〈九〉
針がゆっくりと動いている。
たった一秒さえ惜しむような緩慢とした歩みで、止め処なく流れる時間を狂いなく打ち続ける。まるで、それが天命であるかのように、二本の針は飽くことなく盤上を回り続けていた。
午後六時。
駅前の小さな広場に佇む時計台は
鬱々とした茜色で塗り潰された空は、殺風景な町を
淡い光を放つ街灯がぽつぽつと路肩の雑草を照らし始めると、門限に追われる児童の影がいくつも横切った。その後に続く歩幅の短い背広。稚児を乗せた主婦の自転車。何処からともなく流れ着いた夕飯の芳香と「また明日」を交わす声。野良猫がじゃれて犬が鳴き、人の影は遠くの方へ消えていく。
遠く。
ずっと遠くへ。
人の営みが終わる夕暮れ時。その蕭条とした景色が在方の町を慈しむように深く浸していく。
いつしか夜は人のものになってしまった。
それが東京の光景だった。
眠ることのない
それに比べて、都会とは縁の及ばない
品に欠けたネオンの発光も無ければ、しつこいキャッチもおらず、早々にできあがったサラリーマンの集団すら見当たらない。
ただ、ひたすらに閑寂な静けさを街中に晒している。
この町はきっと眠るのだ。
安らかな寝息を立てて、夜明けの時を夢にて待ち詫びる。これこそがまさしく古来より継がれる人の営みそのものではないか──と、過大に評価してみると存外、田舎も田舎で悪くないと彼女は悟った。
それに、この町には、どうしようもないぐらいに成長性に乏しいバカもいる。
「変わらないなー、ここは」
白い髪と白い肌。そして、琥珀のような瞳。
人を惹きつける蠱惑的な雰囲気とあどけない少女の面影。
ここが
変装用の伊達メガネを外した彼女は、背後の気配を察知して、口角を小さく吊り上げる。
「私の幼馴染も全然変わってないね」
「…………」
そこには地味な黒髪の男がいた。少年らしい顔立ちを一向に悟らせない剣呑な眉間と程よい筋肉が身に付いた長身。どこか不機嫌そうな強面は生来のものであることを彼女は知っている。そして、それを本人が気にしていることもよく知っている。
彼は動きやすそうな半袖のシャツに汗を滲み込ませ、さながらオレンジポールのようにピンとした直立の状態で立ち竦んでいた。
そうして、
暈音は目と目をしっかり合わせるため、一つ歩み寄って、上目遣いで覗き込むように信乃の顔面を仰いだ。すると、彼の落ち着きのない眼は右へ左へ泳いで逃げ場を探す。さながらメトロノームのような動きだ。
どうやら罪悪感はあるらしい。
なら、少し遊ぼうか。
大日女暈音はくすりと小悪魔めいた笑みを
「遅刻についての弁明は?」
「……お喋りしてると、ついつい時間を忘れることって、けっこうあンじゃん?」
「重罪だね」
「減刑を所望する」
「それはこれからの態度しだいかな」
「よっ! 日本一!」
「何の? ごまの
ぐっ、と苦虫を噛み潰したような顔で逡巡する信乃はやがて開き直ったように謝罪を口にした。
「悪かった。悪かったよ。今回は非を認める。俺が悪うこざいました。俺の頭はヒヨコです。ピヨピヨです。早く巣に帰して下さい。ピヨピヨ」
図太く居直ってふざけ始めた幼馴染に、暈音は鋭く返す。
「もうちょっと可愛くやって」
「は?」
「やらないの? 一時間も遅刻して?」
「えっと」
「ほら早く。時間は有限だよ」
「ぐ……っ! ぴ、ピヨっ! ピヨー!」
「…………」
「ピピ、ピヨ、ピー! ピぃー! ピピ、ぴ……ピョエェエエエーッ! フアァァアアアアアーッ! ヒュゥゥウウウウウーッ!」
「できないからって、勢いで誤魔化さない」
じゃあどないすりゃええねん。
信乃は目で訴えかける。だが、昔からそうであったように、単純に
再会してすぐ彼女のペースに呑まれてしまった。そんなやるせない気持ちを包み隠さずげっそりとした顔に出す。
「テメーも変わってねえのな」
「急には変われないよ、人は。ただ少しだけ、ほんのちょっと大人になるだけ」
