夢幻の市場
岡崎昂裕
第1話
夢幻の市
こんな賑やかな市場が近所にあっただろうか。
廃工場跡のような破れの目立つ天井から、雨垂れが落ちてくるのも厭わず、集まった人々は無造作に並べられた生鮮食品に群がる。
山積みにされた野菜が瞬く間になくなっていくのだが、次の荷が重ねられて品の尽きることはない。
肉の売り場は露店だが不思議なことに、気温が生温かいにも関わらず虫一匹たかっていない。
新鮮な真っ赤な肉に、ミルクのように真っ白な脂肪が差していて美味そうだ。
魚も同様。
ただ、こちらはネズミのような小動物がいるためか、大勢のネコが周囲を守っている。
大人のネコだけでなく、子猫もいる。
小さな昆虫を捕え、誇らしげに店主に店に行くと、小さなマグロの切り身がもらえる。
それが嬉しくてたまらないらしい。
鰯や鯵、鯖や鰹、鮪、鰤、貝類や海老、蟹などのポピュラーな魚介に混じって、見たこともないような奇妙な姿をした深海魚のようなものもある。
それを慣れた手つきで捌いていく店主。
巧みな技に僕が見惚れていると、ポンポンと背中を叩くものがある。
知らない顔の男が立っていた。
歳はそう、初老というところだろうか。
ややふっくらとして柔和な笑みを浮かべているが、捉えどころのない顔つきで、どこかで見たことがあったとしても、いつの間にか忘れてしまって二度と思い出せないような表情をしていた。
「元気かね」
「は?はあ……」
誰だっただろうか?
「誰だったか、思い出そうとしても無理だよ、私と君は、今が初対面なのだから」
「初対面、ですか?」
初老の男は笑って頷いた。ベンチに腰かけると、僕を誘った。
「何か御用ですか」
といいかけた鼻先に、突き出された手には、温かいコーヒーが注がれた紙コップが握られていた。
「まあどうぞ」
香が鼻腔を満たすと、ホッと肩から力が抜けて、思わず僕も微笑んだ。
「いただきます」
一口含んだ。
ああ、美味い。
「賑やかだろう、この市場」
「ええ、大盛況ですね」
折あしく雨模様で薄暗い空の下ではあるが、なにしろこれだけの人出である。品物は飛ぶように売れ、そこかしこで景気のいい売り子の声や買い物客の笑い声が飛び交っている。
まだ覗いてはいないが、屋台も出ていて良い匂いが漂ってくる。
「こういう場所は、ガス抜きに必要なんだよな、みんな鬱積したストレスに苦しめられてるからさ」
と男が言うのに、僕は何の考えもなしに、そうですね、と応じながら、周囲を見渡していたのだが、
「あっ!」
思わず声をあげてしまった。
「おいおい、大声だな、どうしたんだ?」
僕は慌てて指を差して見せた。
「い、今歩いていた人が、突然消えたんです!」
市場から出た先、仄暗い道の向こうに歩いていった人影が、ふっと消えてしまった。
「み、見てませんでしたか?」
慌てふためいて訊いたが男は、
「ふむ、買い物を終えて帰宅したんだろうな」
と答えたのみで、僕は唖然とし、
「帰ったんじゃない、消えたんですって!」
立ちあがって道の向こうに駆け出そうとした。
「まあ待ちなさいって」
男は穏やかに僕を止めると、
「いいからいいから落ち着いて、座ろうよ」
と笑いかけた。
僕は凝然として男の顔を見詰めていたが、確かに慌てても仕方ないと思い直し、再び男の横に座った。
「なあ、若いの。あんたはここに、なにしに来たんだ?」
「なにしにって……」
あらためて訊かれると困る。気がついたらここにいたのだ。
「若いの、名前はなんていうんだね?」
「名前?名前は……」
はて?
自分の名前がすぐに出てこないなど、どういうことだろうか?
「ササヤマです……」
そうだったっけ?ササヤマだったか、僕は?
