第6話 息子の親友
私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした
いまさら離縁と言うならば もとの十九にしておくれ
(「十九の春」沖縄民謡)
同じ人と長く一緒にいて、突然、別れを切り出されたら相当ショックだろう。誰でも想像がつくと思う。長い間信頼して、頼りにしていた相手との別れ。これは男女どちらからしても辛いだろう。
今から話すのは想像しただけで辛い話。
人から聞いた話をちょっと脚色してみた。
夫(Aさん)、妻(Bさん)という夫婦がいた。子どもはいたけど、男の子一人だけ。C君。それはそれは大切に育てていたらしい。学校でいじめがあったり、不登校になったりもした。メンタルの弱い子で、集団生活が苦手だった。
最終的には、大学生で自殺してしまった。
大学に至るまでが相当大変で、小学生から精神科に通って、ずっとカウンセリングを受けていた。高校も通信制を経て、何とか皆が知っているような大学に合格した。
でも、人間関係のストレスに耐えられなかったようだ。
大学に入ると、それまでの友人関係だけでなく、男女交際という新たな苦悩が加わることが多い。C君の場合は、付き合っていない女の子とセックスしたことを他の人にばらされて、それが辛くて自殺してしまったらしい。別にその時の様子を事細かに話されたわけではなく、「〇〇君とやっちゃった。童貞だった」と、いうくらいの話だ。なぜ、こんなことで自殺するのかわからないが、彼にとっては人に言ってほしくなかったのだろう。
人によっては童貞を卒業して死ねたんだからいいじゃないかと思うかもしれないが、センシティブな話なので茶化してはいけない。
2人の夫婦仲はもともと冷めきっていた。旦那は長年、子どもがおかしくなったのは、君のせいだと言って奥さんを責めていた。そして、子どもが亡くなってから、長年考えてきた離婚を決意したらしい。
奥さんは、最愛の息子を失って、さらに夫にも去られてしまったことになる。
***
Bさんはその時、40代半ばだった。
もう一回くらい結婚できるんじゃないかと思うのは、他人事だからだろうか。
Bさんは息子を支えるためにずっと専業主婦。仕事はもともと事務系だったけど、息子が不登校だったからは、仕事をやめて、ずっと掛かり切りでB君の世話をして来た。やっと大学生になったから、晴れて自由になってスーパーのレジのパートをしていた。
Bさんの職場は同世代のおばさんがたくさんいて、人間関係が大変だった。Bさんは四大卒。周囲は中卒、高校中退、高卒、専門卒、短大卒、四大卒と色々だったっけど、四大卒はやっかまれていじめられた。
それに、息子の高校が普通の公立や私立でなく、通信制だったことも、格好の噂の種になっていた。「Bさんの息子さんって、引きこもりなんだって」と言いふらされていた。Bさんはちゃんと大学にも通ってると憤慨したが、誰が言い出したかわからないのに、言い訳して回るわけにもいかなかった。
その後、息子さんが自殺したので、これ以上好奇の目にさらされたくないと思い、Bさんは仕事をやめた。
そして、無職になってすぐに、旦那に離婚を切り出されてしまったんだ。長年何の仕事もしていなくて、自分の貯金もわずかしかない。実家は地方だが、両親とも亡くなっていて、兄弟はほとんど連絡を取っていない兄だけ。
離婚した時に、旦那は住んでいたマンションを売ってしまった。
息子の位牌は旦那が持って行った。
Bさんは、息子の供養をしていくだけの経済力がなかったからだ。
これから、Bさんがマンションを借りる時や、病院に入院する時は、Aさんに保証人になってもらうという約束はしていた。Bさんがこれから明らかに困窮していくのがわかっていながら、Aさんは奥さんを捨ててしまったんだ。
Bさんは息子が不登校だったり、フリースクールに行っていたので、ママ友などを作らず、親しい人がまったくいなかった。スーパーのパートで知り合った友達がちょっといたけど、辞めてしまってからは疎遠になっていた。
相談できる人も連絡をくれる人もいない。
1人になると、朝起きる理由もなくなってしまった。ずっと世話をしていた息子がいない人生は、何の張り合いもなかった。家賃の安い、6帖の賃貸マンションに引越したけど、段ボールを開ける気力がなくて、荷物は部屋に積み重ねられたままだった。食事は、ご飯を炊いて納豆なんかをのせて食べるだけ。
