかい両頬を指先でつまんだ。


「ひはひ。ひほ、ひはひ」

「おっし。はじめてくれ、ゴロー」


 頬を乱暴に弄ばれるミドリの満更でもないような顔と、信乃の気怠るそうな顔を見比べたゴローは、咳払いを一つ挟んでから解説を始めた。


「へい。ではでは。まずはあっしら妖魔のことから行きやしょう」

「おう。頼んだ」

「あっしら妖魔はケガレが受肉して産まれた存在……。簡単に言やァ、人間や自然の悪いモノが固まって、ある日突然するモンなんです。

 そういう意味では、自然災害と同じ。違いがあるとすりゃア、そこに悪意があるか無いかってところですかね」


 地震とか、台風とか、大勢の生命を巻き込む災いには、ここを襲ってやるとか、こいつは殺してやるとか、そういう明確な意思は無いでしょ?

 妖魔にはそれがある──と、ゴローは自身の存在を淡々とそのように語る。


「そんな危ねぇ奴等を瀬戸際で食い止めていたのが、現代退魔師の前身とも言えるかつての陰陽師たちだったんですよ。彼らは朝廷の命に従い、妖魔の存在を秘匿し、人知れず駆除していたんです」

「人知れず? 内緒にしてたんか?」

「ええ。まあ、あっしは妖魔なんで、正確な理由は存じてませんが、混乱を避けていたんじゃないですかね。飢饉の多い時代でしたし、不安は少ない方がいい。

 しかし、残念ながら、陰陽師たちの尽力も虚しく、妖魔の存在がおおやけとなっちまう事件が起きます。それが平安朝の時代に起こった鬼神〝羅刹らせつ〟さま率いる〝百鬼夜行〟です」

「あー……なんか聞いたことあんな。しかも、割と最近で」

「とても有名なお話ですからね。アニキも耳にしたことぐらいはあるんじゃねぇですかい?

 人類淘汰を大義に掲げる羅刹さまのもとにつどった百体の凶悪な魑魅魍魎による大量虐殺。その被害は、最終的に百二十万人以上にも及んだと記録されていやす。この数値は当時の人口の実に二割を占めていやすね。

 百鬼によって蹂躙の限りを尽くされたこの世は阿鼻叫喚の地獄と化し、陰陽師や武士の決死の抵抗も意味を為さず、ついにはみやこまでもが壊落寸前に追い詰められてしやいやす」

「へえ」


 まさに終焉の時代が訪れたんでさァ──と、腹の読めない複雑な感情に眼を細めるゴローに、信乃は適当な相槌を打つ。


「そんな絶体絶命のピンチから、人類をお救くいになられたのが、鬼神〝夜叉やしゃ〟さまです。

 羅刹さまの実弟にして、羅刹さまの右腕でもあった夜叉さまは、あろうことか百鬼夜行を裏切り、人間の味方についたんです」


 夜叉さまがなぜ人間の味方に回ったのかは誰も知らないんですが──と、小さく付け加えて、ゴローは先程よりも興奮気味に話を続けた。


「この偉大なお方は最強と謳うに相応しいほど、それはそれは強靭でありました。妖魔の頂点たる百鬼を相手に一歩も退かず、たったひとりで名だたる妖魔をばったばったと薙ぎ倒していきやす。

 そして、ついに百鬼夜行の首魁トップである羅刹さまと一対一の死闘を繰り広げやした。兄と弟。人と妖。様々な想いを馳せて殺し合うふたりの激闘は、酷烈なものであったと言われております。

