〈四〉

 地上が孕む下水のはらわたで、無数に伸びる銹錆の管から一定の間隔で水滴が弾けては消える。


 一筋の光源すら隔絶を余儀なくされた暗渠の世界には、鼻腔を磨り潰すような腐臭の闇が拡がっていた。

 排水された汚物がせせらぐ円形の水路。不浄の水面みなもに浸された地下水道は、異界めいた魔の空間を放埒な蛇腹のように伸ばし続ける。


 錆色に腐蝕した壁を黒の斑点で覆い尽くす蜚蠊の大群は、深い闇影に息を潜めている。垂涎を滴らせる痩せた溝鼠が、飢えを凌ぐために同族の生き肉に歯を立てた。がりがりがりと、咽ぶような仲間の悲鳴を無視して、一心不乱に命にすがる。


 この場所において、およそ秩序と呼べる節制は存在していない。

 混沌。

 流水にそそがれても、なお溶けることのない濃厚な混沌の塊が、倫理から外れた深淵に転がっていた。蔓延はびこる死の匂いがそれを教えてくれる。


 ぺちゃ。


 なにかが滴下する音。


 ぺちゃ、ぺちゃ。


 地下水路に反響する。


 ぺちゃ、ぺちゃ、ぺちゃ──べちゃッ。


 なにかが落下した。

 天井からと落ちていった。


 そのまま汚濁の水路に飛び込んだ物体は、泡沫をまといながら水底に触れると、沈むことなく浮力に任せて暗渠の闇へと舞い戻る。不透明な汚水の色彩を赤黒く滲ませながら、ゆったりと浮き上がる。

 それは血の色。

 生命の脈たる赤の色であった。

 程なくして、冷たい青白の肌をした五本の指先が音もなく浮上した。小さな手。母親の手を握って然るべき脆弱な掌。明らかに子供のものであった。まるで誰かに助けを求めるように手掌は無力に開かれている。


 助けて。

 痛い。

 痛い痛い痛い。


 幻声めいた酷烈な残響も虚しく、腐った汚物にまみれた濁流にふらりとさらわれて──……。


  と巨大なくちばしが水面に突き刺さる。


 上から下へ。

 逃げた獲物をついばむように。

 鳥類の採食器官にしては、るいを見ない武骨な大きさであった。この世ならざる不気味な怪物の顎門あぎとと形容すべき鋭利な嘴には、安いのこぎりのように節操に乏しい牙が規則もなくまばらに並ぶ。

 獣のように野蛮な吐息が赤黒の汚水に数多の波紋を打たせると、魚眼のように張り出た瞳孔が恍惚うっとりと細まった。


 それは上にいた。

 四肢のある影だった。

 下水道の天井に、蜘蛛の如く四肢を広げて張り付く得体の知れぬ異形は、細長い頸を伸ばして、水路に落下したを巨大な嘴で拾い上げて豪快に噛み砕く。


 血はもう出なかった。

 黄ばんだ骨と脂肪。紫がかった赤みの筋肉だけが残されていた。それを容赦なく貪る怪異の影から耳を塞ぎたくなるような生々しい咀嚼音が地下水路に轟々と響く。

 肉を磨り潰す音。

 骨を粉砕する音。

 やがて、咽喉の奥底へと嚥下した影は、血腥ちなまぐさい息吹を漫然と撒き散らしながら、言葉らしきものを発する。

 女とも男ともとれない狂った波調の雑音しらべで、誰かに問いかける。


「きュうにィんメ……おぃしカッた……でスかァ……?」


 妊婦のように膨らんだ腹の胎内で、何かが激しくうごめいた。


「まダ……たリマせエ……ンンかカ……?」


 聞くに堪えない不吉な声に呼応して、浅黒く変色した蟾蜍ひきがえるのような皮膚の臍下に、人の顔の形が逆さまに浮かび上がる。それは幼き顔貌であった。大きく開いた口唇は微かに動くものの、声なき叫びに留まる他なかった。


