〈三〉
朝。
七月中旬の平日。
安っぽい露草色に彩られた空が、田舎町の景色にべったりと広がっていた。雲が漂うことを放棄した清々しいほどの快晴の朝は、季節がすっかり夏に到達したことを丁寧に教えてくれる。
青空を独占した太陽から焼きつくような視線が降り注ぐ。アスファルトで固められた地表は熱を帯びた鉄板に変貌してしまって、外出する人々はハンカチやら
本格的な夏がはじまろうとしている。
暑苦しいだけの青春の夏が。
パシャ、と水が走る。
打ち水をする主婦が学校へ向かう若人たちの背後に水を撒く。弾ける冷水が渇いた大地を潤すも、それは一瞬の出来事に過ぎない。
犬のように舌を出してバテていた朝倉信乃は、水があっという間に蒸発する
山岳に囲まれた田舎町ですらこの有り様なら、さぞ都会の方は灼熱なんだろうな。
信乃は鬱陶しそうに燦々とした太陽を仰ぎながら、東京に住まう幼馴染のことを偲ぶように哀れんだ。
大日女暈音という人物のイメージカラーは白色だ。肌と髪の色に留まらず、彼女が放つ独特な雰囲気は純白の色彩を彷彿とさせる。天使と持て
大衆の偶像をヤケに大切にする彼女の主義にとって、この蒸した日差しは天敵以外の何物でもない。
信号機が赤を灯す。
前方にいた学生の集団がいつのまにか消えていた。どうやら先に行ってしまったらしい。
信乃は一人で横断歩道の前で立ち尽くした。自動車が縦に並んで三台ほど走り去る。そこから先は静かなものだ。過疎化が危ぶまれる辺境の田舎町なら、よく見る風景の一つであろう。
信号機が青に変わる。
信乃は間抜けな曲線をなぞる猫背で通学路を歩く。照りつく陽光が容赦なく身体に汗を滲ませ、無意識に歩幅を短くさせる。学校に着く頃には、からからのミイラになっていても不思議ではないと感じるほどの暑さであった。
「あちいし……ねみいし……かったりーし……帰りてえな……」
愚痴りながら半袖ワイシャツのボタンをむしる。だらしない恰好だが、この暑さなら誰も文句は言えないだろう。校則は知らない。まともに読んだことがない。
なんとなく目についた道端の小石を爪先で蹴ると三十センチだけ威勢よく飛んでから、すぐ
花は寂しげに
交通事故で亡くなった被害者への供物だろう。確か一年ほど前に年端もいかぬ子供が一人、軽自動車に撥ねられていたはずだ。事故の経緯までは詳しく覚えていないが、よくあるドライバーの前方不注意で片付けられていたような気がする。
自分は幸福なのだろう。
少なくとも、近しい間柄である者の死を未だ体験していないのだから。
それなら、幼馴染はどうだろう。
退魔師は殉職の割合も極めて高いと聞く。
「……らしくねえこと、考えるもんじゃねえな」
信乃はそれ以上のことを考えるのが億劫になり、自然と剣呑さを増した顔面を上げた。すると、視界の端で何か妙なものが映る。
背の高い石塀が続く住宅街の至る所に行方不明者の目撃情報を呼び掛けるポスターが大量に貼り付けられていた。
探しています。見かけた方はご連絡を。どんなに小さなことでも構いません。何か知っている方はご一報を。愛する我が子の行方をどうか──……。
ここ最近で異常なまでに頻発している失踪事件。
被害者は皆、十歳前後の児童だと聞く。
親族の悲嘆に暮れた叫び声が
「〝妖魔による神隠しが多発。現在目下調査中。外出の際は注意されたし〟……なんだそりゃ」
興味が失せてしまったように信乃は間抜けな
最後にチラッと横目で流すように、ポスターに載せられた数名の行方不明者の顔を視野に入れる。年若い少年少女の写真ばかりである。元気そうに笑っている表情が圧倒的に多い。自らの意思で姿を
ただ、それだけのこと。
俺にはカンケーのないこと──信乃はその場を後にした。
スラックスのポケットに両手を突っ込み、ほとんど空っぽな学生鞄を気怠げに背負って、交差点に設置された歩道橋の階段をぶらぶらと登る。
夏休みを控えた平日の午前八時。
なんてことのない日常のはじまり。
夕方には気苦労の絶えないイベントが待ち構えているのだが、朝から物憂げに心を沈めているのも馬鹿らしい。なるようになれの精神で朝倉信乃という少年は
自分にそう言い聞かせるものの、即座に否定した。
「いやいや。アイツが近くにいると大抵ロクな目に遭わねえんだよ」
辛酸を舐めるような思い出の数々が蘇る。
小学生の頃、信乃はあらゆる災難を彼女の身代わりとして受けてきた。彼女がちょっかいをかけた野良犬と最終的に取っ組み合いになったのは信乃であるし、彼女が虫カゴから逃がした巨大なスズメバチを捕まえたのも信乃であった。彼女の身辺で巻き起こる災いの大半は、彼の意思とは無関係に信乃の下へと降り注ぐ。
おかげで心身は頑丈に育った。殴り合いに怖じけぬほど強くなれた。しかし、毛ほども感謝はしていない。出来得ることなら、安静な日常を過ごしたかった信乃にとって、どれも不要な資質なのだから。
もしかしたら、また昔のように良からぬ事がこの身に降り掛かるのではないかと危惧してしまう。どちらにせよ、回避は到底できないのだから諦めるしか他ないが、気分は一向に乗らない。
歩道橋の真ん中で、ひとり肩を落とした信乃はふと立ち止まって、真横に広がる見飽きた風景に目を細めた。