 幾度の夜明けを迎え、ついに羅刹さまの喉に刃を突き立てた夜叉さまは、その首を討ち取ったのです。兄の首を……実の弟が……ううっ、なんて残酷な運命でしょう……!」

「はあ」


 気の抜けた返事で濁す信乃や胡座の上で欠伸するミドリに比べて、ゴローは感涙にむせび、鼻をすすっている。

 そんなに泣ける話かこれ?——と、信乃の怪訝な視線にミドリは「さあ?」と肩を竦めるだけであった。


「こうして百鬼は全滅し、ううっ、ことの元凶であった羅刹さまも……斬伐されまして……。ようやく、よおーやく、世界は安寧を取り戻しやした。

 たったひとりの鬼によって、人類は救われ、今の世が続いているんでさァ……。

 これが夜叉伝説。人界で起きた初の霊的な大災害のあらましです」

「はーん。なんか大変だったんだな」

「大変も大変っ! くうぅぅー! やっぱカッケェな夜叉さま! 一度でいいからお会いしてぇ〜! 今はもう地獄でしょうけど、もし会えたら握手とかしてもらいてぇな〜!」

「地獄? 死んだのかそいつ」

「そりゃねぇ。文字通り戦ったんですからね。

 鬼は朽ちれば、必ず地獄行き。輪廻は途絶え、魂は業火の中で永久とわに封じられる。夜叉さまだって例外では無いでしょう」


 彼の言葉の色に憂いや同情は見当たらない。妖魔にとって、それは至極当然な常識のような事柄なのだろう。


「んまあ、そういう土台となる背景があったって話でさァ。あっしやミドリのようなザコ妖魔とは天と地ほどの差がある恐ろしく強い〝鬼〟の皆さまが、人間滅ぼす為に大暴れして、多くの人々に恐怖を刻みつけ、その結果として、妖魔たちはされちまうようになったってことなんです。

 一度視えてしまったもの、触れてしまったもの、それらの神秘は幻想には返りやせん。とくにってやつは色濃く記憶に残りやす。千年以上の時を経てもなお、あっしら妖魔は人間が抱くの中に君臨し、紛うことなき現実として意識に定着しちまったつうことです。ここまでわかりやしたか、アニキ?」


 信乃は一瞬ビクッと肩を震わせてから、ウンウンと大袈裟に肯首する。


「……ま、まあまあ、かな」

「あんまりわかんなかったってことですかい、アニキ」


 あっさりバレた。


「ちげーよ。ちげえ。ちゃんとわかった。要するにアレだろ? 目の前の暴力がやっぱ一番怖えってことだろ。わかるぜ。わかるわかる」

「んー? なんかこう、伝わってるような、伝わってないような……。本当にわかってます?」

「うるせえぞこのイヌもどき。ここ掘れワンワンでテメーを埋めるぞ」

「意味わかんねぇのにやたらと怖い!」


 深く突っ込まれると、知了の浅さが間違いなく露見してしまうので、信乃は暴力で制することにした。やはり、暴力こそが恐怖の真理であると、信乃は心の中で確信した。


「妖魔は、みんな鬼になるのが夢」


 暇そうに口を閉ざしていた雨合羽の少女が、信乃の下顎を見上げるような態勢で、突然そんなことを言った。


「鬼は恐怖の象徴。恐怖は強さの象徴。妖魔にとって鬼は憧れ」

「そうなのか」

「妖魔の存在意義、もともと人を怖がらせること。恐怖で、覚えてもらうこと」

「覚えてもらう?」


 眉間の皺を深くするばかりの信乃へ、ゴローがかさず補足する。


「妖魔の格ってのは、どれだけの人間を恐怖させ、己の存在を記憶に刻ませたか……で、大きく上下すると言われていやす。鬼という名は称号というかトロフィーみたいなもんです。鬼と呼ばれるほど畏敬された妖魔は妖気の質から違いやすからねぇ〜。

 あっしらみたいなザコは定期的に人をビビらせて、妖力をコツコツ貯めないと、コッチの瘴気の薄さで次第に弱っちまうんでさぁ」

「弱る? じゃあ、テメーらがあの手この手で人を怖がらせようと頑張ってたのは」


 ──生きるために必要なこと。


「いやいや。だからと言って死にやしませんよ? 田舎モンが都会の空気吸って気分悪くなるのと同じでさァ」

「おいゴラ。俺の同情かえせ」

「そもそも、あっしら妖魔は〝現世うつしよ〟ではなく、その裏側に広がる〝幽世かくりよ〟っつう影の世界で生きていやすからね。幽世にいれば基本あっしらは無事なんです」

「うつし……かくりょ……? また難しい言葉がずらずらと出てきやがった……」

「信乃。顔色わるい」

「元からだ。ほっとけ」


 膝の上からかたくなに動こうとしないミドリは信乃の頬を指で突き始めた。迷惑だが、止める気力もないので、信乃はされるがまま溜息をつく。


「ゴロー、説明しろ」

「遊んでるだけでしょう。ミドリはアニキのことが大好きでいやすからねえ〜」

「そっちじゃねえよ。ウツとかカクとかのやつ」

「あー。そっちでしたか。こいつァ失敬でやした。

 〝現世うつしよ〟ってのは、朝倉のアニキが普段生きている現実世界のことでさァ。つまりは。空気があって、青い空がある、この世界のことです。

 逆に〝幽世かくりよ〟ってのは、通常死後に向かう世界でしてね……。詳しい話は難しいんで省きますけど、とにかくケガレが貯まりやすいんです。あっしら妖魔は大抵ここから産まれやす」