 誰の顔──増えていく。

 何の貌──腹の顔が増えていく。


 もはや、自らの名すら思い出せぬ怨讐の残穢は怪物の養分に変わってしまった。救えない。こうなってしまったら、もう誰にも救えない。


「モおッと……たァクさぁん……ィぃイっぱァあい……タべナいと……たべヨう……たべマシた……タベたイ……たべ……タァァァァい」


 鳥類とおぼしきいびつな嘴から、絶え間ない降雨のように濃密な赤色が垂れ落ちると、癇癪かんしゃくを起こしたかのように不快なおとを鳴らした。


「たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない。たりない」


 呪詛の如き言葉の羅列が、醜悪なくちばしの隙間から無秩序に零れる。

 巨大な目玉がギョロギョロと忙しなく動き回り、人血と涎が入り混じる粘質の液体がぶ厚い糸を引く。上下する病的に膨らんだ腹。水掻きのような薄い膜で繋がる指。細い腕。長すぎる腕。

 物の怪。

 狂気じみた怪異。

 そのように形容する他ない混沌たる異形を、この時代では〝妖魔〟と呼ぶ。


 人理の外側から受胎された〝ケガレ〟が血肉の躯体カラダを得ることによって、この世に生まれ落ちた混沌の怪物は、婦人の甲高い悲鳴のような不穏な啼き声で暗渠に吼える。


 きぃいいん……きぃぃいん……。


 むせび泣くように。


 きいいぃん……きいぃぃん……。


 又は、わらうように。


 きいいぃん……、と。


 軽い音が一つ零れる。


 からん。からん。


 それはあまりに場違いな風流の音鳴りであった。

 天井の妖魔から発せられた音ではない。その確証を裏付けるように、剽軽な足取りで妖魔へと無警戒に近づく人影がゆらりゆらりと、霞のように水面へと映る。


 からん。からん。からん。


 地下水道の暗闇から下駄を鳴らして、 それは姿を顕現あらわした。


「ぽんぽこ。ぽこりん。ぽこぽこぽん。……なんつってな。カッカッカッ。よオ。食事中かァ? 景気良さそうじゃねーか。カカカッ」


 羽織を肩に乗せた下駄の男は、舌を鳴らす蛇のようなあやしい眼光を細めては愉快そうに哄笑する。

 腰に帯刀する一本の段平だんぴら。片手で弄ぶように摘んだ煙管きせる。 真実とはまるで無縁であるかのように、虚妄がヒトの真似をして息を吸っているような、非実存的な風貌。


「こんな肩身の狭いご時世に子育てとはなァ。恐れ入るぜ。カカカッ。ワシとしちゃあ、オメーさんみてェな木端は至極どうでもいいんじゃが、そン特符とっぷにゃあ興味があるって野寺坊がなァ。

 つーわけでよォ、どれ、オメーさんや。ちょいと手伝ってやろうかい」


 下駄の男はこの世ならざるおぞましき血肉をかたどる妖魔の威圧感におくする様子は微塵もなく、ひるむことすらせず、無遠慮で快活な口調のまま一方的に語りかける。


「そんなチンケなやり口じゃア、いつまで経っても子供せがれは立派な妖魔バケモンにゃならんぜ。

 うちの首領おかしらが集めとる百鬼の座ァ狙ってンなら、まず妖気が全然足りてねぇ。お粗末なモンだ。折角の特符が勿体ねぇぜよ」


 妖魔は何も言わない。何も返さない。

 荒々しい獣の如き呼吸を止めて、変わり果てたような沈黙を選んだ。動揺と緊張。張り詰めた意識が言葉を奪う。

 妖魔は本能的に理解していたのだ。この下駄を履いた男との格の違いを。


 ──なんだ、この妖魔バケモノは。


「ちまちました殺しじゃア、なんも変わらねェぜ。カカカカッ。

 そうだ。そうだった。忘れとったわ。実はな、このしょっぱい田舎によォ……東京みやこから龍脈をイジれる退魔師が来るそうだ……。

 カカッ、目の色が変わったなァ……どうだい? ワシの口車に乗せられる気になったか? 妖魔の本質なんざその程度よ。なァに。しくじっても、きれーさっぱり、ちと死ぬだけよ」


 男はにんまりと笑った。


あやかしらしく派手になァ……カカカッ……無常無常……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る