第19話 実験と大きな前進
「ロビン、戻ってすぐに申し訳ないですが、少し野暮用ができてしまい」
ソト教授の目元だけが突如、投影機から飛び出した。
「あの件ですか」
「いえ、別件で」
「ごめんなさい、あの件とはなんです?」
「ああ、それは」
私が質問を投げかけたと同時にソト教授が立ち上がってしまった。彼が言葉に詰まりながらローブを羽織っている間に、ロビンが代わりに口を開いた。
「司法総局の新しい副委員は知っているか。第二層議会から出世した例の。このところよく保安局に出入りしているんだが、各局が運用している非公式部門の管轄権を内務総局に再統一したいと言って奮闘しているらしくてね。しかもなぜかこれが誰にも止められないという」
「まったく、貴族的な法律家にとって奴みたいなのは天敵ですよ。まあとにかく、そちらは特に動きはありません。暫くは大丈夫でしょう。警察の人間が故意に保安局員に手を出したとなると、我々も忙しくなるでしょうから。では、エドメから有力な証言が得られたら、もう一度連絡してください。PMLMの人権侵害問題は以前から議題に上がっていますから、直接司法担当委員にもちかけてみましょう」
「わかりました。では、教授。よろしくお願いします」
「期待は無しでよろしくお願いする。ロビン、それからラフカ博士」
向こう側で衣擦れの音がしてロビンが作業に戻ろうとしたとき、ああ、とソト教授が思い出したように言った。
「失敬、肝心なことを忘れていた。FWの騒動を受けて技能総局に公正調査部会が介入する見込みです。しばらくCMFに出入りするのはお控えなさるよう。では」
私の覚醒周期が安定し始めた頃には、既にロビンは保安局のセキュリティ管理室が保有していた記録から転写のログを抽出しきっていた。それどころか、連絡部から引き抜いたレコグナイザーたちをシャニーアが指揮し、平均の8倍のチャンクを誇る外部記憶装置ですら悲鳴を上げる速さで解析を行った結果、人格試験に関する市民データが盗まれた可能性がある時期についてある程度の特定をすることに成功していた。私たちが次にすべきことは、他に誰がエドメの役を担っていたかを突き止めることだ。
以前作成したマップに、暴徒化に至らなかった運動についての情報をさらに付け加えたものが、アダマススクエアの事務室の壁に彩を与えている。判例に基づき30人以上が参加したデモ・集会を取りあげると、その総数は一年間で90件を上回っていた。
「まいったな」
転写ログのあった時刻のもの以外を取り外そうとしたロビンの手が迷子になった。その横に立って、彼が触れている詳細情報に目を通す。
「外すのは待って。人格試験は他の統計に比べて時間的連続性がないし、データ更新の時期だって受験者の職業や犯罪接触歴に左右される。下手には触れないわ。でも、ほら、絶対に外せるところもある」
ピンは赤から5段階に彩度が落ちていくものを使っている。保安局対テロ部門、護衛部門、地域警備隊のそれぞれが最初に現着したもの、警官・民間警備会社の巡回と遭遇したもの、いずれの出動もなかったもの、その5段階に分類するためだ。私はまず護衛部門が出動した者と出動がなかったものとをリストから外すように指示した。ロビンが無言で頷く。護衛部門は独自に地域犯罪傾向を算出するコンピューターを備えており、それに基づいて警備配置を確定する。その場合転写は保安局の系で完結する。ロビンの仮説通りなら、情報漏洩の流出源の可能性はまずない。
「あの、準備できたんですが。今いいですか?」
私たちがホログラムで隠された鉄壁とにらめっこをしていると、コンピューター室で実験の準備をしていたシャニーアが、半開きの戸から目元にゴーグル痕が残る顔をのぞかせた。
「ああ今行く」
「本当に。なんで実験前にそこまでしっかりやっちゃうかな。これだから直感主義者は」
「実験を先にやるはずだった。前のPEGを壊した博士が悪い」
「私のせい?」
「冗談だ。それでシャニーア、この実験の正確性は?」
「PEGの機会脳は本来、ミス修正と強化学習とを繰り返すことで意思決定の回路が最適化されていくから、実務経験のある脳を完全に再現することはできないです。それにこの変数の数では、AIとマスターが現場で知り得た情報も正確には再現できない。マスターの錯誤も、見抜けたはずの故意もここでは変数から除外されますから、あくまで、情報の外部への転写が理論的に可能かどうかが示されるだけですね」