そう言うや否や、暈音はその場でくるりと回ってみせた。
秀麗な舞踏を踊るかのように音もなく、春風に舞い落ちる桜の花弁のように清廉と、彼女は己を魅せるように
薄生地のロングスカートがふわりと浮かび、夕陽に混じる白雪の髪が淑やかに揺れた。すると銀木犀の柔らかな香りが漂って、嗅覚を甘く
ドキリと胸を掴まれるような驚悸も束の間、長い睫毛の間から覗く橙色の大きな瞳に心を奪われる。まさに夕焼けのような瞳だった。小さな太陽が二つ降りてきたと錯覚するほどに、彼女の双眸は他に比肩し難い艶美な色気を秘めていて、網膜に熱を植え付けられる。
不意に高鳴った心臓。白い妖精が夕日の中で戯れているかのような幻惑の光景に、彼の心は大きく戸惑い、心拍数は跳ね上がる。
絶世の美女と持て
「ね?」
そして、暈音は野に咲き誇る一輪の花のような柔和な微笑みを自然に浮かべた。
それはテレビや雑誌で度々見せる作り物の笑顔とは大きく異なる。美しいだけの人形に魂が宿ったかのような笑顔。美麗や可憐では言い表せない。もっと原始的な魅力。人を人たらしめるもの。それが何なのか、信乃には当然わからない。
ただ、朝倉信乃は昔から理由も理屈もなくそれが好きだった。
彼女が時折見せる本当の笑顔が堪らなく好きだった。
そんなことを、忘れていたわけでもないのに思い出した。
「────…………」
変わっていないんだ、何もかも。
「……なあにが〝ね?〟だ。大して成長してねえだろーが。寝言は、こう、ボインボインになってから言えっての」
「はい。そこ減点。万死に
「ちげーよ。今のはそういう意味じゃねえ。ボインボインってのは、フランスの名将ボインボ=イン伯爵(1405〜1440)のことで、彼のように清らかで優しい心をだな」
「嘘ついたからもっと減点するね」
「ギブミーお慈悲」
「却下」
墓穴を掘るしか能のない信乃はガックリと項垂れた。やはりこの小悪魔系幼馴染には勝てる気がしない。身体の爪先から髪の先まで彼女に対する負け犬根性が染みついてしまっている。
そんな
それが少し嬉しい。
「ほら、そんなことよりも、まず言わなくちゃいけないことがあるでしょ?」
「あ? 言わなくちゃいけないこと? なんだあ? ……明けましておめでとう?」
「遅いよ。もう半年経ってるよ」
「ハッピーバースデートゥーユー」
「ダメ元で架空の誕生日祝わないで」
「ええーっ? わかんねえよ。クリスマスなわけねえし。エイプリルフールは挨拶とかねえし。あとなんだ? ハッピーニューイヤー? やべっ、戻ってきちまった」
「とりあえず、その行事イベントから離れよっか」
いよいよ信乃は首を九十度に
小学生時代も大凡がこの感じだった。検討違いも
男の子らしい大きな手だった。
それでいて、暖かい手であった。
「大きくなったね」
「毎日牛乳飲んでっからな」
「そこはまだ子供っぽいね」
「るせえ」
人は変わる。
どうしようもなく変わってしまう。
時代が変わる。場所が変わる。生きる世界が変わっていく。だから人は適応しなければならない。変わらないと生きていけないから。変わらないと置き去りにされてしまうから。そうやって人は、苦しくならないように、悲しくならないように、身も心も新しいものに書き換えて、いつかの自分を置いていってしまう。
人は変わるのだ。自分が自分でなくなるまで変わり続けるのだ。
「ねえ、信乃」
「あ?」
それでも一つだけ変わらないものがあるのだとすれば──……。
「ただいま」
きっとそれが。
「おかえり」
この胸にあるモノなのでしょう。
◇◇◇
「見いィつけタァ」
巨大な
「すサマじイ
黄昏の闇に身を忍ばせて、異形の影は絶えず笑っていた。
その瞳に、白き少女を離さぬまま。
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