第6話 4次元人
「先程は、申し訳ありませんでした」
「文鎮のことですかな? 貰い物ですよ、お気になさらず」
「いえ、それもそうなのですが」
「博士。謝罪よりも、これからのことでしょう。貴女はどうしたいのです?」
「......」
「どうしても、信用していただけませんか」
「やはり、どこかこの状況に違和感が拭えないのです。当然、あなたのせいであるとは限らないのですが」
「そうですか」
ケベデはあっさりと威圧的な態度をとるのをやめた。しかし部屋の扉が閉まっているのを確認すると、彼は突然昔話を始めた。あらかじめ用意していたかのように流暢に飛び出したそれは、さらに私の冷静な判断を奪う類のものだった。
「ゾフィーはレーダーの事故に巻き込まれる前に、一度ここに帰ってきていましてね」
「突然、何の話ですか......?」
彼は後ろ手を組んで私の前を通り過ぎると、先ほどまで見ていた写真立ての前に再び立った。悩んでいるようにその後ろを見続けたかと思うと、ふと指を動かして、それと同時に先ほどまでとは違う明るい写真が現れた。私は彼の後ろに立ってそれを見る。そこには、CMF社の中庭と思われる空間で、噴水を背景に若きゾフィーが閉じ込められていた。私の知らない、普通の笑みを浮かべた普通の研究者だった。何故かとても不快な気分にさせられた。
「貴女のもう一つの質問に、ちゃんと答えようとしているのです」
「それはもうどうでも」
「どうでもよくはありません。すっかり興奮して忘れていましたが、ここに貴女を呼んだもう一つの理由なのですから。ゾフィーから直接、もし貴女がここに辿り着くようなことがあれば、伝えて欲しいと言われていたことがあるのです」
「たぶん、それは今じゃないでしょう」
「決めつけてしまうのは良くない。彼女がいったいどこまで予見していたのか......貴女が16の時でした。ゾフィーは突然、回帰派の暴動で親を失ったラフカ少女を研究室に連れ帰ってきた。なにか共感するところがあったのでしょう」
「本当に、何のつもりですか?」
「しかしそれで終わりではなかった。彼女は、まるで何かに取り憑かれたかのように、貴女がセレスト随一の、物理心理学を基礎から覆すような学者になるのだと言って聞きませんでした。たとえそれが育て親の責任感からもたらされた無意識であったとしても、こうして見事に実現しているではないですか」
「ケベデさん、この話は、結構です」
「いえ、これは私の直感ですが、どうも今の貴女こそ聞かなければならないようだ。ラフカ博士、このような変動の中であなたも私もいずれ、心の存在を信じることができなくなる時が来るかもしれない」
私は腕を組んで長机にもたれかかった。ケベデは私の態度を確かめることもせず淡々と言葉をつづけた。部屋の天井を見上げると、そこにも照明を覆うように巨大な彫刻が吊り下げられていた。雨水を纏った蜘蛛の巣だろうか。貰いものであったとしても、やはりこの男は趣味が悪い。
「しかし、いかに心の性質が明らかになったとしても、誰かの意思はその人だけのものであると、ゾフィーは私にそう言いました。私もその通りだと思いますよ。ゾフィーが貴女にどのような仮説を遺したのか私は知りませんが、貴女が彼女の作り出した境遇に身をゆだねることなく、未来のための選択をしてほしいと望んでいた」
鼻で笑いそうになるのを寸前で止める。目線を元に戻すと、ケベデは私の方へと向き直っていた。相変わらず何を思っているのかをうまく掴むことができない。
「経験にとらわれず、過去を疑い続けろ。これが彼女のメッセージです。私の口からで申し訳ないが、あの時の彼女は貴女のことで後悔していました。どうです? 時間があまりありませんが、ゾフィー自身の話でも」
「無意味な伝言をありがとうございます。でも残念ながら、それはゾフィーの本心ではあり得ない。あなたも気づいているはずです。そのとき彼女は......」
「ゾフィーは、決定論者だったはずでは?」
「......精神場の観測、でしたね」