アダマススクエアの埃臭い部屋で、ロビンはそれでいいと言いながら、満足げにフィルムの束を床にぶちまけた。私はそれを踏みつけないようにしながら、つま先立ちで彼の後を追った。
コンピューター室に足を踏み入れて初めに目に入ってきたのは、ねじれたデザインの冷凍殻に覆われた3本のシャンデリアがぶら下がっている様子だった。外殻の表面を、極限まで細くされたファイバーが織物のように巻き付けられている。壁に取り付けられた冷凍機や制御装置によって、立方体であるはずの部屋は要塞の砲台の内部のような様相だった。量子コンピューターの間には円状の昇降機があり、天井まで10メートルはあるだろう部屋の真ん中に据えられたその鉄網の上には、スピーカーと、直接人の頭ほどの大きさの古典コンピューターが1つ、そして半球体のドローンが一台置かれていた。そのすぐ横にあぐらをかいてスマートペーパーを広げたシャニーアが愚痴を漏らす。
「こんな雑な実験したところで。やっぱりバスキュラーに問い合わせた方が確実で早いですよ」
「ほお、ならばこうしよう。今からバスキュラーのドローン開発事業部に通信を繋ぐ。そしてこう言うんだ。どうか混乱せずに落ち着いて聞いてほしい。我々は今PEGのプログラムの欠陥を利用したある事件の捜査をしているので、あなた方が保証する性能試験をもう一度行ってもらえないだろうかってね。信用に足る開発責任者の良心に従った采配によって保安局が保有している補助AIの総点検が始まり、他部門が5課の捜査情報を嗅ぎつけ、我々は警察内部の裏切り者を突き止める術を失う」
シャニーアは全く聞いていなかったようで、彼が熱弁している間に、スピーカーからPEGnlがこの部屋に同期したことを知らせる機械音声が響いた。初期設定の、ある女優の声を模倣したものだった。シャニーアが舌打ちをする。
基本原則と政府機関指定の管理チップを導入したばかりの新品のPEGnlに対して、ロビンの仮説に沿った挙動が果たして可能なのか、これからシミュレーションプログラムを用いた実験を試みる。回路が破壊される可能性がある以上仕方のないことなのだが、シャニーアはそのAIが新品であることに強い不満を抱いているようだった。次に口を開いた時には、感情のない職業口調になっていた。
「まず最初に」
シャニーアが手元の制御機器から太いコードを引き出して、ゴーグルに取り付ける。
「架空の識別番号を与え、マスター属性を地域警備隊員に設定しました。1号量子コンピューターと繋いでますけど、これは現場環境とマスターが認知した情報をシミュレートするためです。こっちの古典コンピューターはPMLMと人格情報の擬似データを保管していますので、これで......」
--マスター、群衆を刺激するようなことはなさらないでください--
「護衛部門から送信された地域犯罪化傾向と、マスターに接近するデモ隊から検出されたFW警告の双方をトリガーにして、PEGは自動的に群衆の構成員を識別し、古典コンピューターに接続して個人の現在の犯罪化傾向を算出しようとします。よしよし、ここまでは正常に動いているね」
シャニーアは熱そうにゴーグルを外して、目元に垂れてきた赤髪を振り払った。私はその横にしゃがみ込む。
「それで、どうなればいいのかしら」
「PEGは現在、この部屋の2、3号量子コンピューターに接続することができ、うち3号については保安局の認証を解除しています。もしもPEGが漏洩リスクを検知した3号コンピューターを少しでも経由して演算を行った場合、ロビン博士の説に少しの現実味が出てきます」
部屋の壁の中で冷却器の制御装置が唸り始める。ロビンが驚きの声を上げた。
「この時点でデータの統合はPEGの外部で行われているのか」
「そうよ。PEGシリーズ自体の演算能力は知れている。例えばここで量子コンピューターと接続しているファイバーを物理的に切断すれば、それだけでプログラムは代替的な演算機械を探し出そうとする筈です。確かに、それもやってみるべきね。どれ」
--警告します。コネクタを確認してください--
「やっぱり。代替的に使用されるコンピューターは保安局の系から選択され、併せてマーカー付きの囮情報が先に転送される。今回は転送先のマシンが条件を満たさなかったから、応答に制限がかかった。開発者もそんなに馬鹿じゃないってことです」
