影女

岡崎昂裕

第1話

影女


「聞いてんのかこらあっ!」

客もまばらな深夜のコンビニに怒声が轟く。

新人のバイトは顔面蒼白だ。

クレーマーである。

二人組の中年ヤンキーで、近隣では悪名高い。

背の高い男は西本といい、もうひとりの腹が突き出た奴は秋吉という。

ところどころのコンビニを襲っては、言いがかりをつけ酒やたばこをケース単位、カートン単位で脅し取る。

盗むわけではなく、クレームに対する謝罪として店側が渡したのだから、窃盗にはならないし脅迫や恐喝にもならない。

実に巧妙なやり口なので逮捕はされていないが、この街のコンビニエンスストアも、地元警察署の生活安全課も、そろそろいきり立ち始めていた。

現行犯なら警察も動きようがあるのだが、犠牲になった店舗の責任者が被害届を出さなかったら、事件にすらならないのである。

彼らのせいで廃店に追い込まれたコンビニもあるというのに。

そして今夜、新人のバイトは泣きべそをかきながら、ふたりに翻弄されていた。

「おらあ!どうすんだ!サンドイッチに入ってた釘、いくらで買うんだ!」

折れ曲がった錆だらけの釘。

そんなものがサンドイッチに入っているわけがないのである。

完全に仕込だ。

だが、怖い。

バイトには怖すぎる相手だ。

「誠意みせろ、こらあ!」

折悪しくオーナーは不在、先輩のアルバイトは急病で欠勤。

しかも深夜。

アルバイトの若者は泣く泣くタバコを一カートン取り出し、手渡そうとした。

「たったひと箱ってのはどーゆーことだよ!」

「ケチってんじゃねえぞ!ハダカで渡すな!袋に入れろ!」

監視カメラはあるが録音機能はない。

映像は店員が進んで手渡したとしか思えないのである。

「また来るぞ」

ヘラヘラ笑いながら、ふたりが袋を取り上げて立ち去ろうとした時だった。

入り口が開いた。

女がひとり入ってきた。

「いらっしゃいませ……」

場の空気を悟られまいとするかのように、バイトは明るい声を装った。だが、次の瞬間、異様なことに気付いた。

二人組のクレーマーは女を挟み、

「こんな時間にひとり歩きかよ」

「危ないぜ、ねえちゃん。送ってやろうか?」

女の手を掴もうとした。

女は目深に帽子を被り、マスクもしている。

黒のTシャツに黒のパンツ、手袋もしている。

車で来たのだろうか、その割にはエンジンの音も聞こえなかったしライトにも気づかなかった。

おかしい、と思ったバイトは、ふたりの男が女を襲おうとしているのを見て、今度こそ非常ベルのボタンを押そうとした。

だが、その指先が凍りついた。

女の手首を掴んだ背が低くて太った方の男が、何がどうなったか、突然宙を舞って転がった。

次の瞬間、女が棒のようなモノを振りかざした。

と思ったのも束の間、その棒は太った男の胸の真ん中、心臓の辺りに深々と突き刺さっていた。

男が悲鳴を上げる前にその棒状のモノは引き抜かれ、唖然とする長身の方の男の顔面を真横に薙いでいた。

上あごから上が、ごとりと床に落ちた。

女が持っていた黒い棒状のモノは、二〇㎝を超える刃渡りの刃物に、光を反射しないよう黒い塗料を塗ったものだということに、アルバイトは気づいた。

女は斃れたふたりの男の衣服で血を拭き取ると、何事もなかったかのように踵を返し、店から出ていった。

その間、アルバイトには一瞥もくれなかった。

アルバイトはしばし呆然としていたが、ハッと我に返り、非常ボタンを押した。


駆けつけた警察官は現場の凄惨さに息を呑んだ。

若い警官などは店内に充満した血臭に気を失いそうになったほどだ。

アルバイトは、監視カメラに映った映像を警官に見せた。

「すげえな、この女」

「目にも止まらない早業かよ」

被害者二人に対する同情の言葉は、誰の口からも出なかった。


犯人の映像は公開され、指名手配されたものの、何の情報も得られない。

怒り狂ったのは、ふたりのクレーマーの親たちだ。

ふたりの父親たちは警察署で暴れた上に、事件現場のコンビニに放火しようとした。

だが、火のついた火炎瓶を持ったまま、首を斬り裂かれて死んだ。

今度は目撃者すらいなかった。


いつしか黒ずくめの女は影女と呼ばれるようになり、ネットで物議を醸した。

正義の黒天使と称賛する者もいれば、殺人はやり過ぎだと非難する者もいた。