「そうかい、ササヤマさん。俺の名はラジョウだ。よろしくな。ところで、君の体は何でできている?」
「はあ?」
僕はラジョウと名乗った男の顔をまじまじと見た。
「なにでできているって、そりやあタンパク質や水や、カルシウムなんかで……」
答えようとすると、
「真面目だなあ、ササヤマさん」
と男はさもおかしそうに笑うのだ。
「聞かれたから答えたんじゃないですか」
幾分憤慨すると、
「悪い悪い、そう怒るな。まあ、その通りなんだが、いうなれば君も俺も、物質でできているわけだ」
そりゃそうだ。
「生き物はその形態を為す物質を維持するために、代謝を行うから、補充を常に行わなくてはならない。つまり、食事をしなくてはならないわけだ。我々の体は、食べたもので構成されているのだからな」
言われるまでもない。
「そういう意味ではこの場所は、正に我らにとって命の源とも
いえる。そうじゃないか?」
「おっしゃるとおり、ですね……」
何が言いたいのだろうか。
「そのことと、さっき消えた人とどんな関係があるっていうんですか?」
と僕はまた道の先を見た。
すると、また人が消えていく。今度は次々と。
しかし、誰かが騒ぎたてるわけではなく、市場の中はますます賑わっていた。
「なあ、ササヤマさん。物質の最小単位はなんだ?」
「最小単位って、原子のことですか?」
「う~ん、今は素粒子っていうんだけどねえ」
「ああ、そうか。すいません、学校いって習ってた時代が古いもんで」
「それはお互い様だよ。今では原子ですら構成要素がわかって、その構成要素すらも分割されるということが判明すれば、今度はそれが素粒子と呼ばれる、最小単位の概念は次々と書き換えられていく、正に無限小の世界だ」
何を言いたいのか、益々わからなくなってきた。
僕の表情にラジョウは笑いを浮かべたが、
「まあいい、何を言いたいのかっていうと、素粒子の研究、さらに量子の研究によって、現象なのかどうなのかの答えすら出ていなかった我々の思考ですら、物質によって引き起こされる運動だということが判明したわけで、例えば人間が肉体的に活動を停止したとしても、その『思考』は残った少量の物質によって保管され移動できるということがわかった」
「それはつまり、霊魂は実在する、みたいな話ですか?」
「まあな。あんたのいう霊魂の概念がどういうものかは、俺には伝わってこないが、たぶん似たようなものだろう。それで、その霊魂も存在し続けるためにはエネルギーの補充が必要だ」
「はあ……」
ここで僕は、忘れてしまっていた肝心なことを、何か心の奥に引っかかっていた大切なことを思い出せそうな気持になっていた。
ラジョウは語り続けた。
「ここは、その補充場所のひとつでね。それぞれの魂はこれから新しい場所へと移動し、そこで新たなる生命として誕生する。しかし、その場所に行きつくには非常に時間がかかる場合がある」
「そうなんですか、魂になってしまえば、どんな場所にでもひとっ跳びなのかと思っていました」
「とんでもない。魂もまた物質である以上、運動の早さには制限がある。光子でさえ、その移動速度には制限があるだろう?魂になったからといって、特異点を超えて別の空間に、または事象の地平面のその先に、なんてSFチックな甘いことを考えちゃいけない。物質的に希薄で、脆い構造で不安定なんだから、たちまちどこかの重力場に捉えられて押しつぶされた揚句に雲散霧消してしまう」
「てことは、黄泉路を旅するには三途の川を渡る六文銭より腹ごしらえの方が必要ってことですか?」
ラジョウはにんまり笑った。
「面白いこというねえ。そういうことかもしれないよ」
僕はようやく思い出した。
そうだ。
死んだのだ、僕は。
病院のベッドの上で。
早くもなく、遅くもない寿命だったような気がする。
「まあ、そういうことだ。いわゆる近場で転生する者は、ゼロではないがほとんどいない。それどころか、今までいた宇宙と同じ宇宙で転生する方が少ないようだ。君がいた宇宙を包括する宇宙の、そのまた外に位置する宇宙の中にある泡宇宙の中の一つの、更に辺境の銀河の中にある太陽系の中の惑星の一つ、といった、とてもとても遠い場所に移ることだってありうるわけだ。生前の記憶がなくなっているのは、そうした異郷の地までに旅する間、殆ど記憶が摩耗していくからなのだろうよ」
そういうものなのだろうか。
「ところでラジョウさん、あなたはここで何をしていらっしゃるのですか?」
「俺かい?君のようにここにきてもまだ自分がどうしていいかわからないような人に、こうして案内をしているのさ。君のような魂を亜魂という。ほっとくと彷徨い続けてしまい、次の世界への旅立ちの機会を喪失してしまうのだよ。君は何か、未練をもって死んでしまったようだが」
未練?心残りと言えば……。
「やはり病気の奥さんのことだろう?ふたりして病に苦しんでいたのは、確かに気の毒だった。ササヤマさんとしては、できたら奥さんを看取ってから死にたかったのだろうね」
不意に妻のことが思い起こされた。
胸が苦しい。もう死んでいるというのに。
「実は、君の奥さんは君を看取ってすぐに、亡くなってしまった。まるで安心したかのように」
「え?そうだったんですか?」
「ああ、君と同じように、奥さんも考えていたのだろうね。そしてこことは違う市場を経由して、君がとっくに旅立ったと信じ、彼女も自分の行くべき道へと旅立ったよ」
そうだったか……。
ひとことお礼を言いたかった。
そして、伝えたかった言葉があった。
「さあ、ササヤマさん。ここでエネルギーを補充して、次なる階梯への準備をするがいい。あの道の先が、その出発口だから」
「ラジョウさん、僕は本当はササヤマじゃなくて……」
「いいんだよ、君がササヤマだろうがササニシキだろうがコシヒカリだろうが、さしたる問題じゃない。今までの名は通過点までの個性をあらわす記号として、役割はもう終えたんだよ。もう忘れてしまえばいい。永い旅の果て、君はまた新しい生を得ることになるだろう」
僕は言われるがままに市場でエネルギーを補充した。
ここにあるすべての食材が、僕の観念によって描かれたものに過ぎず、他の人々はそれぞれの故郷で見てきた物の姿で見ているのだろう。
思考とは、自分に都合よく働くものなのだ。
僕は腹を満たすと、すっきりした気持ちで道の奥へと歩み始めた。
「お疲れさん、次の世界でも頑張ってな」
ラジョウの声は、暖かくて穏やかだった。
「ありがとう、ラジョウさん。またどこかで会えるといいですね」
「そうだな」
今はもう先に旅立ってはずの妻と、道の途中で出会えるかもしれないというワクワク感を覚えている。
もし会えたら、必ず彼女に伝えるのだ。
「ありがとう、いい人生をくれて。本当に、幸せだったよ。まるで、生まれる前から君のことを愛していたみたいだった」
と。
夢幻の市場 岡崎昂裕 @keitarobu
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