私は先ほどまでと打って変わってオドオドとする彼の言葉を無視し、ガラス片を踏まないように部屋の最奥まで進んだ。彼は信用するには情緒が不安定過ぎる。しかしおそらく私の方もそのように見られている。彼に顔を覗かれないようにして、機械では抑えきれない手汗を止めるために深呼吸をする。もう彼に流されないように、落ち着いて、自分を俯瞰的に見なければならない。ケベデは後ろをゆっくりと着いてくる。それは私を引き止めるか悩んでいるようでありながら、隠し切れていない期待感を私の背に浴びせていた。
「精神場仮説はもともと地球の1人の学者が提唱したものです。準備電位の発見と自由意思の否定から始まったそれは、太陽系文明の膨大な人口と、量子演算機の進化、倫理と時間を犠牲にした均一化社会によって、FWシステムとしてマクロに発展を遂げた。この技術を人類が許してきたのは、いかに理論が積み重ねられようと、内在的に検証が不可能であるとされてきた一つの原則があったからです。
精神場には3つの性質があります。第一に脳活動が発生させた経験の統合、そして第二に、自由不意思(FW)、つまり理性を発生させ無意識の意思に影響を与えるということ。これらは既に確かであると示されています。第三に、これらの活動は物質的に還元できないということです。第三の性質は特に厳格なものです。物質的還元とは、精神場に対応する主観的経験以外の一切の観測手段を意味するのですから。この第三の原則は基本的に理論の提唱当時から手を加えられたことはなく、当然、できなかったというのが正確な表現なのでしょうが、FWのみならずあらゆる心理学の根幹としてその地位を確立してきました。
精神場そのものの観測が主観でしかできないということは、非決定論と親和性が高く、また非常に大きな政府と化した太陽系連邦にとって個人の意思への不可侵性を絶対的に保護するという意味で非常に扱いやすいものでした。それはセレストにおいても同じです。それゆえ、物理心理学は実質的に統計学の分野へと追いやられ、精神場というブラックボックスの解明という理念はタブーとなったといえるでしょう」
「ええ、その辺りのことは私もよく理解しているところです」
「そうでしょうね。ところがこの人権意識を守り通した帰結として、誰も煽動犯の存在を否定できないこの状況が生まれてしまったといえるのでしょうね。そしてそのような犯罪者がもし存在するのなら、我々研究者は当然大きな後れを取っている。こうして情報総局がすがった先にあったのが、あなたの想定通り、ゾフィーが最後に手掛けていたある未完の論文だったのです」
私はそこで長机の端を指さした。机の表面に大きく、CMFの文字とシータの形によく似た模様が彫られていた。CMF社のシンボルマークであるファラデーの電磁回転装置だ。
「ところで、いかにタブーと言えど、このあまりにも有名な問題は何世代にもわたって科学者たちの心をつかんで離しませんでした。あくまで不可侵性を科学的に示すという目的の下で、ですが。例えば、精神場が医療行為の一環では観測できない電磁場の一種であるというバカげた説がその成果ですね。そのような人間が量子暗号が普及するよりも以前にどのように日々の生活を送っていたのか是非とも尋ねたいところですが、気持ちはわかります。確かに精神場それ自体がよく電磁場に例えられる性質を有しているはずですからね」
ケベデは苦笑いをしている。冗談に付き合ってくれる気はないようだ。その色の落ちた瞳は私に早く続きをと訴えていた。合金で覆われたその溝に溜まった埃を指で掬って、横に置かれていた壊れた懐中時計を手に取り、話をゾフィーの新理論へと戻す。
「このように、従来の研究は、精神場が観測できない理由を場そのものの性質にあると仮定して進められてきました。しかしマディソンでの研究の中で、ゾフィーと私はそのアプローチに少なからず限界を感じていたのです。そこで私たちは精神場自体は物質的に観測可能であるという前提を置き、精神場が観測不能な領域に格納されているのではないかという仮説をもとに理論上の検証を繰り返しました」
「それが、ゾフィーの新仮説とどのように関わりが?」
「根本のアイデアは今示したものと同じなのです。しかし私たちはすぐに一つの壁に当たりました。4次元時空と余剰次元への格納を想定した時、未解決である階層性の問題がその先の検討を許してはくれなかった。このことは連名で論文に纏めたものの、将来的に想定される検証手段も乏しく発表には至りませんでした。FW装置が収集したデータの提供元である情報総局と、ごく一部の教授の間にしか知られることがなかったのは、今思えば幸運であったのかもしれませんね」