警察は、事件の起きたコンビニの周辺から捜査を行い、その範囲を広めつつあった。

だが、毛ほども引っかからない。

「女で格闘技のプロ、しかも田舎町での事件、絶対に誰かが知っていてもおかしくないはずなのに、誰もなにも知らないってことがあるのか?」

と、聞き込みに当たった地方の所轄の刑事や制服組が、呆れるくらいに手掛かりが掴めなかったのだ。

そして時が過ぎると別の事件が発生し、影女の捜査に関われる人材が減る。

忘れさられたころに、新たな影女事件は起こった。

関越自動車道で煽り運転をしていた男がいた。

小さな子供を乗せた軽乗用車を煽り、高速道路の走行車線で前に回り込み、車を止めさせた。

子連れの軽乗用車を運転していた父親はパニックに陥った。

妻と子供を守らなくては。

それだけ考えて、煽りドライバーに向かって叫んだ。

「子供が乗っているんです、危険な行為はやめてください」

 心からの願いだったが、相手の心には届かなかった。

「うるせーーーーっ!とろとろ走りやがって!こっちは急いでんだよ!」

「でも、僕は追い越し車線は走ってないですよ、走行車線を」

 と言いかけたが、

「うるせえ!じゃあなんだ、俺がお前のために、追い越し車線に行かなきゃなんねえのか!それは俺に迷惑だろうが!くっそうぜえ!こらあ!降りろお、降りて謝罪しろや!」

 理不尽で暴虐非道なものの言い方だった。

「殺すぞこらあ!出てこいこらあ!ちんたら走って迷惑かけて、因縁つけてんじゃねえぞ、こらあ!」

 男は軽乗用車のドアミラーを蹴りつけて壊し、ワイパーを捻じ曲げ、フロントガラスを拳で殴りつけた。

 運転席側のドアを蹴りつけ、出てこいと居丈高に叫んだ。

 車の中にいた小学生の女の子ふたりは恐怖に怯え、泣き叫んだ。

 その様子が男の残虐性に余計に火をつけた。

 弱者を甚振ることに、殊更に快感を覚える人間というものは、少なからず存在する。

 男は自分の車から、何やらバールのようなものを取り出して戻ってきた。

 そして、軽自動車のフロントガラスを粉々に砕き割ったのだ。

 父親はすでに一一〇番通報していたが、警察が到着する前に、殺されるかもしれないという恐怖を感じていた。

 男はフロントガラスを剥ぎ取り、中に侵入してきた。

 助手席の母親が悲鳴を上げ、男は、

「うるせえ!ぶっ殺してやる!」

 と叫んだ。

 そして、バールのような金属の尖った先端で、母親の顔面を突き刺そうとした。

 父親が母親の顔を覆うように身を乗り出した。

「邪魔すんじゃねえ!」

 男は喚いて父親の顔をバールで殴った。

 鮮血が飛沫となって飛び散った。

 子供たちは泣き叫び、男は勝ち誇ったように雄叫びをあげた。

 そのときだった。

 男の口から雄叫びが消えた。

 男は軽自動車の上から消えた。

 周囲に見物渋滞を引き起こしていた野次馬たちや、面白半分に動画撮影していた連中は、ありえない光景を目にした。

 バール男の体は高々と宙に浮き、路面に叩きつけられたのだ。

 相当に痛かったのだろうか、男は目を白黒させ、呼吸が止まったかのように全身を痙攣させた。

「うわわわ!」

「マジかよ!」

 野次馬たちもうろたえた。

 そこに立っていたのは、影女だった。

 影女は、バール男にゆっくりと近づいてきた。

 バール男は、やっと思いで立ち上がり、

「てめえ、てめえが俺を投げたのか!」

 と、息巻いて飛びかかろうとした。

 しかし、影女の振り払った手で、あっさりと跳ね飛ばされた。

 バール男は、今度は頭から路面に落ち、失神した。

 影女はバール男の乗っていたミニバンに乗り込むと、いきなりバックして男の体に乗り上げた。

 続いて今度は前進し、また男を轢いた。

 凄まじいスピードで、何度も何度も、バール男の体を、彼の車で轢いた。

 バール男は最初こそ悲鳴をあげていたが、そのうち声も出さなくなった。

 そのうち辺りは血肉の残骸が散乱し、パトカーが到着したとき、バール男は原型をとどめていなかった。

 影女は、いつの間にか姿を消していた。

 

 この事件はマスコミに大きく取り扱われた。

 被害に遭った父親の車載カメラで、バール男の理不尽で身勝手な暴力のシーンが撮影されていたため、彼の死に憐憫の言葉はほぼなかったが、影女という恐怖の存在は巷に浸透した。

