第10話 本編6 奇妙な相談(3), 本編7 軟禁(1)
「そしたら急に態度が変わって。一度結んだ労働契約を反故にするつもりなら労働局に訴えるぞ、とか、本部の方に乗り込むぞ、とか。ここでひと暴れするって勢いでした。参りましたよ」
「で、折れた訳ですな」
「仕方ないですよ。ドアのすぐ向こうには、デイサービスをご利用中のお年寄りが大勢いらっしゃるのですよ。要介護の。全身をほとんど動かせない重度の要介護者もいるんです。そんな所で暴れられたら、皆さんが驚いたり怖がったりするのは当然ですが、さらには怪我人だって出かねない。普通の人なら避けられることも、避けられない訳ですからね。しかも、年寄りなりに体ももろい。骨折したり、血圧を上げてしまったり、最悪の場合、亡くなってしまうことも考えられるでしょ。だから、こちらが譲歩するしかなかったのですよ」
鵜飼は深く頷いてから、さらに尋ねた。
「どう譲歩されたのですか」
「とりあえず、三箇月は契約書の内容で働いてもらうことにしました。試用期間ということで」
鵜飼と阿鷹が顔を見合わせる。鵜飼は顔を前に向けた。
「給料は」
「給料も通常通りです」
阿鷹が鵜飼の腿を叩く。鵜飼は軽く咳払いをしてから、林田にもう一度尋ねた。
「試用期間中に全額支給というのは、そういう経緯にしては、ずいぶんと気前の良い待遇なのでは?」
「とんでもない。一応の形だけです。ですが、山口は最初、全額を前払いでと言ってきたのですよ。さすがに、それは契約書にないと撥ねつけました。でも、いろいろと大声でゴネるものですから、とりあえず今週一週間分だけ現金で渡してあります。だって……」
鵜飼が林田に掌を向けて言った。
「承知しています。賢明なご判断だと思いますよ。この山口という男、最悪の場合、その筋の人間だという事も考えられますからな。慎重に対応しないといけない」
林田は鵜飼を指差して何度も早く頷いた。
「そうでしょ。そうなんですよ。そう思うんです、僕も。ですが、今後どうしたらいいものか。介護現場で働かせようにも、福祉関係の資格は何も取得していないようですから、保険適用の介護業務に従事させる訳にはいきませんし、この豊島さんのように無資格でもできる介助の仕事はあるんですが、あの山口という男はすぐにキレる危なそうな奴だから、こちらとしても、利用者様に接する仕事はさせたくない。営繕の方も足りている。まあ、そんな男にガス設備や配管関係の部屋の鍵を預けられませんしね。送迎サービスの方を考えたりもしたのですが、運転免許証を見せてくれと言ったら、持ってないと言うんですよ。だから当然、それもダメ」
鵜飼は話の途中で豊島を一瞥した。名刺に肩書の記載が無い訳である。
手許の履歴書に視線を戻した鵜飼所長は、改めてその資格欄を覗いた。そこに運転免許の記載は無かった。
「それで、とりあえず清掃員ということで納得はしてもらいました。まあ、三箇月の辛抱だと考えれば、それでいいのかもしれませんが、利用者様の安全を考えると一日でも早く解雇したい訳ですよ。こちらの本音としては。それで、こちら様に」
鵜飼が険しい顔で腕組をした。
隣の「別室」では鳩代が首を傾げている。
応接室の鵜飼は手を解くと、片方の手を林田の前に差し出して言った。
「その問題の契約書とやらを拝見させてもらえますか」
鵜飼新一は怪訝そうに眉を寄せていた。
7 軟禁
林田から別の書類を受け取った鵜飼は、読み慣れたようにその「契約書」の最後の頁を捲り、そこから一頁だけ戻って解雇に関する条項を読んでいった。彼は契約書の上で視線を左右に動かしながら林田に言った。
「なるほど。たしかに解雇条項の中に試用期間の事が明記してありますな。これなら、試用期間中に本採用に至らないと判断されれば即日この雇用契約を使用者側から解除できることになっている。つまり事実上、解雇できる」
契約書を閉じて顔を上げた鵜飼は、林田の顔を覗いた。
「ですが、その判断には理由が必要ですな。その理由を我々に探ってほしいという訳ですか」
林田陽一は明確に頷いた。
「そういう事です。何か解雇に結び付けることができるような明確な理由が見つけられないものかと」
横を向いた鵜飼は、また阿鷹と顔を見合わせる。再び前を向き、彼も頷いた。
「わかりました。で、その山口が働き始めて今日で何日目になるのです?」
「来たのが一昨日ですから、今日で三日目です。今朝も定時に出勤して、皆と一緒に朝礼に参加していましたよ。職員用のお膳でしっかり朝食まで取って。図々しい」
「え?」
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