以前は、子どものために無農薬の野菜なんかを宅配で頼んでいたけど、一人だからそういうこともしなくなった。毎日寝てばかりいた。
寝ていると息子が夢に出て来る。元気な時と変わらない姿で、食卓でご飯を食べている。もともと何も言わない子だったから、全然喋らない。それでも、いるだけで嬉しかった。
「大学楽しい?」
「あんまり」
「サークルとかは?」
「全然・・・コロナだし」
学校で何が起きているか、友達がいるのか、そういうことは全然わからなかった。何で自殺してしまったのかも親は知らなかった。きっとコロナでうつ状態になっていたんだと思っていた。いつも部屋にこもりきりだった息子。リビングにはほとんど出て来なかった。
小学校の頃は、お母さんっ子だった。一緒にテレビを見たり、週末は3人で息子が行きたいところに一緒に行ったりしていた。遊園地、鉄道の博物館、アスレチック。外食の回数も多かった。一人っ子だったこともあり、他の子よりもお金をかけて色々なところに連れて行った。外では大人しかったが、家では普通で、よく喋る子どもだった。
でも、中学くらいからは反抗期で口を利かなくなり、そのままになってしまった。息子が外でどんな感じなのか、全然わからなかったし、何を考えているかも知らなかった。Bさんは学校に行かない息子のために、中学校に何度も通い、通えそうな高校を探した。
でも、進学先は通信制。それでも、高校に入ってからは、スマホを持つようになって、友達と遊びに行くから小遣いをくれと言うようになった。友達がいる。それだけで両親はほっとした。
C君は通信制に通ってるとは思えないような、普通の子だった。ぱっと見はまあまあイケメンで、身長も平均くらいあるし、育ちがよさそうに見えた。こういうのは偏見で、明らかに変わった人もいるが、普通の人の方が多い。
亡くなった後に両親が部屋に入ったら、プライベートなものはほとんど処分していたことが分かった。前から漫画とゲームが好きだったけど、半分はエッチ系の物だった。いつのまにか男になっていたC君。息子の好みを知れたのはそれくらいだった。漫画とゲームは友達のS君にあげてほしいと遺書に書いてあった。
S君。息子が通信制高校時代に出会った、陽気な男の子。何で通信制に通っているのかわからないようなにぎやかな子だった。高校時代からすでにフルタイムのアルバイトをしていた。中学ではいじめに遭っていたらしい。中学までは普通に通っていた子で精神疾患などはない。人は見た目じゃないけど、S君は不細工だった。点数を付けたら30点くらい。
でも、人懐っこくて、性格がよかった。
S君は高校を卒業してから、アニメーターの専門学校に通っていた。Aさん夫妻は、アニメなんかで食えるのかと見下していた。
手書きアニメーターの場合は、薄給、激務の職場環境だ。仕事を始めて3年くらいは月給6万円くらいしかもらえないらしい。その時期を経ても20代の頃までは、年収が110万円くらいとか。平均労働時間は11時間。実家暮らしとか、風呂なしに住まないと暮らせないだろう。
Bさんは、S君に漫画をあげたことがきっかけで連絡を取るようになっていた。S君も親友C君のお母さんだからと、Bさんのことを慕うようになっていた。C君と顔が似ていたし、面影があるそうだ。S君が家に来ると2~3時間は喋って行く。
S君は毎月、C君の命日にはお線香を上げに来ていたが、もうS君に会えないと思うと、Bさんは寂しかった。
「今月もC君に会いに行っても大丈夫ですか?」
お母さんがそれに対してLineを送った。
「実は離婚してしまって位牌がないの。マンションも引っ越しちゃって」
「え、離婚しちゃったんですか?」
「うん。もしよかったら父親の方に行ってもらえない?」
「はい。わかりました。でも、迷惑じゃなかったらお母さんにも会いたいんですけど、時間ありますか?」
Bさんは嬉しかった。自分に会いたいと言ってくれる人がまだいるんだ、と。
Bさんは頑張って部屋を片付けた。テーブルや布団を一組買って、スーパーで買い物をした。
「一緒にお昼食べない?」
「いいんですか?じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
以前は広いファミリー向けのマンションに住んでいたのに、今は小さな6帖の1Kに住んでいるBさんを見て、S君は気の毒になった。
「狭くてごめんね」
「いえ。全然。物ないですね・・・」
「断捨離したの」Bさんは笑った。家に来てくれた人は初めてだった。
