第34話 ルール
「やはり戻れと言われたか」
「私が自分で下した合理的な判断よ。ロビンたちに捕まる前に、全て洗いざらい話してもらう」
「逃げたいという無意識の意思は、根源的なものだと思うが。それに作用した理性というなら、その理性の持ち主は救いようの無い馬鹿だ」
「死者の声に従え、だったかしら。操り人形に何を言われても痛くも痒くも無いわ」
「操り人形に向ける復讐の銃口ほど虚しいものはないな」
「黙れ」
手首がなくなって、パルス銃のレールが剥き出しになった左腕を突き出す。そして左胸に狙いを定めたが、視界に赤文字で射出不可のサインが現れた。
「待て、一度冷静に話をしよう」
距離を保ったまま腕を下げないでいると、相手はジャケットの中に手を突っ込んで何かを探し始めた。布がめくれて、腰に携えられた自動小銃が露わになる。警戒するが、ポケットから取り出されたのは弾倉ではなく見覚えのある金属塊だった。
「忘れ物だ」
「要らない」
「その物騒な手に蓋をしろと言ってるんだ。彼らがここに向かっている。時間をかけたくない」
「人を躊躇いもなく撃った奴に私が従うと?」
「重傷を負わせるつもりはなかった。内臓は外した筈だ。ナイフは、その左腕と同じだ」
自分の意思ではない、と鬱陶しそうに自衛モジュールが埋め込まれているのであろう肘のあたりを軽く小突く。私はそれを見て、左腕へのコマンドを取り消してから尋ねた。どうせ威嚇にすらなっていないただの錘だ。容易く打ち負かす手段を失った私は相手の態度に飲まれて落ち着きを取り戻していた。
「彼らがここに向かっているとは?」
「優秀な行動員たちだ。私のミスだが、ここに来るのに痕跡を残しすぎた」
「誰かに手を出したの?」
「付き纏いを追い払って差し上げた」
ファイバーが飛び出し関節が乱雑に折れ曲がった使えない義手を投げてよこすので、畝の向こうに投げ捨てて距離を詰める。ただの案山子の腕と成り果てた金属筋を左にぶら下げているせいで、身体のバランスがいつもより悪い。
「はあ、そうやって」
暗くのっぺりとしたカバーの向こうから、目には見えない冷たい視線が私を審査してきた。見下ろす形になった事で笠の影が小さくなる。外部記憶装置ではなく生の脳の隅っこで発生した直感が、私が今までに何処かで出会った人物かも知れないと告げる。しかしそれ以上の情報はなかった。相手はすぐに笠のへりを掴んで顔を隠し、くぐもった声で人を侮辱する言葉を続けた。
「そうやって自分の殻すらも捨てるのか。個の最後の存在証明たる自由不意思を捨てようとした様に」
「皆そう言って私を非難するの、辞めてくれないかしら。FWチップを外したからと言って、生得的な精神場を捨てることにはならない。脳の経験や場が上書きされるでもない。敵がFWを介して潜在意識を表出させるかも知れなかったのだから......」
「そう言い訳ばかり出てくるのは、自分が消えてしまわないという確証がなかったからでは。違う? そうか、そうでないなら恐ろしいな、一体何があなたを変えてしまうのか、非常に恐ろしい」
やはり私を知る人物かと問いただそうとしたが、それを予感したか相手はくるりと私に背を向けて畝をひとつ跨いだ。モロコシがしなって通り道を作る。天文塔から遠ざかるように歩きながら、相手はゆっくりと話し始めた。
「ただ生理的拒否反応のせいであなたを否定したわけではない。我々は理性的だ。主観的経験に則り、人間の個たる所以は物理的な境界にあると考えている。場であろうが、心臓であろうが、皮膚であろうが、それは関係ない。我々の共感を許さないのは、その境界に他者の侵入を許す傷を自らつける行為だ。あなたは天然痘保管室での仕事中に徐に防護服を脱ぎだし、瘡蓋を剥がすような人間を好きになれるか」
話が途切れる前に、思わず嘲笑ってしまう。
「ここが? 天然痘の保管室?」
「人の主観に侵入するウイルスの保管室なら、効果があるワクチンが理論上存在しない分さらに酷い」
私はその言葉に、髪の毛で耳の裏をくすぐられるような違和感を感じた。こいつが、煽動犯ではないのか。煽動犯こそが、主観的経験のハッキングという完全犯罪に手を染めたウイルスではないのか。
そうだ、この人物に問わなければならない。ウイルスであるのならば、ゾフィーが完成させようとした精神場理論の真実を、意識のハードプロブレムの解を知っている筈なのだから。
いや、駄目だ。まったくその気配が感じられない。
「そのウイルスは......」
そもそも、自己増殖手段を持たないウイルスが、その温床で瘡蓋を剥がす生物をなぜ嫌悪するのか、理解ができない。
「煽動犯は、お前なのか?」
「さすがは、正しい質問だ。ラフカ博士」
いつの間にか、先ほど揉み合いになった採光窓の辺りまで戻ってきていた。踏み倒された植物が飛散させた汁の匂いが上昇気流に乗って舞い上がる。落下防止索の切れた整備通路の向こう側では、硬化泡で封じられた動物繁殖実験場の検疫施設が薄暗い影を落としていた。セレスト居住部を窓越しに見下ろすと、アルカリ溶液を運搬するドローンたちがロープに吊るされて渡るのが見えた。窓板までの高さを知り、思わず足がすくむ。
「情報総局の読みはある意味で正しい。彼らが追う煽動犯とは私のことで間違いない。しかし私を捕まえたところで事が解決するわけではない」
先ほどここから落ちたことを忘れたかのように身を乗り出して下を覗きながら、マスク顔が再び口を開いた。
「それは私が煽動犯そのものではなく、煽動犯に支配されたオートマンだからだ。しかし間違えてはならないのは、だからといって真の煽動犯を探さねばならぬという訳ではないということだ。理由は単純だ。その黒幕の存在は私の実体的主観の中にあるのだから、確かに私が煽動犯なのだ」
私が理解するのを待つ沈黙が生じた。私はしばらく考えたふりをして先を促す。
「オートマン、何処かで聞いた言い回しね」
「ああ、ストレンジのやつが言ったんだな」
「ええ、ええそうね。確かケベデもまた別の煽動犯に操られたオートマンだと」
「......奴の口が永久に閉ざされたのは幸運だったな」
今度は全く理由のわからない沈黙が流れた。電源の切られたロボットのように、風に捲れる布以外の全ての動きを止めて、私を無意味に苛立たせる。敵であるはずの相手に無意識に抱いていた自白への期待が自分でも認識できるようになり、話を聞くだけなら従わせてからでも可能だと、脳内のスパイプログラムが囁き始める。
まさか、私の衝動が抑え切れなくなるまでなにも話さないつもりか?
