第18話 三原則の罠

 PMLM(光位置情報確認制度)演算結果報告書、それがソト教授から私達に転送されてきた資料だった。PMLMは司法総局が独立して運営する、FWシステムのひとつの柱だ。更生プログラム参加者の監視制度としてセレスト進水とともに運用が開始されたそれは、司法部門が内務総局から分離した際に、犯罪接触市民の行動歴を記録する機能を持つようになった。ソト教授も何やらわかっていないという様子で、唇に手を当てたまま固まっている。


「それで、煽動犯は何を隠そうとしていたのかしら、ロビン」


 新しい義眼に送られてきた大量のプログラムを高速で流しながら、それが徐々に作り上げていくソーシャルグラフのようなものに必死に目を凝らした。その交点の数は無限にも思える。網目は特定の幾何学的模様に落ち着くことなく、分裂を繰り返す癌細胞のように、掴みどころのない規則性と共に姿を変え続けた。二次元グラフであると言うことと、点と点が線で繋がれているところ以外は、昔研究室で見たいくつかの心理学分野の簡易シミュレーションによく似ていた。


「ん、ああ。そうだな、その行為単体ではおそらくなんの意味もなさないことだ」


 ソト教授は肘掛けから身を乗り出して、現実にはその隣には居ないロビンに次のヒントを求めた。


「暴動でカムフラージュされた本命の犯罪の、そのさらに準備的な犯罪ということですか」


「かもしれないですね。少なくとも、犯人は行為時点から法益が侵害されるまでの間に大きな時差を作り出すことが可能だった。それから、もし実害が生じたとしても、その被害者は自力での解決を図ろうとするでしょうな」


 ロビンは目線を高く上げ、何かを概観しながら指を忙しなく動かしていた。しかしすぐに何かに気づいた様子で、鼻息を鳴らしながら俯いた。このまま自分の世界に入り切ってしまう前にと、私は彼を急かす。


「勿体ぶらないで。なぞなぞは苦手なの」


「ふん、一昨日の博士の一言がヒントになったんだがな」


 一昨日、私が彼に何を言ったのか生の海馬を点検していると、突然ロビンが口調を荒くして教授を問い詰めた。


「ところで教授、これは半年前のものでは?」


「ええ、そうですが」


「俺は何度も、最新の演算結果を用意していただきたいと」


「これが、お渡しできる最新のものですが」


「いや、違う。リアルタイムのものがあるはずだ」


「き、君ねえ。憲章違反だよ、それは。今あなた方に見せているこれだって、情報自由法の適用外ですし。司法総局が5課の実体を認識してしまったら、せっかくここまできた捜査もどうなるか」


 教授も負けじと応戦する。このときの私には、教授が有利に思えた。彼の役割は司法総局の動きを情報総局の連絡部に流すことだ。確証の無い仮説を検証することの利益と、エドメを捕らえた今、純粋な捜査によって見込める利益とを比較すれば、隠密性と慎重性が優先されるのは至極当然の結論だった。


 反駁の代わりに、ロビンが独自に展開したグラフの映像が、私たちが必死に覗き込んでいる投影機の中にアップされた。それは私の視界を占領しているものとはかけ離れた形をとっていた。定期人格試験により算出された個人の理性強度が、平面を埋め尽くしていた点を面に垂直に巻き上げていく。グラフの変化はより変則的に、かつ時間的な連続性を伴わないものになる。それを記憶装置に読み込もうとすると、私の左目から突然全てのシグナルが消滅して、しばらく生身の眼球と同じ景色を見せた。


「教授。まさに、これが盗まれたんですよ」


 ロビンの声に熱がこもる。


「......盗まれた」


「情報漏洩。それが暴動に隠されたもう一つの事件だ。煽動犯はどうやって暴徒化リスクのある市民を特定したのか。なぜミケルの時だけ煽動の痕跡が残るような真似をしたのか。煽動犯が司法総局や保安局から個人データを盗み出していたとすると、これらの問いに説明がつく。そしてランダム化、つまり幇助としての暴動ではなくなった今も情報が盗まれているのなら、奴が盗んでいる情報は一体なにか。なぜそれがまだ社会に流出しないのか。こうしている間にも、奴は脅迫と資金調達を繰り返しているかもしれない。最新のデータじゃないと、奴に遅れをとることになる」


 ソト教授の顔から一気に血の気がなくなる。しかし暫く短く剃られた髭を撫でていたかと思えば、驚くほど冷静な声で、さらなる反論を繰り出した。


「なるほど。ですが、その恐れはありませんよ。司法総局の誰もリアルタイムのデータへのアクセス権限をもっていないのですから、この世の誰からも聞き出すことはできません。CMF社で集約される時だって、情報は量子鍵に保護されています。FWの機械学習に利用されるのは、お手元のそれと同じく、半年間のラグがあるデータですから」


「本当にそうですか、ソト教授?」


「そうですよ」


「そうですか。ではラフカ博士、あなたはどうだ。捜査の中で、リアルタイムの市民位置情報を必要としたことがあったはず」


 私はまだソト教授の側に立っていた。ロビンの作り出した怪奇なグラフを見て、もはやそれを理解しようとする心が残っていなかった。


「いいえ。私の脳では、このレベルの演算は処理し切れない」


「いや、でも博士は確かに、この情報を照会したことがある」


 ロビンは苛立ちの中にこの場をリードしている優越感を滲ませながら、突然滑舌を良くして勢いよく捲し立てた。


「人間の脳で再演算することは不可能かもしれない。だが、ならばデモ隊に参加している個人の識別子から犯罪化傾向をリアルタイムで算出できるのは何故だろう。やはり演算のどこかのタイミングで何者かが、情報総局、そして保安局と司法総局とに分散させた個人データを統合させているはずだ。その答えとして、PEGシリーズなど、保安局の補助AIはどうだろう。あるいはその使用権限が委譲された執行部隊の識別ツールでもいい。PMLMと保安局の個人情報データベースに継続的に接続し、現場から与えられた情報をその母体コンピューターに転送し、その演算能力の一部を借りれば、現実から僅かに遅れはするものの、今目の前に映っている秘密情報の一部をほぼリアルタイムで再現することが可能であるはずでは?」