19歳のSくんとBさんが向かい合って座る。S君は盛り上げるために明るく振舞う。Bさんは久しぶりに笑った。S君がご飯を食べている姿を見て、Bさんは息子が目の前にいるみたいで涙ぐんだ。S君はBさんが今もC君を諦めきれないんだと改めて感じた。
「いいなぁ。S君のお母さん」
「いやぁ・・・うちは兄弟が多いから、僕なんか邪魔者扱いですよ」
「まさか。子どもは何人いたってみんなかわいいわよ」
「でも、うち、4人兄弟ですよ。そんなにいたら、僕がいてもいなくても1人分夕飯作らなくていいって思ってますよ」
「じゃあ、うちの子になってくれない?」
S君は笑う。「あ、でも、こんな狭いところじゃ無理よね」とBさんは気が付いて恥ずかしくなった。
「僕でよかったら来ますよ。学校とバイトある時は無理だけど・・・」S君は気の毒になって言った。もともとBさんのことは好きだった。自分の母親よりもきれいだし、優しいからだ。年上だからという安心感もあった。
「本当?」
「はい」
「今日、泊まっていかない?」
「え?今日ですか?」
「うん」Bさんは焦っていた。自分の女としてもリミットが近づいていたからだ。
「夕飯も作るから」
夜は友達とオンラインでゲームする予定だったが、それをキャンセルしよう。あと、親には外泊のことをなんて言い訳しよう・・・。
「じゃあ、そうします」
Bさんは、自分を亡くなった息子のように思っているんだろうか、それとも・・・。五分五分だった。
***
S君は気まずくならないように、明るく振舞った。C君のことや高校のこと、専門学校の話などを面白可笑しく話した。
「学校の先生が超面白くて・・・先生が昔付き合ってた彼女が家突して来る人だったって言うんですよ。講義に関係ねぇだろ、って思うんですけど。その彼女、「きちゃった」って、いきなりドアの前に立ってるんだって」
Bさんは笑った。「怖いね」
「ですよね。先生は困ったから、部屋を片付けるまで待ってって言ったら、待ってる間、玄関の掃除とかしてて。うざかった、って言ってました」
「えー全然いいじゃない」
「えー。嬉しくないですよ」
Bさんはそういうのってダメなんだ・・・と思った。自分もやってしまいそうだった。
「ねえ、S君は彼女いるの?」
「オタクなのに、彼女なんかいるわけないじゃないですか!」
S君は明るく答えた。お母さんや親せきのおばさんに『彼女いるの?』と聞かれているみたいで、恥ずかしかった。Bさんはきれいだけど、やっぱりおばさんであることは変わりなかった。顔にはちょっと皺があって、特にほうれい線が気になった。あとは、シミもある。
彼女、いないんだ。Bさんの目がキラリと光った。
その夜、BさんはS君にシャワーを浴びるように勧めた。
「これね。Cが着てたの・・・」そう言ってスエットの部屋着を取り出した。
「へえ。そうなんですか。洋服も取ってあるんですか?」
クローゼットは段ボールが山積みになっていた。
「もし、着られるのがあったら持って行って。男の子の服だから」
「いいんですか?」
S君はB君がけっこうおしゃれだったのを思い出した。服をもらえるんだったらラッキーだった。
S君は、Bさんが自分を息子代わりにしたいんだろうなと思った。もっと、息子みたいに甘えてみようか・・・どんな風に?膝枕とか?肩をもんだりとか・・・そんな妄想をしながら、シャワーを浴びていた。シャワーの音にかき消されたように声が聞こえた。あれ、空耳かな・・・。
「Sく~ん」
Bさんが脱衣室に入って来たらしい・・・何だこのAVみたいな展開は。S君は想像していたけど、微妙だった。亡くなった親友のお母さんに迫られるという状況。
「背中流してあげる」
そう言って裸のBさんがいきなり入って来た。S君は目を合わせられなかった。
「座って」そう言って、風呂椅子を差し出した。
目の前の鏡にはBさんの裸が写っていた。胸がちょっと垂れていて、おなかが出ていた。おばさんの体型だった。母親の裸は何年も見ていないけど、同じような感じだった気がする。S君は見ないようにした。C君はお母さんとお風呂に入ってたんだ。あんなクールな顔をして、意外だった。
「C君はお母さんとお風呂に入ってたんですか?」S君は照れながら言った。
「全然・・・小学校の4年生くらいから一人で入ってたの・・・こんな風に、一緒に入ってみたかったなって思って」
「はぁ」
きっと背中を流してくれるんだろうと思った。
Bさんは泡で出て来るソープを手に取ると、直に背中をなぞり始めた。指先で筋肉をなぞる。次第に肩をなぞり、手前にまでBさんの手が滑りこんできた。泡を足してもっと際どい所まで撫でまわす。