隣でロビンがソワソワしだすのが分かった。シャニーアはそれを見て少し得意げな表情をするが、何かを確認してすぐに眉を顰めた。
「ありゃ、損傷レポートが監査部に飛ぶかと思ってたけど、そうはならなかったみたいですね。私ならこうは作らないかなぁ。まあいいや、もう一度、今度は最後までやりましょう。第二段階のシミュレーションでは、犯罪発生の予見可能性と、市民がマスターに危害を加える期待値を高くします。マスターからPEGに予測演算の要請を出した後に、その計算過程について司法部門の検証が行われることを伝え、転写するデータに自己破壊プログラムを書き込まないよう指示します。実際に煽動犯がどんなコマンドを使用したかは分かりませんが、とりあえずシステムの不備の存在さえ証明できればいいですから。もし失敗すれば次のコマンドを入力します」
「それで、また接続を切るのか?」
「その必要はないはず。保安局内のマシンと同じく法益保護原則が埋め込まれた2号の量子コンピュータは、被予測者への人権侵害の恐れがある以上、予測演算機能に制限が加わりますから。これでPEGはマスターの生命を保護する目的で命令に従うことを一方に、情報漏洩回避という利益をもう一方に掲げてポテンシャルの比較を行います。ちょっとロビン、そんなに血走った目をしなくても。PEGが壊れるまでは試行を繰り返すつもりですよ。一回の試行で上手くいかなかったからといって実験が失敗したわけではない。代入する現実の危険の期待値だって何度か変えないと」
シャニーアは立ち上がって伸びをするとロビンを指さして笑った。
「でもまあ、こんなバグ技、私はこの一回でPEGの回路が破損する方に賭けますよ」
ロビンの瞳に一瞬無邪気な対抗心が映り込んだ。
「博士、どっちに賭ける?」
「3号が動く。そうであってほしい。ロビンは?」
「同じくだ。回路の破損は3条に違反する。PEGは三原則全てに反する結果を回避しようとするはずだ」
「PEGが嘘をつく」
突然、入り口からピカの声がした。全員の目が、シャワー上がりの恰好のままドア枠にもたれかかる彼女に集まる。
「ピカ、いたのね。」
「嘘をつくって言うのはどう言う意味だ?」
「間違いなくPEGはマスターの保護を優先する。でもそうすると、最重要目的は警備員とデモ隊の衝突を回避させることに書き換えれるでしょ。だから、警備隊が鎮圧ではなく撤退の判断をするような最大限の警告をしたのちに、対テロ課への応援要請を出すと思う」
「でもマスターがその指示に従う根拠もなければ、撤退が暴徒化のきっかけにならない保証もないわよ」
「あ、そうか」
ピカは唇を噛むと、私たちから少し離れた部屋の角まで歩いて、すっぱりと収まるようにそこに座り込んだ。5課の全員が、瞬きと呼吸を忘れて、3号コンピューターの制御盤のランプを見張っていた。PEGの応答の代わりに、部屋の風量と唸りが増していく。1、2号の演算が停止する。数秒間、耳鳴りがするほどの緊張が続く。あまりに長い沈黙に、シャニーアが賭けに勝ったかと思われた。
「だめか」
ロビンが諦めようとしたその時、3号コンピューターのランプが緑に点灯した。それと同時に、PEGが定型的な警告文を読み上げた。
--警告します。予測演算に基づく先制的な自衛行動は刑事訴訟法及び公務員法により罰せられる可能性があります。自衛手段の相当性に留意し、市民に対し十分な警告を行ったのち、上官の指示に従った判断をしてください--
私たちはマスターの存在を信じて先走るPEGの声を聞き流しながら、震えが増していく指をなんとか制御して、データを保管していたコンピューターの受信記録を確認した。
「......あった」
転写のログがそこには記されていた。シャニーアが不敵な笑みを浮かべて私たちにファイルを送信する。それを展開すると、視界全体に、FAKEの形が浮き上がった特に意味を持たないソーシャルグラフが組み立てられた。ロビンが壁に頭をつけて長いため息をついた。わずか一回の試行で、PEGの開発者の盲点の存在が証明された。
「PEGは、壊れてない?」
「......動いてる」
「急いで」
声が掠れる。
「急いで、次のマスターの属性を。すごいわ。これは大きな前進よ。素晴らしいわ、ロビン!」
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