 逆に、影女に対して反発する暴力嗜好の強い連中が、

「俺を殺せるもんならやってみろ!」

 と、動画サイトで影女を挑発する暴力行為を生中継する若者が現れた。

 ライブだったから、視聴者はその若者が生中継の最中に殺されるかもしれないという期待感満々で観ていた。

 そしてそれは起こった。

 日本で最も人通りの多い渋谷のスクランブル交差点で、無差別に暴力行為に及ぼうとしていたユーチューバーが、大勢の警察官に飛び掛かられたのだ。

「させるかバカやろう」

「警察舐めてんじゃねえぞ」

「離せ、こらあ、俺は影女と戦いたいんだよお!邪魔すんじゃねえよ!」

「てめえ、バカか。殺されるところだぞ」

 警察官の言葉に、若者は慄然とした。

 現実が身に染みた。

 留置所に入る前に、担当した警察官に告げられた言葉が、若者を心胆寒からしめた。

「お前が挑発した影女はな、お前が思っているような存在じゃねえんだよ!いきがってんじゃねえぞ!」

 では、影女とは、どういう存在なのか。

 答えを出せるものは今のところいないようだ。


 その後、影女は現れなかった。

 

 海外の無責任なマスコミは、こぞって書き立てた。

 いわく、

「日本人は第二次世界大戦で世界の国々に迷惑をかけた。だから、その報いを受けるのだ」

 アメリカ、ニューヨークタイムズ。

「日本は我が国の女性を奴隷として酷使した報いを受けている」

 韓国、朝鮮日報。

「日本は我が国に対する侵略の報いを受けている。何の反省もない証拠だ」

 中国、人民日報。

「日本の国土はロシア人のものだった。それを黄色い猿どもが占拠し我々の資産を簒奪したから報いを受けたのだ」

 ロシア、プラウダ、アガニョーク。

 イギリスがフランスが、イタリアがドイツがルーマニアが、シンガポールがベトナムがミャンマーがタイがカンボジアがフィリピンがインドネシアが、イランがイラクがエジプトがモロッコが、パキスタンがウズベキスタンがインドが、メキシコがチリがブラジルがキューバがアルゼンチンがベネズエラが、オーストラリアがニュージーランドが、ナイジェリアがコンゴがガーナが南アフリカ共和国がケニアがタンザニアが、数えきれないほどの国々が、日本を揶揄し侮辱し、影女事件を自業自得と罵り嘲った。

 それも、数日とは続かなかった。

 それぞれの国でも、同じような、いや、もっと凄惨な事件が発生し、身分の上下に関わらず、多種多様の悪人が突然現れた黒い女に無差別に殺害された。


 日本を侮蔑した国の人々は、もう言葉もなかった。


 そんなある日、ネット動画に、ひとり女性が現れた。

 顔はわからない。

 低いが美しい透き通った声で、こう囁いた。

「なぜお前たちは、私を人だと思う?」

 と間を置いた。

「影女と呼んでいるらしいが、私には別の名前がある。お前たちには名乗って聞かせるほどの価値もないが」

 と、静かに静かに笑った。

「なぜお前たち、とりわけ男たちは、自分たちが罰を受けなければならない存在だということに気が付かない?」

 そして女は低く笑った。

「せめて、罰の時代の到来ということくらいは、お前たちに教えておいてあげましょう。余談だが」

 と女はまた、一息ついた。

「人類が存続するのに、必ずしも男は必要ない。精子はきっかけに過ぎないのだと、お前たちの科学者も十分わかっているはずだ」

 女は静かに静かに、ゆっくりと語った。

「特に、がさつで平和に水を差す以外に、なんの才能もないくだらない暴力的な男たちとそれに追随する一部の女たちなど、人類の存続、いや、この星の存続に何の貢献もしないどころか、かえって私たちの太陽系を破壊する危険性さえある。いずれ処分するべきだと考えていた」

 また長い間があった。

 女は再び語りだした。

「日本でテストをしたとき、世界の人々が気づくかと思ったら、何にも気づきもせず、他山の石、対岸の火事とばかりに揶揄しただけだったとは、私も驚いた」

 その声は、かなり悲しそうだった。

「お前たちは人種の違いやイデオロギーの違いで自らを分別しようとしているが、私にしてみれば、その高等生物とかいう人間とやらは、色こそ違え皆同じ、プラスチックごみか金属ごみ、もしくは皮膚に湧いた疥癬の症状の違い程度のものだというのに。同じ病巣、同じ伝染病。胃にできた癌と腸にできた癌、インフルエンザと新型コロナウィルス、そのくらいの差しかなかったというのに。なぜ優劣をつけたがる」

 動画は消えた。

 そしてその翌日から、人類の栄華は地球上のいたる部分から、少しずつ、剥がれ落ちるように消滅していった。

 ただ、滅亡していったわけではない。

 

影女の言葉の本当の意味を、生き残った人類が知るのは、それから随分と先のことだった。


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影女 岡崎昂裕 @keitarobu

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