あ、そういうことか・・・S君は気が付いた。別に拒否する理由もないし、そのままBさんの好意を受けることにした。
***
何もかも初めてのことばかりでS君は照れくさかった。
でも、相手がBさんだから安心感があった。今までさんざん、ネットや漫画で見たけど、こんな感じなんだ~とS君は大人になった気がした。
「毎日一緒にいたいなぁ・・・無理かな?」
Bさんは甘えた声でS君に言った。
「俺、寝るの遅いんで・・・絵の練習しないといけないから」
「そっか・・・ごめんねわがまま言って」
「いや・・・でも、できるだけ会いに来ます」
S君は言った。その頃にはBさんのことが好きになっていた。
「俺、Bさんのこと彼女だと思っていい?」
S君は男らしく言った。
「うん。なんだか恥ずかしいけど・・・」
BさんはS君の反応が嬉しかった。おばさんだから見下されると思ってたのに、彼女にしてくれるなんて・・・いい子だな。
Bさんは、その次の日にすぐに派遣の登録に行った。金を稼いで男に貢ぐためだ。寝たきりの生活から嘘のようにBさんは蘇った。ブランクがあるから、電話の仕事しかなかったが、時給がいいからすぐに決めた。
S君は初めて彼女ができたからすっかり夢中になってしまい、Bさんの部屋に毎日来て泊まって行くようになった。
S君は生まれて初めてコンドームを買って、Bさんの部屋に持って行った。
でも、Bさんはもう閉経してるから大丈夫と言って使わせなかった。でも、月に何回か断られる日が続いたり、シーツに血が付いていることもあって閉経してないんじゃないかという気もした。Bさんに尋ねると「不正出血よ」と答えて笑っていた。S君は子供ができたらどうしようと思っていた。
それから3ヶ月ほど経った頃、Bさんは具合の悪い日が増えて行った。
「ちょっと気持ちが悪くて・・・」
Bさんは横になってしまった。
「じゃあ、何か作るよ」
「食欲がないから・・・」
「じゃあ、何か買ってこようか?」
「いいの?」
「うん。じゃあ、マックでポテト買って来てくれない?ポテトのL。後はお茶を買って来てほしいの・・・」
そう言って2千円渡した。支払いは必ずBさんだった。S君はお金がないから、経済的にはかなり助かっていたのは事実だった。S君が気にして「お金大丈夫?」と、聞くと「私、離婚した時にまとまったお金もらったから。それに働いてるし」と答えた。
「具合が悪いんだったら、病院行った方がいいんじゃない?」
「大丈夫。ありがとう。元気になったら連絡するから、ごめんね」
Bさんは言った。それからはLineを送っても、あまり返事が来なくなった。
それでも、時々家にいきなり尋ねて行ったりした。自分のことが嫌いになったのか、他の彼氏ができたんじゃないかと不安になった。
「僕たち今も付き合ってる?」と、S君がLineを送ると速攻でBさんから返事が来た。
「ごめんね。私、やっぱり年だし・・・S君にはふさわしくないと思う。しばらく、会うのよそう」
S君は、C君の月命日に、Aさんの所に行った。以前とは違う気分だった。元カノの旦那だからだ。Aさんは40代半ばのカッコいいおじさん。金があって男らしかった。家に行ってみたら女の人がいた。30代くらいのきれいな人だった。その時、Bさんのちょっと皺のある顔が思い浮かんだ。やっぱり、若い方がいいよな・・・。
「紹介するよ・・・。安藤さん。今度再婚しようかなと思って」
「あ、そうですか。おめでとうございます」
S君は挨拶した。いつも通り明るく振舞った。安藤さんは優しくて、気の利く人だった。Bさんとこの人なら、みんな安藤さんを選ぶだろうと思った。Bさんが気の毒になった。今、どうしてるんだろう・・・。
「美沙子がどうしてるか知ってる?」
安藤さんがいないときに、AさんはこっそりとS君に尋ねた。
「今、具合が悪いみたいで・・・しばらく会ってません」
「あ、そうなんだ・・・」
Aさんは口ごもった。
「付き合ってる人とかいるのかな?」
「わかりません・・・そんなこと聞けないし」
Aさんは自分だけ再婚して、ちょっと申し訳なくなった。
***
A君はコンビニでバイトをしている。レジの中に立っていると、同じシフトの人と自然と仲良くなる。
「S君って彼女いるんだっけ?」バイト先の主婦の人が尋ねた。30歳くらいで、茶髪でヤンキーだけど、いい人だった。
「うん。でも、最近会えてなくて・・・」