「ほーん。生誕地ね」

「〝現世〟と〝幽世〟は表裏一体の関係。即ち陰と陽です。別世界と言えど、常に二つは繋がっていやす。幽世に住まう妖魔や霊魂の存在を、現世の人間が認識できちまうのが、その最たる例でさァ。

 妖魔あっしらの存在をハッキリと認識する方法は二つありやす。一つは妖魔が〝現世〟に足を踏み入れること。今のあっしやミドリの状態です。アニキがあっしらと会話できんのも、あっしらがアニキの現世せかいにお邪魔してるからなんでさァ。

 そんでもう一つの方法が、強い霊力を保持した特異な人間が〝幽世〟ごと視ちまう場合です。あっしは人間のこと詳しくねぇですが、所謂いわゆる霊感のある人間がこれに該当されやすね。

 妖魔を認識する条件は大体この二択に絞られやすが、アニキみたいな霊気の少ねぇほとんどの凡人は、妖魔が現界する形でしか出会うこたァねぇですかね」

「はあん。……って、アレ? 俺はそのレーキ? レーリョク? とかいうのが無いの?」

「無いこたぁ無いです。人間どころか生きとし生けるものなら誰しも霊力は持ってます。でも、その、アニキの霊気は、なんていうか……」

「ぷぷっ」

「おい。なんでいま笑ったんだ、ミドリ」

「信乃の霊気……雀と同じぐらい」

「スズ……メ……!?」


 くつくつと笑いを堪えようと顔を背けるゴロー。ミドリは口元を両手で抑えてはいるが、目は卑しげに細まっている。

 自らを雑魚と称する妖魔たちでさえ、思わずあざけるような態度を取ってしまう様子から察するに、信乃の霊気は確実に平均を下回っているのだろう。それも最低値を記録しているのかもしれない。

 別にこれまでの人生で一度も欲したことはないが、そこまで揶揄からかわれると話が別だ。信乃はこれまでに感じたことのない焦燥を覚えた。


「そ、その霊力とやらを増やす方法はねえのか? 毎朝欠かさずストレッチとか。決まった時間にしかメシ食べちゃダメとか」

「いや、ダイエットですかそれ。無理ですよ。残念ですが、霊力は生まれ持ってのチカラなんで……」

「くッそお……! 俺あ一生スズメと肩並べて生きなきゃなんねえのか……!」


 拳を石段に叩きつけて項垂れる信乃の頭を、ミドリは慰めるように撫でる。げにも哀れな光景であった。


(──ていうか、待てよ)


 ふと思い出したかのように信乃は顔を上げた。


(俺に霊力が無かったから視えなかっただけで、幼馴染アイツにはちゃんと視えていたのか)


 鬼がいる、と──裾を掴んで何もない場所を指差す白い少女。

 少年にはどうしても鬼が見えなかった。だから、嘘を一つ積み上げた。どうしようもないほどに稚拙な嘘を、何の気概もなく、何の思慮もなく、軽々しくも口にした。


 それが今になって、悪いことをしたように思えてきた。


「話を戻しやして。

 妖魔が現世に踏み入れるには条件がありやす。それが何なのかわかりやすかアニキ?」

「え? ああ、えーと……パスポートの発行とか?」

「どこで発行してんですかそれ。正解はですぜ。

 本来なら、あっしら妖魔には時間の制約があるんです。そいつは現世に充ちてる〝瘴気〟っつう悪い〝気〟の問題なんです。幽世の瘴気に比べて、現世は幾分薄い。だから、妖魔は長く滞在できやせん。でも、現世の瘴気が高まる魔の時間帯があるんです。

 それが黄昏から暁にかけての逢魔時おうまがどき。夕方から夜。日が落ちて昇るまでの時間が妖魔たちが自由に現界できる時間なんです。逆に言えば、その時間帯でしか妖魔は現世に触れられないんです」

