〈二〉

 大日女おおひめ暈音かさねは名残惜しげに受話器を置いた。


 約三年の期間を空けての通話であったが、幼馴染の声は相も変わらず緊張感に欠ける昼行灯のようだった。

 荒っぽい口調は幼少の頃からまるで変わっていない。やる気のない粗雑ぞざつな喋り方は健在であった。


 昔から何も変わっていない。

 それがたまらなく嬉しい。


 誠実とは程遠い彼のいい加減な声を聴いていると、過度な期待を押し付けてしまう。何も変わらず、何にも変えられず、あの頃のまま、ずっとそこで待ってくれている。そのような淡い錯覚に至るほどの、強固な不変性の一端を感じさせてくれる。


 そんなものはどこにも無いというのに。

 そんなものばかりを私に見せてくれる。


 朝倉あさくら信乃しの


 彼のことを端的に表すなら、単細胞という罵詈がこの上なく適している。物事を深く考えず、所感を抑えず、自分に素直な生き方をしているたちの人間である。

 おまけに、如何なる時も喧嘩腰を崩さないため、しばしば誰かと衝突しては揉めていた。小さな身体に湿布や絆創膏が貼られていない日の方が極端に少ないほど、暈音の記憶には幼馴染の野蛮な勇姿が刻み付いている。


 もう彼とは何年も会っていないが、あの乱暴な口調から察するに、あらぬ誤解を招いては喧嘩に発展し、時代錯誤もはなはだしい拳を握る日々を過ごしているのだろう。当の本人はその現実を憂いているに違いない。簡単に想像できてしまう。

 真偽の行方に関しては、喜怒哀楽を如実に語る彼の表情から直接聞き出せばいい。彼は噓が苦手だと、暈音は昔からよく知っている。


 明日──もとい時刻は既に当日を目前に迎えているが、大日女暈音は生まれ育った故郷へと足を運ば向ねばならない。

 それは久しく顔を合わせていない幼馴染との再会を意味する。きっとカッコよくなっているだろう。牛乳が大好きな彼だから、背丈も伸びているだろう。運動能力に関しては飛び抜けていたから、筋肉もそれなりに発達している可能性も考慮できる。もしかしたら、かなりの優良物件に成長を遂げているかもしれない。まさか、恋人が──いや、ありえない。彼の声からは、そういう浮ついた感情は聴き取れなかった。問題ない。


 乙女らしい慕情を全開にして、想像を馳せるだけで、年相応にはしゃぎたくなった。規律の厳しい世界に長らく身を置いているとはいえ、彼女もまだ十六歳の若人である。気持ちが荒ぶる時もある。

 しかし、残念ながら、彼女の帰郷は肩を休めるために費やすいとまではない。退として、重大な任務を遂行するための、一時的な帰省である。それを忘れてはいけない。公私混同は当然として恥ずべき行為である。

 暈音は荒ぶる情動を鎮静させるために、瞼を閉じて深呼吸をする。


 己を律せよ、大日女暈音。


 平安朝から紡がれてきた由緒正しき陰陽道の名家〝大日女〟の次期当主にして、将来を期待された名誉ある退魔師の一人。それが大日女暈音という価値ブランドであり、世が求める大日女暈音のすがたなのだ。

 なればこそ、演じるしかあるまい。求められた役割をまっとうすればし。そうやって、大日女暈音という人間は世界ここに存在することを許されたのだから。


 たかだか男一人に、心を掻き乱されてしまって、どうする。


「ダメかも。勝手に顔が緩んでくる」


 どれだけ厳しく言い聞かせても、彼女の紅潮した頬は意識に逆らうようにと柔らかく綻んだ。

 どう足掻いても煩悩に負けてしまう。ここ数年間、祓魔庁の広告塔として芸能活動をやらされていた反動かもしれない。そういうことに今はしておこう。

 抑圧できない歓喜の情を発散すべく、暈音はその場で肩を震わせ、無言でスリッパをパタパタと踏み鳴らした。


 彼女が住まう大日女の屋敷の敷地は広大である。立派な塀瓦で四方を囲んでいる敷地内には、築山や池を抱えたみやびな庭園があり、耐久性に優れた小さな道場が収まっているほど広々としている。

 古びた和風の邸宅らしい外観に似合わず、屋敷には最新の建築技術が施されており、防音設備は並々以上に整っている。この程度の物音では近所迷惑に発展することはない。

 それに迷惑をかける人など、ここにはいないはず──。


「暈音さま、どうかお静かに」


 中廊下の奥から小さな足音も立てずに、割烹着の下女がぬっと現れた。肌は無機質な白色で、硝子細工の瞳孔は焦点がぶれている。謙虚な言葉を発する唇は最低限の動きに留まり、着物の裾が擦れる音だけが聞こえるようだった。

 彼女は大日女の家に仕える召使いのであり、幾多の歯車で可動する精巧な人形である。人心を持たぬはずの機械仕掛けの絡繰からくりは、さも人間のような素振りで人差し指を口元に添えた。


「御当主がお休みになられています。

 昨日さくじつの会合で、お疲れのご様子でしたので、どうか今は……」


 この程度で起きるわけないだろう、あの人が。


 ほんの一瞬だけ、実母の寝室へ冷ややかな視線を送った暈音は、何事もなかったように笑顔の仮面を取り繕った。


「わかっています。ご忠告ありがとう。あなたも休みなさい。機械の式神といえど、無限に働けるというわけではないのだから」

「ご親切痛み入ります」


 式神の下女は端正に折り曲げられたお辞儀を長々と続ける。暈音は気にせず彼女の真横を通り過ぎ、自室へ戻ろうとする。

 大日女の屋敷を繋ぐ長々とした回廊を足音を忍ばせながら進み、角を曲がろうとした時点で、暈音は要件を思い出した。

 振り返った先では、式神の下女が未だに頭を深々と下げていた。暈音は構わず声をかける。


「先日、祓魔庁からお預かりした鬼啌剣きこうけんはどちらに」

「蔵に収めております」

「明日からの任務に必要です。そのためにわざわざ特定呪具管理課からお借りしたのです」

「第一號を龍脈の鎮静にお使いになられるのですね」

「ええ。過去一度も担い手の見つからなかった甲冑などあってないようなもの。むくろの召喚さえしなければ、あれはただの魂鉄たまがねの塊です。倉庫の中で埃を被せるよりかはいい」

「では、ご用意いたします」

「お願いします。あとそれともう一つ」


 融通の効かない式神へ、暈音は念を押すように強い語気で言った。


「私が、たかが電話一本で感情を露わにさせていたことを、くれぐれも母上にお伝えしないように」

「…………承知いたしました」

「その間はなんですか」

「思考の処理に時間が掛かりました」

「そうですか。そういうことにしておきます」


 顔色を変えることのない人形にこれ以上釘を刺したところで意味はない。

 懐疑的な一瞥を送ってから、暈音は明日の準備のために部屋に戻った。

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