「ええ」


 私は言い淀んだ。


「ええ、確かにPEGは情報総局と保安局のシステムと繋がっているわ。でも私たちがPEGシリーズから知り得るのは、犯罪化傾向、あるいは犯罪接触歴の有無よ。はい、いいえの2択の情報にそれほどの価値があるとは到底思えない」


「言い切ったな。なら博士は、ペグにその計算過程を示すよう指示してみたことはあるか?」


「ないわ」


「遮ってすまない。しかしロビン博士、それはできないでしょう。私はロボット工学の専門家では無いが、補助AIが自発的に、捜査官への情報開示許可を出す意思決定をするなど。それに透明性原則の例外規定が適用され、システム間を移動したデータは受信側の演算処理が終わると同時に破壊されるはず」


 ソト教授は私たちのやり取りに自信ありげに割って入ったが、それを言い終わってすぐに数秒間、口を開けたまま黙り込んだ。ロビンは静かに彼の続きの言葉を待っていた。


「いや、そんなことが可能であっては困る」


「何がです?」


「いや、暴動の話となれば、機械脳は治安維持に赴いた警備隊員の保護要請に強いポテンシャルを有するようになるのか。犯罪化傾向の未来予想のために、別の演算機へのデータの転写を命じられたとすれば、それがもっとも合理的な解である場合であれば......」


「その通り。実験が必要ですが、俺の考えは今教授が言ったこととほぼ同じです。その根拠として、今この病院に収容されている実行犯は警察の人間です。それこそ、目の前の市民について現実に暴徒化の恐れのある現場に配置されるのですから、そうしたトリックをこなすのにはうってつけの人間でしょう!」


 ロビンはそこまで言い切ってから、思い出したかのようにいつもの不機嫌そうな表情に戻ると、映像の外で脚をさすりながら呻き声を上げた。彼の仮説は、覆されうる点はいくつもあるものの、一応の筋は通っているようだった。それをさらに裏付けるにはどうするか。


「その仮説通りなら、暴動発生時刻の付近のPMLMの記録をみたいわね。情報の転写コマンドを受信したログがあるはずだわ」


「その通り。ですのでソト教授、この直近半年のデータについても参照したいのですが」


「私はスパイでもハッカーでも無いのですが」


 教授は完全に頭を抱え込んでしまった。彼は表向きはただの刑法学者であり、審議会のメンバーであるにすぎない。ロビンの弁論は確かに彼の興味を引くことには成功したが、それでもまだその要求が無理難題であることには変わらなかった。一年半前から半年前までのシミュレーション結果をコピーしただけでもかなりの覚悟が必要だったはずだ。本来であれば、法社会学的な分析に必要な範囲でしかそのアクセス権は認められていないことだろう。


 教授がふと顔を上げて、ロビンの胸像が映っている方とは反対側を振り返った。私とロビンは期待を込めて彼の前向きな返事を待った。しかし彼はこちらを見ることもなく慌てて立ち上がり、通信終了という声と共に映像と音声が途切れた。


「少し、席を外してもよろしいですかな。客人が来たようです」


 私の視界の隅に小さく癖のある文字が浮かび上がって消えた。私たちは投影機の電源をつけたまま、思い思いに固まった身体を伸ばした。


「可能なら」


 ロビンが映像受信機の位置を移動させながら話し始めた。


「煽動犯が得られたかもしれないデータから一体何が予測できるのか、ケベデに頼み込んで演算してもらおうと思う。CMFの保管するデータはリアルタイムとはいかないが」


「十分だと思うわ。6ヶ月前なら、暴徒化した事例は4例ね。ケベデにはシャニーアからお願いしてもらいましょう。それから、教授が帰ってくるのを待つ間に、こちらでその周辺の転写要請の記録を洗いましょうか」


「おっと博士、さっきは言わなかったが、統計を見るときは空白にも気をつける必要があるぞ」


「というと?」


「暴徒化していない事件でも、警備隊が市民の犯罪傾向の開示請求をすることはある。例えばCMF本社で博士がそうしたように」


 ロビンはうんざりだと言わんばかりに無数の山脈と渓谷を描いていたグラフを掻き消して言った。そして平然と監査部門が管理する人格試験データベースのセキュリティ画面を映し出した。


「そう言えば保安局の情報も流出したとか言ってたわよね。そもそもなんでこんなこと思いついたのかしら?」


「博士が言ったんじゃないか。過去に保安局の情報漏洩騒ぎがあったって。新世代ハッカー、宇宙人。ただの都市伝説だと思っていたが、もしかすると、意外なところで繋がっていたりしてな」


 ロビンは大袈裟に驚いたようなフリをすると、急に黙りこくり、過去のアクセスのログに印をつける作業を始めた。私が手を出そうとすると彼の咳払いが聞こえた。仕方なく、ソト教授の居たところから治療室の壁が透けて見える投影機を、ぼんやりと眺めて時間を過ごした。静かさの中、ソト教授の元に突然訪れた訪問者について、何か漠然とした不安が私の中で蠢いていた。

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