あ、いるんだ。と意外な顔をしていた。
「え~。喧嘩してるの?」
「そうじゃなくて、具合が悪いからしばらく会いたくないって」
「病気?」
「寝てばっかりで」
「彼女、妊娠してるんじゃない?」
その人は冗談で言った。
「え?」
S君は、そうかもしれない・・・と思った。一回も避妊したことがなかったから、子どもができてもおかしくなかった。大丈夫かな、連絡してみようかな・・・。
でも、怖くてできなかった。S君はそれからは気になって仕方がなく、子どもを見捨ててしまったような罪悪感に襲われていた。20で45歳の女の人と結婚は現実的じゃない。金はまったくないし、養うなんて無理だった。相手もS君との結婚を望んでいるわけじゃないんだから・・・。
1年後、S君はようやくBさんのアパートを訪ねた。何度Lineで連絡しても返信がなかったけど、子どもがいるなら、結婚を考えないといけないと思ったからだ。生まれた子に父親がいないとかわいそうだとS君は思った。1年間本気で悩んで、Bさんにプロポーズしようと思っていた。まだ食えないけど、何年か待ってと言うつもりだった。
やっぱり、マンションの廊下にはベビーカーがあって、ビニール袋がかけて床に置いてあった。共有スペースに物をおくのは本来は違反なのだが、それだけ家が狭かったのだ。
S君はインターホンを鳴らす。そのマンションは築年数の古い安物件でインターホンはカメラがない。誰も出て来ない。
でも、玄関の横の台所の窓からは光が漏れている。しばらくして、魚眼レンズが暗くなった。誰かが覗いてる。
「いるんだよね?開けてくれるまで帰らないよ」
S君は声を掛けた。
中からガチャっと鍵を回す音がした。
「久しぶり」素顔のBさんがチェーンの隙間から見えた。疲れ切ったような顔。髪はぼさぼさで、さらに老けたようだった。
「何回も連絡したのに・・・入るよ。チェーン外して」そう言って、ドアを開けると 、Bさんは素直にS君を中に入れた。
中からは赤ちゃんの匂いがした。使用済みのオムツを廊下に置いているんだろう。
久しぶりに嗅ぐ小さい子どもの匂い。
S君は何も言われなくても、台所で手を洗って、うがいをした。
これから自分の子どもに会うんだ・・・。
久しぶりに入る6帖の部屋は足の踏み場もないほど散らかっていた。洋服やおもちゃ、子どもの病気の本。
すさんだ生活をしているのがわかる。
そこにはベビーベッドがあった。柵の隙間から赤ちゃんが寝てるのが見えた。弟と妹ができた時みたいだった。僕は赤ちゃんのオムツだって替えられる、と自信があった。育児に慣れてないその辺の男たちとは違う。
「僕の子だよね?」
「違う。違う人の子」
「嘘だよ・・・見せて。子ども」
「別にいいけど、Sの子じゃないからね」
「またまた・・・」
僕はちゃんと責任を取るからね・・・。
そうでないと、Cだって僕のことを親友だと思ってくれないだろう。
S君はワクワクしながらベッドをのぞいた。
そこには、かわいい赤ちゃんがいるはずだった。
「え?」
S君は思わず声を上げた。
寝ていたのは、気味の悪い肌色の塊だった。
全体的に浮腫んでいる。
頭と体のバランスが悪い新種の生物。
これが赤ちゃん?
S君はショックを受けて言葉を失った。
「かわいいね」震える声で言った。
「最近笑うの」
まさか・・・S君は思った。気のせいだよ。
「名前何ていうの?」
「S」
「僕の名前だ」S君は焦った。名前を使われることによって、知らないうちに責任を負わされているみたいだった。
「S君の名前好きだったから・・・ごめんね勝手にもらっちゃって」
「病気なの?」
「うん」
「そうなんだ・・・大丈夫?一人で?」
「大丈夫。彼氏が協力してくれるから」
「そ、そうなんだ。彼氏いるの?」
「うん。もうすぐ帰って来る。早く帰って」
S君は嘘なんじゃないかと思ったけど、その場から立ち去りたかった。自分の手には負えない。すぐに部屋から出た。
「急に来てごめん」
「ううん。来てくれてありがとう」
Bさんは寂しそうに笑った。
「ありがとう。すごく感謝してるの・・・」
「ごめんね。ほんと、役にたたなくて・・・」
S君は他の言葉が思いつかなかった。
Bさんは首を振った。
S君はほんの数分いただけで、Bさんの家を出た。
・・・あれが俺の子?
あれが赤ちゃんだって?
駅までの道を歩きながら、S君の目には涙が伝っていた。
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