「しかしそれでは結局のところ、新たな発想が得られたというだけで、従来の研究によって示された限界から大して変わらないではありませんか」
「まさに、そうなのです。ところで、この説は会見の原稿に盛り込む予定はありますか」
「いえ、あくまで博士のお話に一考の価値があると私が判断した場合、CMFが独自に研究結果を公開するという文言を付け足すつもりでしたが......」
「私たちの望み通りです、その方針のままでお願いできますか。これから話すことは、権威が公に口にすると捜査上の支障になりかねないので」
「なるほど、まだ続きがあるのですね」
「ええ。ゾフィーは研究の失敗に意気消沈してしばらく教壇を離れていたわけですが、情報省の推薦によって探査隊への参加が決まったころ、実は誰も知らない間に2本の原稿を書いていました。1つは私も相談を受けたもので、計画の噂を聞きつけたマイナー雑誌から依頼されたものでした。しかしもう1つ、レーダーの事故の後、情報総局から私の下へ解読依頼として、無題の草稿が送られてきたのです」
「それはいったい」
私は手元の時計を軽く振ってみせた。止まっていた秒針が微かに揺れて乾いた音を立てる。ケベデはそれをじっと目で追った。しかし答えは導き出せなかったようだ。
「時間ですよ」
「時間、ですか」
「ええ。精神場が重力波によるものであり、時間のなかに格納されているのだと」
「なぜそう特定して示せたのです?」
「現状の観測不可能性、重力がニューロン活動へ与えうる影響、階層性問題......確かに理論上非常に都合がいい、以前の研究でも有力な仮説の一つでした。そして最も大切なのは、精神場のパラドクスと違い、これらは観測の方法が分かっていないだけだということです。しかしそれゆえその立証は困難を極めていたはず」
「ええ。太陽系文明時代の目覚ましい宇宙物理学の発展をもってしても、依然残った難題ばかりですからね。しかしそれをテーマに論文を書いたということは」
「新発見か、あるいはゾフィーの頭が完全におかしくなってしまったか」
「それで、どっちだったんです」
「後者ですよ。私に言わせれば彼女の宇宙への関心は趣味のようなものでしたし、実際彼女の草稿はまるで再現可能性というものがなかった。しまいには自由不意思の存在を根拠もなく否定する始末。私は情報省の文書保管室に侵入してそれが検閲されたものでないか確かめたのですよ。しかし記されていたのはやはり仮説と結論、取ってつけたような懸念事項だけ」
「しかし何かしら根拠は記されているものだと思うのですが」
「ええ。しかし結局主観による観測に依存していた、皮肉な内容でした」
「お聞かせ願えませんか」
「まあ、捜査とは関係がありませんしいいでしょう。根拠は彼女の動機として示されていました。彼女は、彼女自身が経験したデジャブを説明しようとしたのです」
「デジャブ、ですか」
「デジャブです」
「それは......ゾフィーは、なにか確信を持つような、何と言いますか、未来を見たと言っているのですか」
「さあ」
「どうなんです」
「私にはそこまでは」
そこまで言って、私の脳裏を一つの最悪な考えがよぎった。デジャブこそ、記憶と環境因子によって簡単に説明されてきた典型的な心理現象のはず。あり得ないと分かっていながら、渇いた口内にへばりついた舌を剥がして、何度目か分からない質問を繰り返した。
「やはり、なにか思い当たることがあるのでは?」
「いや......」
ひんやりと冷え込んだ部屋に不気味な沈黙が生まれたが、それは次の瞬間に中庭の方で響いた一発の銃声によって壊された。確実に保安局の装備ではなかった。私たちが顔を見合わせている間に、社長室の扉を誰かが激しく叩く。話は中断せざるを得なかった。私はペグを呼び出し、ケベデを連れて扉のすぐ横まで走った。壁に背を密着させて、足音を立てないよう誰かと壁一枚挟んだ位置まで移動する。そして腰のホルスターを探ってから、銃を預けていたことを思い出した。
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