痺れを切らしかけたその時、奴の手が目にも止まらぬ速さで腰に提げていた小銃へと伸びた。
「聞いていたよりも早いな」
大きな黒い覗き穴の睨む先を追う。大きな葉に隠れて、微細な穴を開けた板を背負う花粉媒介虫拠点ドローンが6本の節足を無音で動かしながら迫っていた。整備タグが貼られたままだ。
「いや、早すぎる」
そう呟いて冷静に片手で銃を構える。特に狙うこともせずその引き金に指をかけると、割れたガラスで人を殴るような暴力的な破裂音が続いた。そしてドローンが倒れたのを見届けて、私が足を踏み出すよりも早く、その鈍く赤に発光する銃口を私の方へと向けた。赤は目の前で完全な円を描く。
「撃つ気はない。いや、撃つことは私の干渉された不意思が許さない。だが従え。博士の不意思もまたそれを拒むことを許さないはずだ」
「何のためにこんなことを?」
「その説明は無しだ。走れ、繁殖場で時間を稼ぐ」
背を押されて金網の上を走らされる。下は見ないようにする。泡だけで固められた扉は、助走なく肩をぶつけただけで簡単に奥に開いた。
「博士は、幽霊や宇宙人といった存在を信じるか」
元が何であったのかを知りたくもない、網に包まれていることでかろうじて形を保っている立方体が積み上げられたただ広い空間を、正体が分からないマスク顔と暫く走る。時々、橙の作業灯が廃棄物に挟まれて出来た通路を照らしているだけの暗い空間だった。そんな中でいきなり怪しげな単語を口にしたものだから、思わず足を止めてしまう。
「例え話でしょう?」
「そう願いたい。ただ、今このセレストが直面する出来事を説明するには、幾つか、どうしても必要な概念がある」
「......カルト集団の妄信に翻弄されているだけなら、いつでもその錆びた銃を奪って腐った脳みそを撃ち抜いてあげるわ」
「カルトと打ち捨てれば後に後悔することになる。それが個人的な復讐心に従うものならなおのこと」
「どうしてそんな事まで!」
入ってきた方向とは反対から、重たい何かが倒れる音がした。私たちが立つ通路に一筋の白い光が差し込み、その方角に合わせてすぐさま白煙が伸びる。私はその隙に銃を奪おうとしたが、足を掬われてカビまみれの毛皮の山に顔を突っ込む羽目になった。あまりの悪臭に嗅覚器官が勝手に信号を遮断する。そして髪を引かれる痛みを感じると、気がつけば物陰に押し込まれていた。肋骨の上に膝が乗り、うまく声を出す事ができない。
「いいか、必要なルールだけ教える。あとは勝手に連中の元に戻るなりなんなり好きなようにすればいい。どんなに決められた意思に抗ったところで、あなたが彼の望む選択をすることは分かっている。ただ今は、自分が成すべきことを正しく頭に叩き込め。これが最後の機会だ。次に会った時は必ずどちらか一方が死ぬのだから」
返事をしようとして、口から乾いた息だけが漏れる。胸を押さえつける力が少し弱まる。
「第一のルール、その時が来るまでこれから話すことを他人に知られてはならない」
「ふざ、けないで」
「第二のルール、誰よりも先に、これから話す条件に適合した人物を探すこと」
「ゲームか、何かのつもり......?」
「第三のルール、誰にも自分がプレイヤーであることを知られてはならない。私は例外だ。その理由はいずれわかるから今は気にするな。そして最後のルール、いついかなる時も自分だけが支配できる不意思が存在することを忘れてはいけない」
無数の金属足が柔らかな土の地面を振動させた。
「探さなければいけない人物だが」
橙の作業灯が点滅し、棚に備え付けられたドローンの誘導灯が矢印を描いて隙間という隙間を指し示し始めた。突然足が離れ、深く息をする。鼓動が収まらないうちに、マスク顔は私の手を乱暴に引いて無理やり立ち上がらせた。
「一旦、逃げたほうが良さそうだ」
--侵入者の拘束を許可されています--
「走れ!」
--速やかに立ち入り禁止区画から消えなさい--
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