山がある。
二人の遊び場だったご利益ある山だ。
標高一四〇〇メートルに達する霊峰の頂から伸びる緩やかな稜線がぼんやりと霞んでいた。どこか神々しい貫禄のある神体山は地域の象徴として町民に敬われており、縁日になると祭囃子と賑やかな喧騒に包まれることで有名だ。だが、時代の流れか、徐々に廃れてきているのが現状である。
それでも登山する際は礼節を欠かさず、合掌してから踏み込んだ。幼馴染がそうしていたから、信乃も何となく真似をした。山の麓には管理人のいない廃神社が放置されている。そこを図々しくも拠点にして、自然豊かな雑木林に遊びに出かけるのが二人の日常であった。
この時期なら、ミヤマクワガタを捕まえに山を登っていただろう。秋なら、紅葉を集めて色鮮やかな布団に二人で寝転がった。冬ならば、雪が真っ白に積もるので小さなかまくらを作って遊んだ。春になると、町の桜が一望できる高台まで登って、気が済むまで時間を過ごした。どれも懐かしい記憶だ。陽が暮れるまでずっと遊んでいた。たった二人で、飽きもせずに……。
「鬼、ね」
緑生い茂る山道を進んでいると、しばしば幼馴染が服の裾をぎゅっと掴んできた。そのまま信乃の背中に隠れるように丸まって、何もないところを必死で指差しながら、こう言うのだ。
──鬼がいる。
信乃にはそれが見えなかった。
だが、幼馴染には鬼とやらが見えるらしい。
目を瞑って臆病に怯える幼馴染を、何とかして宥めようと思案を巡らせた信乃は、やがて、鬼と戦うことを決意した。
近くにあった木を思いっきり足蹴にして揺らしたり、足元に落ちてあった枝をへし折ったりして、姿も影も見えない鬼に向かって、信乃は自らの力を誇示するように威嚇した。
虚空に対して一方的にアクションを取るのは、些か恥ずかしかったが、なぜか彼女は信乃の奇行を見ると、安堵の表情を
──そんなに怖えのか、オニ? がよ。
背中に顔を
──こわい。こわいよ。だって食べられちゃうかもしれないんだよ。
──バーカ。食べられねえよ。
──どうしてそんなことが言えるの?
──どしてって、そりゃお前、豆撒いたら逃げる腰抜けに、なんでビビる必要があンだよ。
──あれ厄払いだよ。幸せを願う行事だよ。
──知らね。
──やっぱり食べられちゃうんだ……。骨も残さずご馳走さまされちゃうんだ……! 母さま、兄さま、先立つ娘をどうかお許しください……。
──めんどくせえなあ、テメえ……。だったらアレだ。えーと。逆に。逆に俺がオニを食ってやる。白米と一緒に胃袋へブチこんでやらあ。それでいいだろ。だから、もう引っつくな。さっきからちょこちょこ靴踏んでんだよ。地味に痛えんだよ。
我ながら適当なことを口にしたものだと思った。
本当に実在するかもわからないモノに惑わされ、ただただ怖がることしかできない幼馴染に、辟易していた彼は何でも
身の丈を知らぬ虚構を。
淡々と心もなく口にした。
やがて、彼女は長い逡巡の果てに、彼の描いた虚妄を真実へと塗り固めるように、あどけない
──じゃあ、私の鬼になってくれる?
涙ぐんだ上目遣いの視線を浴びて、息が詰まる。
──どういう意味だそれ。
──みんなを守ってくれる、強くて優しい鬼がいるの。だから、鬼になって、私を守って。
ずきずきと胸が軋む。
綺麗な華の棘が心臓に刺さったような、身に覚えのない痛み。
──私と一緒に、地獄に落ちて。
寂しげに震える少女の声が、二人だけの空間に
湖面のように満遍なく水気を含んだ柔らかな双眸は夕焼けよりも熱い。頬は
彼女なりに勇気を振り絞った精一杯のお願いだったのだろう。彼女は祈るように彼の返答を待っていた。
鬼になる? 地獄に落ちる? 意味がわからない。
彼はなんだかおかしくなって笑い飛ばしたくなった。それでも幼馴染の真摯な想いを馬鹿にしてやるのは忍びなくて、どうしたものかとぐずぐす考え込んだ。しばらくて、青い空の向こうに名も知らぬ
「また妖魔が出たんだって」
その一言で、信乃は現実に引き戻される。
歩道橋の真ん中で、足を止めていた彼の横を通り過ぎていく、二人組の女生徒の会話が耳に入り込んできたのだ。
「最近、そういう事件多いよね。この前の、若い女の人のお腹が内側から食い破られてたって事件もまだ解決してないのにさ」
「聞いた話だと、ここらへんって強い龍脈ってのが通ってるらしいよ。ほら、あの廃神社がある山。今は妖魔の巣窟になってるんだって」
「ええーっ!? じゃあさ、その妖魔たちが最近の神隠し事件の犯人ってコト?」
「かもしんないよ。妖怪なんて人間の嫌がることしかないもんね。今度はあんたのトコにくるかもよぉ〜」
「ちょ、やめてよぉー! 朝から怖いじゃん」
怪談じみた話に盛り上がる二つの若い声から、逃げるように信乃は足を速めた。二人を追い抜き、歩道橋の階段を駆け足で降りると、胸の中にざわつく嫌な予感にもどかしい感情を抱いた。
心当たりがある。
「アイツらじゃねえだろうな」
遥か遠方に
「帰りに寄るか」
今日は長い一日になりそうだ。
直感が囁いた。
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