「触れられない?」


 胡座の上にと座る雨合羽の少女を見下ろして、信乃は眉間の影をより深めてしまう。彼女の体温や匂いも重さも、何の疑いようもなく現実のものとして、信乃は今もなお実感している。

 多少はくらくなってきた時間帯とはいえ、まだ余裕で日中の範囲である。妖魔が現界を可能とする時刻には至っていないように感じられる。本来なら、霊力に乏しい信乃はこうしてミドリを膝に乗せることも、ゴローの話に耳を傾けることもできないはずだ。

 その不可思議な仕掛けをゴローは快哉を叫ぶように語った。


「ところが、この土地には〝龍脈〟っていう霊的エネルギーがたくさん流れていやしてねぇ。これがえらく潤沢で、高密度の〝気〟が充ちて、住みやすいったらありゃしない! なんならここ数ヶ月はちょっと心配になるくらい霊気が乱れてて最高でさァ!

 つまり、この龍脈があるおかげであっしらみたいなザコ妖魔でも昼夜問わず現界できるっつうタネなんでさァ。あっしらみたいに龍脈の恩恵にあやかろうとしてる妖魔も日に日に増えていやすし、この土地は今や妖魔の港間じゃあ、激アツのスポットなんですぜアニキ!」


 人面犬の説示を噛み砕いて、信乃は頭の中で整理を行う。

 死の異界〝幽世かくりよ〟に住まう妖魔は人間の視覚に捉えることは通常できない。霊力に優れた一部の特別な人間にのみ妖魔を視認することが許され、大半の人間は妖魔の存否を確認することは不可能である。

 しかし、人間の生きる世界〝現世うつしよ〟に妖魔が訪れた場合、力の有無を問わず誰であれ妖魔を知覚できるようになる。そうした状況から信乃も二匹の妖魔と知り合い、今もこうして触れ合うことが叶っている。

 基本、妖魔が現世に出没できる時間は限られている。人面犬と河童が時間の制約から解放されているのはこの地域に流れる龍脈と呼ばれるエネルギーの恩恵に過ぎない。

 本来ならば、逢魔時を待たねばならない。

 陽が暮れる夕闇の一刻が、夜を呼び起こす黄昏たそがれまで──……。


「それって何時ぐらいからだ?」

「日没ぐらいなんで、この季節なら午後七時ぐらい……。今からざっと一時間半ぐらいっすかね。今日はけっこー暗くてイイ感じなんで、コッチに出てきてる妖魔もチラホラいると思いやすよ」

「へえ。じゃあこれからカクリヨってところから、テメーらみてえな妖魔がわらわらと出てくるってワケか。そいつは何ともおっかねえ話だな。玄関に塩でも撒いとくかあ──……って、ん?」


 あれ? いま何時つった……?


 その瞬間、冷や汗が全員の穴から噴き出すような不快な感触を味わった。

 信乃の頭の中にある貧相な記憶が、昨晩にかかってきた電話の内容をゆっくりと丁寧に掘り起こす。懐かしい幼馴染との会話の中には、彼女を迎えに行かねばならない旨の話もあったはずだ。

 もはや、説明は不要であろう。幼馴染と交わした約束の時間は果たして何時いつであったか。


 ──来なかったら私寂しくて泣いちゃうかも。


「わっ、忘れてたああああああーッ!?」


 膝上でくつろいでいたミドリをふるい落とすほどの勢いで、ガバッと飛び上がった信乃は頭を抱えながら雄叫びのような悲鳴を上げた。


「やらかしたあああッ!?

 い、いまから間に合うか!? こっから家までトばして、ンでから走って駅まで……。だああああッ考える時間がもったいねえよ!」

「信乃?」

「アニキ?」

「テメーらこれやるからしばらく大人しくしとけ! 町とか絶対顔出すなよ! いいな!?

 じゃねーと、俺の幼馴染に滅されるかもしれねえぞ!」


 自宅から持ってきたコンビニ袋──サラダチキンと胡瓜の惣菜を叩きつけるように投げ渡して、顔面蒼白と化した信乃は慌ただしく廃神社を後にする。

 すでに夕日は空を赤く染めて、夜の帷を下ろし始めていた。

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